5の4 離してやれない(エルヴィス)
エルヴィスが自身を諫めて苦笑した時、皇妃が小さな声で何かを呟いた。
「……ス……」
血色の悪い小さな唇から出た言葉は、誰かの名のようだ。
エルヴィスは思わず起き上がり、皇妃の美しい顔を両手で包み込んだ。
(俺の名か?)
一部分だけ聞こえたエルヴィスは、自分を呼んだのだろうかと期待した。
しかし――
「ハンス……」
もう一度皇妃の唇から漏れ出た囁きに、金の瞳が見開かれる。
エルヴィスはゆっくりと起き上がり、自分の真下で眠る皇妃を見下ろした。
「それがきみの恋人の名か?」
地を這うような低い響きだった。
それでエルヴィスにも、自分がかつてないほど動揺し、同時に必死に怒りを抑えているのだと自覚できた。
高熱にうなされている彼女は、幸せな夢の中を漂っているのだろう。ほんの少し口元が緩んでいて、エルヴィスは何かが弾けるような感覚を覚えた。
駄目だ、抑えろと頭の中で声がする。
しかし手は勝手に動き、皇妃の夜着のリボンを解いていた。
白い肌は瑞々しく、豊かに張り出した胸はエルヴィスを誘うかのようだ。
気づけばエルヴィスは、夢中で彼女の胸元に赤い痣を散らしていた。小さな唇から、「あ……」と甘い響きが漏れる。
(ここで俺のものにしてしまえばいい)
そうだ、何を迷っていたのだろう。
もう式は挙げたのだから、今ここで本当の妻にしてしまえばいいのだ。
だが欲望のまま柔らかな臀部に触れた瞬間、閃きのようにその声は振ってきた。
『あなたは、そんな人じゃない』
度数の低い酒で酔った皇妃が、ひとりごとのように囁いた言葉だ。
(くそっ……!)
エルヴィスは胸の内で毒づき、片手で髪をぐしゃりと掻きむしった。
長く息を吐き出してのろのろと横たわり、また皇妃を腕の中に抱える。
(ここで無理に彼女を抱いても、誰も幸せになれない)
『幸せになる』のは、ハラルトの最期の願いだ。だからエルヴィスは、弟の願いを叶えなければならない。
かつてこの城には、七人の少年がわいわいと賑やかに暮らしていた。エルヴィスの兄弟と、ザイオンの兄達だ。
元々エルヴィスは物静かな少年で、騒がしい兄達とは離れて過ごす事が多かった。
一人で剣の稽古や読書をしていると、決まってエルヴィスを探しに来るのがザイオンとハラルトだった。
『ほら、見つけた。やっぱりここだった』
木陰で本を読むエルヴィスを見つけたザイオンが、得意げな声で言う。
そんな時はいつも、彼の後ろからひょこりと顔を出したハラルトが『本当だ』と笑うのだった。
ザイオンは面倒見がよく、一人で過ごしがちなエルヴィスを心配していた。ハラルトは人懐っこい性格だったが、特に年の近いエルヴィスと一緒に過ごす事を好んだ。
今、大人になってから振り返ると、子どもの頃の自分はザイオンとハラルトに甘えていたと思う。
一人が好きなように見せかけて、本当に一人ぼっちだったら寂しくてたまらなかったはずだ。
エルヴィスは誰も来ないような場所で過ごしながらも、二人が自分を探しに来るのを待つような、甘ったれた子どもだった。
幼少期は何事もなく暮らしていたが、エルヴィスが十二歳を過ぎた頃から少しずつ問題が起き始めた。
なぜか父と兄が、弟達を魔獣討伐に連れて行かなくなったのだ。
『魔獣の討伐には俺達だけで行く。三人は城に残れ』
そう言う兄の表情は強張っていて、エルヴィスは子ども心に、まるで死を覚悟したような顔だと嫌な予感を覚えていた。
それでも何とか父と兄で討伐をこなしていたようだが、エルヴィスが十八になった頃、とうとう悲劇は起きた。
その日エルヴィスとザイオンとハラルトは、待っていろという兄達の言葉を無視して、こっそりと彼らを尾行していた。
バレたらすぐに戻れと怒られるだろうから、かなり距離を取っての尾行だ。
その甲斐あってか父も兄達も気づかず結界樹の島に向かったが、数十分も経った頃、それは起きた。
『ち、父上……?』
魔獣を剣で切った父は急に地面に膝をつき、両手で頭を押さえている。
エルヴィスには、父が両耳を塞いでいるように見えた。
そして次の瞬間――父は兄を、魔獣もろとも切り裂いた。
エルヴィスもザイオンもハラルトも、目にした光景が信じられず、しばらく動けなかった。
『父上!?』
『おやめください!』
兄達の叫びでハッとし、三人は結界樹目指して走り出した。
距離が近づくにつれて父の叫びが聞こえてくる。
『うるさい……! 消えろ! 消えろ!』
父の金の瞳は爛々と光り、何か別の物を見ているかのようだ。
剣を振り回し、手当たり次第に切りつける。父を傷つけたくない兄達は応戦できず、次々と犠牲になった。
そしてとうとう光る金の目はエルヴィスをとらえ、剣を構えて襲い掛かってくる。
『兄上!』
咄嗟に前に出たハラルトの背中に、父は容赦なく切りつけた。
ハラルトとエルヴィスは重なるようにして地面に倒れたが、それを見たザイオンがこちらに向かって駆けてくる。
エルヴィスの視界に、駆け寄ってくるザイオンと、彼を殺そうとする父の姿が映った。
次の瞬間には勝手に体が動き、兄が落とした剣で父の胸を貫いていた。
その時の感触を――父を貫く生々しい感触を、エルヴィスは一生忘れないだろう。
ガタガタと震えながらハラルトの元へ戻ると、弟は血だらけの手でそっとエルヴィスの手を握った。
『生きて……幸せに……』
絞り出すような声で言うと、動かなくなってしまった。
ザイオンが「エルヴィス」と叫ぶのを聞きながら、エルヴィスは意識を手放した。
目が覚めた時には直系の皇族はエルヴィスだけとなっていて、追い立てられるように皇帝の座に就いた。
あれから三年が経つが、エルヴィスはずっと『幸せとは何か』を考え続けている。
弟が最期に願ったのだから、エルヴィスは絶対に『幸せ』にならなければならないのだ。
皇帝として執務をこなし、必要があれば魔獣の討伐をする日々を送りながら、ふとエルヴィスは城があまりにも静かな事に気づいた。
皇帝になったばかりの頃は忙しすぎて気づかなかったが、落ち着いてきて周囲を見渡すと、なんと自分の周りは静かな事か。
そうか。
あの騒がしい日常こそが、『幸せ』だったのだ。
一度気が付いてしまうと、あの日々が恋しくてたまらなかった。
またこの城を賑やかにしたい。子どもの声が溢れる場所にしたい。
とはいえ、妻に迎える女性は誰でもいい訳ではなかった。
互いに不仲の自覚があるシェイラは論外としても、帝国の令嬢達も本心ではエルヴィスを――彼の体に宿る女神の血を恐れているだろう。
ただの義務感で皇帝に嫁いでくるだけだ。
妻を幸せにできない男が、自分だけ幸せを求めるなど、許されるはずがない。
半分諦めながら過ごして三年が経ち、その花嫁はやってきた。
ヴェールの下に隠されていた彼女の瞳には、清らかな光が宿っていた。皇妃がいるだけで城が明るくなったように感じ、エルヴィスは彼女を太陽のようだと思った。
きらきらと眩しくて、どんな寂しい場所だろうと光で覆ってくれる。
エルヴィスを恐れない彼女となら、互いに幸せになれるかもしれない。
諦めかけた夢を、もう一度追いかけたい。
だから――
(きみを離してやれないんだ。すまない)
エルヴィスは罪悪感を覚えながらも、ずっと腕の中に妻を閉じ込めていた。




