4の9 エルヴィスの望み
「帰ろう、奥さん」
差し出された手を取ると、彼は互いの指を絡めるような繋ぎ方をした。
自然と体の距離が近くなり、耳元で心地よい声が響く。
「学校に通うのは、楽しいようだな」
「はい、とても。アンナが傍にいてくれるので、心強いんです」
いつの間にか、エルヴィスの声が心地よいと感じるようになっていた。
(彼の隣にいるのが、当たり前になっているんだわ)
それが自然な事のように受け入れつつある。胸の奥で「このままでは駄目だ」と声がするのに、エルヴィスに求められると応えてしまう。
(自分は強い人間だと思っていたのに……)
うじうじと考えつつ二人で歩いている内に、校門へ続く並木道に出た。
ほとんどの生徒は食堂で昼食を取っている時間だけど、何人かの男子生徒が木陰にいて、私達を見ている。
やがて、ぼそぼそと囁きが聞こえて来た。
「父殺しの皇帝だ……」
「皇妃もいずれ殺されるんじゃないか?」
「あんな美人なのに、もったいない……」
私は反射的に、男子生徒達を睨み付けていた。
(父殺し? 変な事言わないでよ、旦那様に聞こえたらどうするの)
視線に気づいた生徒達は気まずそうにどこかへ歩いて行ったけど、私は気が気ではなかった。
恐る恐るエルヴィスを盗み見る。
斜め下から見上げた彼は涼しい顔をしていて、私はホッと息をついた。どうやら私にしか聞こえなかったらしい。
門を出ても皇城の馬車はなく、不思議に思っているとエルヴィスが言った。
「せっかくだから、街で昼食を取ろう。たまにはいいだろう?」
「……! ええ、ぜひ」
まだ皇都の街を歩いた事がない私には、とても魅力的な提案だった。
学校の傍には商店が並び、二人で歩いていると「陛下だ」「巫女姫様だ」とあちこちで声がする。
「街で食べようかと思ったが、これでは落ち着けないかもな」
どこに行っても人の目があり、迷っているエルヴィスの手を私は引いた。
「屋台で買って、公園で食べましょう。お店よりは静かなはずです」
公園の入り口には、様々な露店があった。
サンドイッチや串焼きの肉、一口大に切られた果物などが売られている。
私の提案にエルヴィスは笑って言った。
「屋台か、懐かしいな。よく弟と城を抜け出して食べに来た」
彼の言葉に微笑みながら、私は「失敗したかも」と思った。
(弟……、ハラルト殿下の事かしら)
だとしたら、悲しい思い出になっているかもしれない。
不安は覚えたものの、エルヴィスは機嫌がよさそうだった。
サンドイッチと瓶に入った飲み物を買い、木陰に並んで座る。
さすがにここまで追いかけてくる人はいなくて、とても静かだ。
(これを食べるの、久しぶりだわ)
私達が買ったサンドイッチには、照り焼きの肉とレタスとトマトが挟んである。
私とハンスも畑仕事の合間によく食べていた料理だ。
汚れた手でも食べやすいし、仕事に追われる私達にとっては、短時間で食べられる料理は有難かった。
遠慮なくかぶりついた時、じっと見ているエルヴィスと目が合った。
もぐもぐと咀嚼して飲み込む間も、彼はまるで眩しいものでも見るような目をしている。
「な、何ですか」
言ってから、ハッと気が付いた。
(シェイラらしくなかったかも……!)
あの姉がサンドイッチを食べる姿は想像できない。みすぼらしい食べ物ね、と嫌がりそうだ。
でもエルヴィスの顔には驚きや不審に思っている様子はなく、瞳にはただ穏やかな光が宿っていた。
「きみは太陽みたいだな」
意味が分からなくて首を傾げると、彼は笑った。
「時々眩しすぎて、直視できない」
「そこまで光ってないと思いますけど」
大真面目に答えたら、今度こそ彼は本気で笑い出した。
「はっ……、ははは!」
しばらく大笑いして、「美人なのに何でそんなに面白いんだ」なんて言う。
私は少しムッとして彼の端正な顔を睨み付けた。
「何も面白くないです。あなたが変な事、言うから……」
もっと文句をぶつけてやろうと思ったのに、彼が私の頬にキスをするので、仕方なく口を閉ざした。
「すまない。きみがあんまり可愛いので、調子に乗ってしまった」
そう言うとサンドイッチを手に取り、私のようにかぶりついて食べだした。
(こうして見ると、普通の青年みたいね……)
公園でパンにかぶりつく彼は、どこから見ても一国の皇帝には見えなかった。
やたら顔がいいという点を除けば、普通の青年だ。
エルヴィスを見ていると、不思議な想像をしてしまう。
もし彼がグリセーズ帝国の皇帝ではなく、私もアシュロムの巫女姫でなかったら、私達は何の障害もなく結ばれていたんだろうか。
でもそれは違う、と思ったりもする。
(お互いに背負うものがあったから、私達は出会った……。普通の家に育っていたら、そもそもここにいないわ)
その時は同じ街や村の中の誰かが、お互いの伴侶になっていたのだろう。
いつの間にかずっとエルヴィスの顔を見つめていたらしい。
私の視線に気づいた彼はぐっと顔を近づけてきて、私はハッとして距離を取ろうとしたけど、肩と腰に腕を回されている。逃げられない。
「だ、旦那様?」
「最近のきみは、よく俺を見ているような気がする」
まさにその通りだったので、ぐっと言葉に詰まった。
「そ……、そうですか?」
ここで「そんな事はないです」と突っぱねる事ができたら、どんなに楽だろうか。
でも最近の私は、エルヴィスが悲しむ顔は見たくないと考え始めていた。
彼が傷つくぐらいなら、私が苦しんだ方がましだ。
エルヴィスは片手で私の頬に触れ、親指でつっと唇をなぞった。なぜか腰の辺りがぞくりとする。
「何を……」
「そろそろここにキスさせてほしいが……、その前に、話しておかねばならない事がある」
決意を秘めた声音に、私はハッとして彼を見つめた。
(まさか……)
三年前の話をする気なんだろうか。
金の瞳には悲しみと苦悩の光があり、私は口を閉ざして彼の言葉を待った。
「先ほど、生徒が父殺しと言っていただろう」
ああ、やっぱり聞こえていた……。
胸に悲しみが広がるのを自覚しながら、エルヴィスの様子を窺う。
「あれは本当の事なんだ。三年前、俺は父を殺して皇帝となった。望んでそうなった訳ではないが、事実としては間違いない」
彼の表情は風のない湖面のように静かだった。私にはそれが、何もかも諦めているように見えた。
(今までも、何を言われようと受け入れてきたのね)
きっとこれまでも似たような出来事はあったのだろう。その度にエルヴィスは傷つきながら、批判を受け入れて来た――だからこその諦念なのだ。
「それは女神の力と、何か関係が……?」
私の脳裏には、結界樹の前で苦しむエルヴィスの姿が蘇っていた。
そして、魔獣討伐の夜にうなされる彼の様子も。
「きみも大体、察しているだろうが……、俺の父は魔獣討伐の際に自我を失い、手当たり次第に切り殺した。あの時の父には、魔獣と息子の区別さえついていなかったようだ」
金の瞳が陰り、光が失われていく。
「兄達は止めようとしたが、父は容赦なく彼等を殺した。うるさい、消えろと叫びながらな……。俺が生きているのは、弟が守ってくれたからだ。ハラルトが犠牲になって、この命を守ってくれた」
全てが繋がり、私は祈るような気持ちでエルヴィスを見つめた。
(夢に出てくる程、ハラルト殿下を大切に想っているのね)
兄弟が何人いたのかは分からないけど、きっとハラルト殿下が一番仲が良かったのだろう。
エルヴィスは懐かしむように目を細めている。
「元々あの城には、たくさんの子どもがいたんだ。男ばかりでうるさかったが、今になってようやく幸せだったのだと気づいた。あの騒々しさは、俺に必要だったのだと……」
ああ。
この人は、寂しいのだ。
(だから私に子が欲しいと言ったの?)
エルヴィスがどんな思いでその言葉を口にしたのかと想像したら、涙が零れそうになった。
彼はそっと私の手を握り、囁くように言った。
「皇族を恐れて使用人も減ってしまったが、きみが来てくれて城は明るくなった。最近は想像してばかりだ……きみが本当の妻になってくれた後の事を」
彼の顔がゆっくりと近づいてきても、私には避けられなかった。
目を閉じたと同時に唇が重なって、涙が頬を伝って零れ落ちた。
(あなたは本心から、私を妻として望んでいるのね)
だからこそ、皇族にとって醜聞となる事実をありのままに話した。
でも私には、エルヴィスの覚悟を受け止める資格なんてない。
本来の姿を偽り、彼を騙して妃となったのだから……。
唇が離れても、彼は私の体を抱き締めたままだった。




