4の8 あの紙は何?
何日か、ぼんやりとしたまま過ごした。
アンナは学校を休んでいて、私の隣の席は空いたままだ。
一人寂しく授業を受けて、廊下を歩いていると、護衛をしているザイオンが「皇妃」と呼んだ。
「何かご用?」
振り向かないまま歩いていると、後ろのザイオンが言った。
「中庭のガセボにアンナがいます」
「えっ、本当?」
ザイオンの言葉でガセボに視線を移すと、確かにアンナらしき少女が座っているようだ。
誰かと話しているようだけど、植え込みのせいで相手の姿は見えない。
くるりと体の向きを変え、そちらに行こうとすると、なぜかザイオンが腕で私の行先を遮ろうとしてきた。
「邪魔しないでくださる?」
少し苛立ちながら苦情を言ったけど、ザイオンは私ではなくガセボを見ている。
「今はまずいかもしれません」
奥歯にものが挟まったような、歯切れの悪い言い方だった。
今は、というのは、アンナが誰かと深刻な話をしているからだろうか。
(まさか相手はアンナのお父様?)
だとしたら、私としても言いたい事がある。
ワインの件は私からエルヴィスにお願いしておくから、娘をあまり追い詰めないようにと注意してやりたい。
私は植え込みに沿いながら移動し、こそこそとガセボを目指した。
ザイオンは呆れた顔をしていたけど、気にせず歩いて、とうとうガセボのすぐ横の植え込みに到着した。
誰かが紙に何かを書いて、アンナに手渡したようだ。
それを受け取ったアンナは泣き出して、相手の男性はアンナの背中を優しく撫でている。
男性の衣服に見覚えがあり、よくよく目をこらした私は、思わず声を上げてしまうところだった。
(旦那様……!?)
横顔しか見えないけど、確かにエルヴィスだ。
はっきりと聞き取れないものの、彼はアンナを慰めていて、その声を聞いている内に私の顔は青ざめていた。
「皇妃、顔色が悪いですよ。だから言ったのに……」
ザイオンの言葉は耳を滑り、私の頭の中はエルヴィスとアンナの事でいっぱいになっていた。
あの紙は何?
側妃になるという契約書?
(そういえば結婚する前に、何かの紙にサインしたわ)
ザイオンが「とりあえずサインを」と言うので、内容を確認しないまま『シェイラ・アシュロム』と書いた覚えがある。
教会に出すためだと言っていたから、きっと婚姻に関する契約書だろう。
だとしたら、今アンナが持っているのは……。
ふらふらと立ち上がり、その場を後にした。
どうやって教室まで戻ったのか、自分でも覚えていない。
気が付くと授業は終わって、生徒達は食堂に移動し、教室の中は私だけになっていた。
「私は先に戻りますね」
ザイオンまで私を置き去りにして帰ってしまった。
(護衛のくせに、私を置いて行くなんて……)
ひどい、とぼそっと言った時、背の高い青年が教室に入ってきた。エルヴィスだ。
「迎えに来た。一緒に帰ろう」
いつも皇城で見ている顔なのに、学校だとやけに懐かしく感じる。
その広い胸に飛び込みたい気持ちになったけど、私の頭にはガセボでの一件が蘇っていた。
涙が出そうになるのをこらえて、エルヴィスの前まで歩いて行く。
「私の事はいいですから、アンナのところへ行ってください」
やっとの思いで口にした言葉なのに、彼はきょとんとした顔をしている。
「どういう意味だ?」
「どういうって……、アンナは……」
あなたの側妃になるのでしょう?
はっきり言えずに俯いていると、廊下からぱたぱたと元気のいい足音が聞こえてきた。
開いたままのドアから、アンナが顔をひょこっと覗かせる。
「皇妃様、すみませんでした」
走ってきたのか、アンナの額には汗が滲んでいた。
「校門のところでザイオン様に会って、皇妃様が私の事を心配してくださったと聞きました」
私はこの時、初めてザイオンに対して感謝したかもしれない。
たまにはいい事をしてくれるじゃないの、と思っていると、アンナは鞄から一枚の紙を取り出した。
「先ほど、陛下に書いていただきました。皇族との永年契約書です。これで安心してワインを作れます!」
アンナが持っていた紙には、皇族はずっとアンナの領地のワインを仕入れると明記してあった。
(ガゼボで見た紙、これだったのね)
自分の勘違いが恥ずかしくて、どこかに隠れたくなってきた。
「ガセボで俺達が話し合うのを、見ていたんだな」
エルヴィスが納得したように言い、私は赤い顔のまま頷いた。
「すみません、ご心配おかけしちゃって。でも私はもう大丈夫です!」
アンナは「それじゃ」と言って、あっという間に去って行った。悩み事がなくなったせいか、軽やかな足取りだった。




