春咲山にて
伊吹が久しぶりに美哉と橘香を全身で感じた後、三人でシャワーを浴び、着替えを済ませて屋敷周辺を歩いて見て回った。
見る場所、見る景色、感じる匂い、聞こえる風。全てに思い出が詰まっており、三人をとても懐かしい気持ちにさせる。
伊吹は幼い頃、誰にも警護されず、気ままに行きたいところへ行けた。
もちろんご近所さんこと伊吹の侍女達が遠巻きに見守っていたのだが、その頃の伊吹は何にも縛られず、自由に行動する事が許されていたのだ。
「改めて見ると、思ってたよりも広くないね。
小さい頃はここが世界の全てだと思ってたけど」
伊吹が山間のちょっとした広場で立ち止まり、空を見上げて呟く。
この場所はどこを見ても山しか見えず、外界からは閉ざされている。
幼い頃、母親である咲弥や祖母である心乃春に抱かれ、よく連れて来てもらった思い出の場所だ。
伊吹は前世の記憶があった分、ここが並行世界の日本であると気付くまでは、この集落は世界が崩壊して逃げて来た人類最後の一族なのではと妄想していた時期があった。
屋敷にはテレビがあったので、すぐにそんな事はないと理解する事となったが。
「今もここには私達しかいない」
「私達だけの秘密の世界」
美哉と橘香が、伊吹の肩に頭を預ける。
侍女や警備の者達は、三人からは見えない場所で待機している。
伊吹の実家がある春咲山は、山の入り口にある車道全てが閉鎖されており、外部から侵入する事は出来ないようになっている。
また、徒歩で侵入しようにも、山全体に通信網が敷かれており、二十四時間監視カメラを使って治が警備をしているので、すぐに感知されて拘束される。
警備体制は藍吹伊通り二丁目と同じものが用意されており、春咲山にいる伊吹が襲撃されるというよう事は、二度と起きないだろう。
「小さい頃は、みぃねぇときぃねぇとずっとここで暮らすものだと思ってたなぁ」
伊吹の言葉に対し、美哉と橘香は何も返さなかった。
二人は小さい頃から、心乃春によって伊吹とは結婚が出来ないと教えられていた。
まさか、自分達が伊吹の正式な妻となるなどと、思ってもみなかったのだ。
「いっちゃん、今の生活は幸せ?」
美哉が伊吹へ問い掛ける。
「もちろん幸せだよ。
藍子と燈子と出会えて、美哉も橘香もそばにいてくれて、支えてくれる執事と侍女と秘書もいて、仲間達がいる。
目標に向かって皆で動いている。世界を相手に戦っている。
可愛い子供達にも恵まれて、この上なく幸せだなぁって思ってるよ」
「いっちゃんの幸せが、私達の幸せ」
伊吹の答えを聞いて、橘香が呟く。
美哉と橘香は、幼い頃から伊吹を支えると決めていた。
自分達はその為に生まれたのだと信じ、疑った事などなかった。
女として、伊吹に求められる事はあるだろうけれど、それを伊吹の妻達が許してくれるかどうかは分からなかった。
だから、伊吹の妻達の手によって排除されないよう、陰ながら伊吹を支えるにはどうすれば良いかを考えていた。
だから、今こうして三人でこの場に立っている事だけで、美哉と橘香にとってはこの上ない喜びなのだ。
しかし、二人がこの上ない幸せを感じていたとしても、伊吹にとって、今こうして三人で立っている事は至極当然の事であり、当たり前の幸せである。
伊吹にとって、二人と結ばれない人生など、考えた事もなかったのだから。
「そう言えば、僕の部屋で三人で寝るのって本当に久しぶりだよね」
「五年ぶり」
「昔よりベッドが狭く感じた」
美哉と橘香が国立侍女育成専門学校に進学する前までは、伊吹のベッドで三人で寝起きしていた。
時折帰省はしていたが、美哉と橘香は二人の自室で寝るよう、心乃春から指示を受けていた。
思春期に入った伊吹に対し、幼馴染二人と同じベッドで寝る事が、どう作用するのか、心乃春にも美子にも京香にも、分からなかったからだ。
同じにするよりも、離れて寝かせる方が無難であると判断されたのだ。
伊吹にとって、その判断が良かったのかどうか。
「毎日手を出すのを我慢して、大変だったなぁ」
「我慢?」
「何で?」
美哉と橘香からすれば、伊吹が我慢する必要など何もなかった。
身体に触れたいと思えば触れれば良いし、触れてほしいのであればそう伝えるだけで良かった。
美哉と橘香は、伊吹が望む事であれば何だってしていただろう。
「それがさ、まだ三人一緒に寝てる時、夜中に寝ている二人に手を伸ばした事があるんだけど……」
「「けど?」」
「おばあ様と美子さんと京香さんがさ、僕の部屋の扉をそっと開けて、覗いてたのを見ちゃったんだよね。
自分の祖母と、好きな子達のお母さんに見られるかもと思うと、そんな事する度胸なかったんだよね」
あれは何の為に覗いていたのか、伊吹は未だに知らないし、美子にも京香にも聞く事が出来ていない。聞こうとも思わない。
「あぁ、お赤飯の前の夜?」
「……覚えてるんだ」
「何? 何の話?」
伊吹の話を聞いて、心当たりがあると微笑む橘香と、自分が知らない話をしている二人を問い詰める美哉。
伊吹は美哉が不機嫌そうにしているのを見て、愛おしく感じてその額にキスをした。
「おばあ様と美子さんと京香さんに覗かれているのに気付いて怖気付いた僕を、橘香が笑って抱き締めてくれたんだよ。
で、僕の顔を胸に埋めるように抱き締めたもんだから……」
次の日の朝、伊吹は今世初の夢精をしてしまったのだ。
前世の青年時代のように、こっそり一人で洗うという事が出来ない伊吹は、心乃春と美子と京香に精通した事を知られ、その日の晩に赤飯が出されたのだ。
「橘香、ずるい」
「寝惚けてたから……」
「私もいっちゃんに夢精させる」
美哉が伊吹の顔を、自らの胸元で抱き締める。
「いやいやいや……」
困り顔を見せつつも、伊吹はまんざらでもない気分だ。
「それにしても、橘香はその夜の事を覚えてたの?」
「次の日の朝、いっちゃんが浴衣を汚してたでしょう?
お母さん達に話を聞かされて、もしかするといっちゃんが私達を求めるかも知れない事とか、その結果子供を授かるかも知れない事とかの説明を受けたから。
だから良く覚えてる」
「えっ、そんな事まで説明されてたんだ……」
伊吹少年は、ほんの少しの勇気を出せば、もっと早く二人と深く愛し合える仲になる事が出来たのだ。
「その割には何もされなかった」
「ちょっと不安だった」
そして、詳細な説明を聞かされた少女達は、伊吹が臆病な為に手を出されず、伝えられない不安と不満を抱えていた。
「美哉と橘香の事が大事だからこそ、手を出す事で関係が壊れちゃうんじゃないかって怖くて、何も出来なかったんだよ」
もしもあの頃の伊吹が、欲望のままに二人に手を出していたならば。
この三人の関係は、今頃どうなっていただろうか。
『親父殿、そろそろ昼食の時間だ』
仮定の世界に想いを馳せていると、治が声を掛けて来た。
「分かった。
じゃあ、帰ろうか」
「「うん」」
三人はまた手を繋ぎ、屋敷へと歩いて行った。




