分裂現象
■ 2018年7月6日(金)
朝8:00に目覚まし時計が鳴って起き上がった。窓から外を見るとすっきりと晴れていた。今週は何事もなく平和な一週間だった。明日は笹原莉奈と村瀬真也の三人で今年初の沢登りに行く予定だ。莉奈にとっては人生初の沢登りになる。短いコースなので昼過ぎには沢登りが終われせて、その後は河原でバーベキューをすることになっている。洗面所で顔を洗ってキッチンに行くとテーブルには目玉焼きにベーコン、サラダとご飯と味噌汁が並べられていた。「母さんおはよう」といってテーブルの椅子に座ると母親が「おはよう」といって椅子に座った。今朝も父親がいないので朝早く出勤したんだろう。朝食を口にすると「ねえ、祐樹、そろそろいい人いないの?」と母親が聞いてきた。またその話かと思った。「そんなすぐに見つかるわけがないだろ」と俺は言った。母親は「ま、それはそうね」と言ってその後は何も言わなかった。いい人ではないが、今の俺は笹原莉奈に恋しているが6つも年下の女の子にそんな感情を抱いているなんて母親に言うわけにもいかなかった。朝食を終えて部屋に戻って着替えて家を出た。
いつものように10:00前に出勤して「おはようございます」と言って自分の席に座りパソコンの電源を入れた。今日の午後には開発したウェブサーバー自動構築システムのプログラムを本番環境サーバーに移行するのだ。あの3日間の無限ループ現象があったおかげで、もう今では動作環境テストも終わってあとは移行作業をして、来週の週明けから実装する予定なのだ。今回は新しいウェブサーバーへ導入するので万が一障害が起こってもそこまでパニックにはならないだろう。重要なのはネームサーバー側に障害が起こるとまずいのだが、今週は念入りに英語のスペルミスやバグのチェックを行ったので大丈夫だろうと思っていた。午前中はテスト項目書を提出して、サーバー管理者である水谷主任へ申請書も提出したりしていた。昼休みになって今日は豚骨ラーメンセットと決めていたので、お気に入りのラーメン屋に行った。店内に入ると二人用のテーブル席に西浦真美が座っていた。
「西浦さん、一人で珍しいですね。せっかくなのでここの席に座ってもいい?」
「水嶋君じゃない。そこの席にどうぞ」
「西浦さんも豚骨ラーメンセット?」
「わたしはご飯まで食べれないから、豚骨ラーメン単品よ」
「そうですか。それにしてもここのラーメン美味しいよね!西浦さんはよくこの店に来るの?」
「よくは来ないけど時々ね」
それから少し沈黙が続いていると西浦真美のところにラーメンが運ばれてきた。俺は「のびちゃうんで先に食べてください」と言って西浦真美はラーメンを食べはじめた。数分後、店員さんから「豚骨ラーメンセットになります」といって俺のところにラーメンと白ご飯が運ばれてきた。俺がラーメンを食べていると西浦真美が話しかけてきた。
「ところで水嶋君は好きな人とかいないの?」
「な、なんだよいきなり・・・」
「その驚きからして、そういう人いるのね?ふふふ・・・ねえどんな子なの?」
「えっと6つ年下の女の子なんだけど、なんか複雑な心境なんだよね」
「水嶋君って年下好みだったんだ。もしかしてロリコンだったり?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんかその子を見ていると胸がドキドキするというか・・・」
「そうなんだ。名前は?」
「莉奈っていうんだけど・・・あっ!このことは誰にもいわないでね。この話を誰かに話したのははじめてだから!」
「莉奈ちゃんかあ。大丈夫!誰にも言わないよ。それでその莉奈ちゃんとはいい感じなの?」
「そういう感じはなくて、ただ一緒に山にいったりしてるくらいかな」
「そうなんだ。でも早くアプローチしないと誰かに取られちゃうかもしれないわよ?」
「アプローチとかまだそういう段階ではないから」
「まあ、頑張ってね!さて、わたしはさっさと会社に戻るわ。水嶋君はゆっくりしててね」
「うん」
西浦真美はそういって店を出て行った。俺もラーメンとご飯を食べ終えて、外を少しブラブラしながら昼休みが終わりそうな時間になって会社に戻った。その後、本番環境への移行作業はスムーズに進んだ。そして本番環境でテスト用のドメインで動作確認チェックをすると特に問題はなかった。これで週明けから稼働させることはできるだろう。
■ 2018年7月7日(土)
今朝は朝5:00に目覚ましが鳴った。今日は朝8:00に俺の自宅の最寄り駅のロータリーに集合になっている。適当に朝食を終えて沢登り用の装備とバーベキューの道具をチェックしておいた。7:40過ぎに車に荷物を積んで駅前のロータリーに向かった。7:50過ぎに到着すると、既に笹原莉奈と村瀬真也の二人が待っていた。俺の車に気づいたのか二人がこっちに向かってきた。俺が車から降りると「おはようございます」と二人とも挨拶してきたので、俺も「おはよう、荷物は後ろに積み込んでね」と言った。今日の沢登りは千岩谷というところで初心者向けの沢登りルートだ。助手席に座った莉奈をチラチラと見ているととても楽しみにしている表情をしていた。そんな姿を見ているとやはり胸がドキドキする。好きな人と一緒に沢登りができるなんて夢のように思えた。車の中で三人で適当な話をしながら二時間ほどして千岩谷の入渓ポイントの近くにある駐車場に到着した。沢登りの準備をしてヘルメットと沢靴を履いて入渓ポイントへ歩いていった。今年初の沢登がはじまった。まだ気温はそこまで高くないが、綺麗な沢の水に足をつけながら遡行していくのは気持ちいい。飛び込みポイントで岩の上から飛び込んだり、ちょっとした岩登りをしたりしていた。莉奈を見ていると子供に戻ったかのように楽しんでいる。もちろん俺も子供に戻った気分で楽しんでいた。滑り台のようにスライダーができるポイントまできて「莉奈ちゃん、ここをスライダーするんだよ」と言ったら「ちょっと怖いかも」と言ったのだが、俺は「莉奈ちゃん、怖くないから滑って!」と言った。莉奈は恐る恐るスライダーポイントに座って滑っていった。滑りおりた滝壺でバシャッとして莉奈が立ち上がると「きゃー!なにこれ、超楽しい!!もう一回滑ってもいいですか?」と言った。三人とも二回ほどスライダーを滑った。そしてその先に沢登りのゴール地点である大滝に着いた。俺は「莉奈ちゃんこっちにきて」といって流れる滝の下に二人で立った。頭に流れる滝の水がザーッと当たる。俺と莉奈が滝の下に立つと村瀬君が記念撮影をとってくれた。莉奈と初めてのツーショットで撮った写真だった。俺は「村瀬君も」と言って今度は村瀬君と莉奈のツーショットを撮影した。大滝の滝壺近くで少し休憩をしているともう12:30になっていた。沢登りはこれで終わって、あとは登山道で入渓ポイントまで下っていく。沢登はいろんなことをするので時間がかかるが、登山道を歩けば40分ほどで入渓ポイントまで戻ることができた。
その後、一旦車に戻って着替えをして、バーベキュー用の食料と荷物をもって近くの河原へ行った。炭をバーベキューコンロにセットして着火剤を入れて炭に火をつけた。そして俺は飯盒でご飯を炊きながら村瀬君がクーラーボックスから肉と野菜を出していた。ご飯が炊けたら3つの紙皿にご飯を入れて、肉と野菜を網の上に並べて焼きはじめた。別の紙皿には焼肉のタレを入れて、すぐに焼けた肉をまず莉奈のお皿に入れた。莉奈は「ありがとうございます」といって肉を口にした。俺は「莉奈ちゃん、初めての沢登りはどうだった?」と聞いてみた。すると「ちょー楽しかったです!」と言って莉奈はとても満足そうな表情をしていた。俺は「今度はもっと綺麗で神秘的な沢に行こうね」と莉奈にいうと、莉奈は「はい、是非連れていってください!」と言った。今日の沢登りで莉奈の行動をみていると本格的な沢登りをしても問題なさそうに思えたので、今年の夏は莉奈を沢登りに誘いまくろうと思った。それにしても沢登りをした後の肉とご飯はいつにもまして美味しいし、楽しそうにしている莉奈を見ているとこっちまで楽しい気分になってくる。本当に莉奈が俺の婚約者になるのかと思うと嬉しくなってきた。そうこうしているうちにあっという間にバーベキューも終わりになって帰宅することになった。楽しい時間はすぐに終わってしまう。帰りの社内で莉奈が「沢登りがこんなに楽しいなんて思わなかった」と何度も呟いていた。莉奈にこんなに喜んでもらえて沢登りに連れていって本当に良かったと思った。
■ 2018年7月9日(月)
今朝は晴天で暑く、もう蝉の鳴き声が聞こえるということは夏に突入したのかもしれないが、梅雨明けの発表はされていない。いつものように10:00前に出勤した。今日から開発したウェブサーバー自動構築システムが稼働するのだが、前回のメール管理システムを稼働させた時は大障害になってしまったので少々心配だ。恒例の朝礼がはじまって社長が話をしている間、そんな心配でとても耳に入ってこなかった。いつの間にか社長の話が終わって西浦真美が「今週もみなさんがんばりましょう」といって朝礼が終わった。それから一時間ほど経ったが何の障害も起きていない。今回はもう大丈夫だと確信すると、少し気疲れしたので休憩室へ行った。休憩室に入ると西浦真美が座っていた。俺は「お疲れ様です」といって休憩室の椅子に座った。
「西浦さん、先週ラーメン屋で話したこと、絶対に内緒にしてね」
「はあ?何のこと?わたし、先週ラーメン屋なんて行ってないわよ?」
「ええ?だって、西浦さん先週の金曜日の昼休みに一人でラーメン屋にいたじゃないか」
「先週の金曜日のお昼休みって、わたしは他の女子社員とホテルのランチに行ってたのよ。水嶋君、何いってるの?」
「じゃあ俺が金曜日に話した好きな人のことについて覚えてないって言うの?」
「水嶋君の好きな人?ああ、水嶋君の好きな人って莉奈ちゃん?って女の子だっけ?あれ、なんでわたし、そんなこと知ってるんだろう?」
「ほら、知ってるってことはやっぱりラーメン屋にいたんじゃないか。西浦さんこそ何いってんだよ」
「だから、ラーメン屋なんていってないわよ。そもそもわたしが一人でラーメン屋なんて行くわけないでしょ」
「だったらなんで莉奈のこと知ってるんだよ?」
「うーん、わたし、前に水嶋君に聞いた記憶はあるんだけど、でもいつだったか覚えてないのよね」
「西浦さんの勘違いじゃない?だって、俺はたしかにラーメン屋で西浦さんと話をしたんだよ」
「しつこいわね!金曜日はホテルのランチに行ったっていってるでしょ?」
「おかしいなあ。俺の記憶違いとは思えないんだけどね」
「それより、水嶋君の好きなその莉奈ちゃんだけど、告白するつもりなの?」
「いや、まだ告白までは考えてないんだけどね」
「そうなの。まあ慎重にアプローチしていかないと失敗しちゃうから焦らないほうがいいと思うわよ」
「西浦さん、早くアプローチしないと誰かに取られるって言ってたじゃないか」
「わたし、そんなこと言った覚えないよ。とにかくその莉奈ちゃんって子の気持ちもあるから、焦らず慎重にね!」
「わかったけど、このことは絶対に誰にも言わないでね」
「わかったわ。じゃあわたし、先に戻るね」
西浦真美が休憩室を出ていった後、俺は少し頭の中を整理した。先週の金曜日にラーメン屋に行ったのは俺の記憶違いなんだろうか。30歳にもなると物忘れが早くなるんだろうか。でも、ラーメン屋で西浦真美と話した記憶は鮮明に残っている。まあ、俺か西浦真美の記憶違いかもしれないということだろう。そう思って休憩室を出た。
■ 2018年7月10日(火)
今日も晴天でセミの鳴き声がうるさい。いつものように10:00前に出勤してパソコンの電源を入れて業務をはじめる。昨日に引き続いて今日も障害など起きていないので、もうウェブサーバー自動構築システムは正常に稼働しているといえる。昼休みもいつものように一人で外食に出て、午後の業務もまったりしていた。この日は何気ない平和な一日になったと思う。19:00になって勤務時間終了となってさっさと退社した。会社の外に出て駅まで歩いていると、帰宅中の西浦真美にバッタリ会った。俺は「お疲れ様です。西浦さんも今帰り?」と聞いてみると、「うん、水嶋君も今帰り?」と聞かれた。
「うん。俺はいつも定時に帰るからね。それにしても西浦さんが定時退社って珍しいね」
「今日は特に忙しくなかったからね。それよりせっかく定時に退社できたから、ちょっと話さない?それともこのあと予定でもある?」
「別に何の予定もないけど、何の話をするの?」
「水嶋君の恋について話を聞いてみたいの?莉奈ちゃんとの話ね」
「しーっ!西浦さん、そんなことここで言わないで!」
「ごめんごめん。そこの居酒屋、静かだから、ちょっと話を聞かせてほしいな」
「わかったよ。まあ、俺も誰かに話を聞いてもらえると気持ちが楽だから」
「じゃあいきましょ」
こうして西浦真美と二人で駅近くの雑居ビルの三階にある居酒屋に入った。居酒屋というと騒がしいイメージだが、この店はかなり静かだった。ちょっとした個室のような場所に案内され四人用のテーブルに西浦真美と向かい合って座った。店員さんがやってきて「お飲み物はいかがいたしましょう?」と聞いてきたので二人とも生中といってビールを注文した。ビールが運ばれてくると西浦真美が「じゃあ乾杯」といって乾杯して一口ビールを飲んだ。そして西浦真美が話かけてきた。
「それで、水嶋君の好きな莉奈ちゃんとは会ったりしてるの?」
「先週の土曜日に沢登りにいって一緒にバーベキューしたよ」
「それって二人きり?」
「まさか。俺の山仲間と三人でだよ。あとは時々電話で話をするくらいかな」
「そうなんだ。ちょっとはアプローチしたりしてるの?」
「今は別に何もしてないよ。ただ、好きな人と一緒に登山したり沢登りできるなんて嬉しいって思ってるくらいかな」
「そんな呑気にしていていいのかしら?ちょっとはアプローチしていかないと前に進まないわよ?」
「まあ焦らず慎重にアプローチしていこうとは思ってるけど、まだその時期ではなさそうな感じなんだよね」
「ふーん。でもあまり呑気にしてるのもどうかと思うよ」
「焦らず慎重にアプローチしろって言ったのは西浦さんじゃないか」
「あれ、わたしそんなこと言ったっけ?それより、その莉奈ちゃんの写真とかないの?」
「先週に行った沢登りの写真ならあるけど、滝の下だからわかりにくいかも」
そういってスマホから千岩谷の大滝で撮影したツーショット写真を開いて西浦真美に見せた。
「へえーこの子が莉奈ちゃんか。結構可愛らしい子じゃない。やっぱり水嶋君ってロリコンだったりして」
「いや、だから俺はロリコンとかそういうんじゃないから。楽しそうにしてる莉奈ちゃんを見ていると無邪気で可愛いって思えるんだよ」
「でもこんな可愛らしい子だと、他の誰かにすぐ取られちゃうかもしれないわね。さっさとアプローチしていかないと手遅れになるかもしれないわよ」
「まあ莉奈ちゃんが他の誰かに取られたら、残念だけど仕方ないかなって思うけどね。でも昔のように後悔はしたくないかなあ」
「わたしもだったけど、今度は夢の中じゃなくて現実世界で告白しないと本当に後悔するんじゃないかしら?」
「まあそれはそうなんだけど、アプローチといっても何をどうすればいいのかわからないんだよ」
「その莉奈ちゃんと電話でどんな話してるの?」
「山のことばかりだよ。こんな場所があるとかそんな感じかな」
「それだけ?やっぱ水嶋君って登山バカだね。もっと好きな音楽とか映画とかそういう話もしたほうがいいわよ」
「そうだね。今度はそういう話もしてみるよ」
「まあ、呑気にしている場合じゃないわ。早くアプローチしていい雰囲気になったら告白しちゃいなさい!」
「わかったよ」
それから西浦真美と何気ない話をして、話が途切れたので居酒屋を出た。別れ際に西浦真美が「水嶋君、とにかく頑張ってね」と言った。まあ、俺も高校3年生の時のような後悔はしたくないので、莉奈に少しはアプローチしていこうと思った。
■ 2018年7月11日(水)
今朝はどんよりした曇り空で夕方から雨が降るようなので折りたたみ傘を鞄に入れておいた。昨日は西浦真美に早くアプローチしろと言われたが、まずは今晩にでも莉奈に電話しようかと思っていた。いつものように10:00前に出勤して自分の席に座るとパソコンの電源をつけて黙々と業務をしていた。開発中は忙しい感じだが、普段の業務はちょっと暇くらいな感じなのだ。昼休みになって今日はカレーだと思っていたのでお気に入りのカレー屋に行った。やっぱりここのピリ辛のチキンカレーは美味しいと思う。どうして客が少ないのか不思議なくらいだ。カレー屋をでて外をブラブラと歩いて昼休みの終了時間になると会社に戻った。まったりと業務を続けていて15:00を過ぎた頃に休憩しようと思って休憩室へ行った。この休憩室は自動販売機を利用する社員がいるくらいで、あまり使われていない。喫煙をする社員は会社の外の喫煙所に行くからだ。休憩室に座っていると西浦真美が入ってきた。
「西浦さん、昨日はありがとう。やっぱり後悔したくないから少しはアプローチしていこうって思う」
「はあ?昨日はありがとうって何のこと?」
「昨日、西浦さんと二人で居酒屋に行って俺にいろいろアドバイスしてくれたじゃないか」
「何のこと?わたし、昨日はずっと残業してたのよ?」
「ええーだって、昨日、西浦さん、俺に呑気にしてる場合じゃない、さっさとアプローチして告白しないと後悔するって言ったじゃない?覚えてないの?」
「水嶋君、大丈夫?わたし、そんなこと言った覚えないし、昨日はずっと残業してたのよ。夢でも見たんじゃないの?」
「いや、西浦さんのほうこそ忘れてるんじゃないの?俺はたしかに昨日、西浦さんと二人で居酒屋にいったよ。夢でもなんでもないよ。莉奈ちゃんの写真も見せたじゃないか!」
「あれ、写真は見たように思う。可愛らしい子だったのは覚えてるけど、わたし、いつ写真を見せてもらったんだろう?」
「だから昨日、居酒屋の中だって!早くアプローチしていい雰囲気になったら告白しろって言ってたじゃないか」
「わたし、そんなこと言った覚えないわよ。それに前にも言ったけど、慎重にアプローチしたほうがいいと思うよ。その莉奈ちゃんの気持ちを大切にしないと、いい雰囲気になっても焦って告白なんかしたら失敗する可能性あるわよ」
「西浦さん、昨日と言ってることが全然違うんだけど、早くアプローチしたほうがいいのか、焦らずアプローチしたほうがいいのかどっちがいいと思うの?」
「だから、早くアプローチするのは避けたほうがいいって言ってるじゃない。女の子の気持ちって結構脆いんだから、それを大切にしながら焦らず少しずつ優しくアプローチしていくのがいいと思うわ」
「わかったけど、昨日、俺はたしかに西浦さんと二人で居酒屋に行ったはずなんだけどなあ」
「だからそれは夢じゃない?水嶋君と居酒屋にいった覚えなんてないし、昨日は社長の予定表を作るのにずっと残業してたんだから」
「絶対にあれは夢じゃないと思う。西浦さんが昨日残業してたっていうんだったら、俺が昨日一緒に居酒屋にいった西浦さんは誰だったんだろう?でも背格好も話し方も西浦さんそのものだったんだけどなあ」
「ねえ、またあの時の人格入れ替わり現象の時みたいに、何かが起こってるってことは考えられないかしら?」
「うーん。俺の言ってることも西浦さんが言ってることも正しいとすれば、西浦さんが二人存在しているってことになるね。そんなことありえないと思うけど、もし二人の西浦さんがいるとすれば、もう一人の西浦さんは今どこにいるんだろう?」
「また変な現象に巻き込まれていなければいいんだけど、どうも最近、水嶋君と話がかみ合ってないような気がするわ」
「まあ、もう少し様子をみないとわからないね。変な現象が起こってるなら、また解決策を考えないといけない」
「とにかく、わたしはそろそろ戻るわ。もう一人のわたしに会ったら、今度はわたしのところに連れてくるとか何か考えて!」
「わかったよ」
西浦真美と話が終わって俺は自分の席に戻って頭を整理してみた。おかしなことが起こったとすれば先週の金曜日にラーメン屋からということになる。ところが月曜日に西浦真美はラーメン屋に行ってないといった。そして昨日の居酒屋も行ってないという。しかし、俺の中ではどっちの記憶も鮮明に残っている。もし二人の西浦真美がいるのであれば、どちらかが偽物ということになるが、背格好や話し方はどちらも西浦真美そのものなのだ。ただ唯一違うのは言ってることだ。ラーメン屋や居酒屋で話した西浦真美は「早くアプローチをしていい雰囲気になったら告白するべき」といっているが、休憩室での西浦真美は「慎重に少しずつ優しくアプローチをしていっていい雰囲気になっても焦って告白すると失敗かもしれない」といっている。まるで真逆のことを言ってるのだ。これってネガティブとポジティブの二人の西浦真美がいるということになる。本当に西浦真美が二人存在しているのであれば、もう一人はどこにいるのかという問題になる。それでなければ俺の記憶が何者かによって書き換えられてるのだろうか。どちらにしても今の段階ではまだ何もわからない。そんなことを考えていると児島信二が「水嶋さん、ぼーっとしてどうかしましたか?」と声をかけてきた。俺は「あ、うん、大丈夫。ちょっとボケっとしてた」と言っておいた。この夜、俺は久しぶりに莉奈に電話をしていろんな話をしていた。
■ 2018年7月12日(木)
今朝から雨が降っているが、午後から晴れるらしい。面倒だが傘をさしながら通勤した。いつものように10:00前に出勤して自分の席に座ってパソコンの電源を入れる。二人の西浦真美が存在しているということが頭にチラついて、そのことばかり考えていた。なんだかぼーっとしながら業務をしていて疲れてきたので休憩室へ行くことにした。休憩室の椅子に座ってあれこれ考えていた。こういう時は誰もいない空間で一人で思いふけるのがいい。いろいろ考えていると休憩室のドアが開いて西浦真美が入ってきた。俺は思わず声をかけた。
「西浦さんだよね?」
「当たり前じゃない!水嶋君、大丈夫?何か悩み事?」
「何か変な現象に巻き込まれているんじゃないかと思ってね。ほら、昨日、西浦さんが二人存在してるんじゃないかって話をしたよね?」
「はあ?わたし、そんな話聞いた覚えないよ。それより莉奈ちゃんとはその後どうなってるの?」
俺はこの西浦真美はおかしいと思った。そして「西浦さん、ちょっと待ってて!」といって西浦真美の席に行ってみた。もう一人の西浦真美がいるはずだ。しかし、席にはもう一人の西浦真美はいなかった。再び休憩室に戻ると西浦真美が待っていた。
「水嶋君、慌ててどこにいってたの?」
「西浦さん、本当にあなたは西浦真美なの?偽物なんじゃないの?」
「水嶋君、今日なんかおかしいよ。偽物って何?わたしはわたし。西浦真美だよ」
「じゃあ、西浦さんは莉奈ちゃんに早くアプローチしたほうがいいのか、焦らずアプローチしたほうがいいのかどっちがいいと思う?」
「何度も言うけど、呑気にしている場合じゃないの!早くアプローチしていい雰囲気になったら告白しないと手遅れになるよ。そうなったら、また夢の中で告白するつもり?」
夢の中での告白話を知ってるということはこの西浦真美は本物なのかもしれない。しかし、これはポジティブな西浦真美だ。どちらの西浦真美もあの人格入れ替わり現象のことを知っている。どっちが本物なんだろうか。
「でも西浦さんは昨日、俺に女の子の気持ちは脆いから、焦らず少しずつ優しくアプローチしていくのがいいって言ってたんだよ。覚えてる?」
「わたし、そんなこと言った覚えないわよ。でもたしかに女の子の気持ちは脆いからって言ったような感じはするけど、いつ水嶋君にそんなこといったんだろう?」
「ちなみに、西浦さんは火曜日に俺と二人で居酒屋に行ったことは覚えてる?」
「もちろん覚えてるわよ。あの時にいろいろ話したじゃない?」
「じゃあさ、先週の金曜日の昼休み、西浦さんは一人でラーメン屋に来ていて俺と話したこと覚えてる?」
「覚えてるよ。あの時にはじめて水嶋君が莉奈ちゃんのことを話してくれたのよね」
やはり西浦真美は二人存在しているに違いない。こっちのほうはポジティブな西浦真美だろう。じゃあ今、ネガティブな西浦真美は一体どこにいるんだろうか。もしかして、どっちの西浦真美も本物なのかもしれない。何かの現象が起こって西浦真美の人格が変わっているんだろうか。それだと西浦真美の記憶に齟齬がある。ポジティブな西浦真美の記憶ではラーメン屋に一人で行って、火曜日には俺と二人で居酒屋に行った記憶がある。ところがネガティブな西浦真美は他の女子社員とホテルのランチに行って、火曜日は残業をしていたという記憶があるわけなのだ。この二人の西浦真美を会わせることはできないだろうか。しかし、どちらかが一方、存在しているとき、もう一方のほうはどこにいるのかわからない。まるで消えているかのようだ。俺が黙り込んで考えているとポジティブな西浦真美が話しかけてきた。
「水嶋君どうしたの?何か深く考えているようだけど、莉奈ちゃんのことで悩んでるのかしら?」
「いや、あのね西浦さんは焦らずアプローチしていくという考えではないってことだよね?」
「そうね。それってある意味ネガティブじゃない?女の子にアプローチするんだから、もっと積極的にしていかないと前に進まないでしょ?」
「それもそうだね。わかった、ありがとう」
「じゃあ、わたし、そろそろ戻るわね」
そういってポジティブな西浦真美は休憩室を出ていった。俺はこっそりとポジティブな西浦真美の後をつけていったが、ポジティブな西浦真美は自分の席に戻っていった。二人の西浦真美が存在するのであれば、他の社員の記憶にも齟齬がでるはずだが、誰も騒いでいる様子がないということは、どちらかの西浦真美が見えていないのかもしれない。見えているのは俺一人ということになる。考えてみるとポジティブな西浦真美は積極的にしていかないといけないという。ところがネガティブな西浦真美は消極的で少々理屈っぽい。どちらも本物の西浦真美とすればポジティブな部分とネガティブな部分が真っ二つに割れて存在してしまった。つまり分裂現象が起こったことになる。二人のうち、どちらに問題があるのか考えてみるとネガティブな西浦真美のほうだと思う。次にネガティブな西浦真美に会った時にポジティブな部分を思い出してもらうようにしようと思った。おそらく基本はネガティブな西浦真美がメインとして存在していて、ポジティブな西浦真美は時々俺の前に現れるのだろう。昼食を終えて午後の業務を続けていたが、なかなか西浦真美と会えなかった。結局この日は西浦真美に会うことはできなかった。
■ 2018年7月13日(金)
今日は雨上がりの晴れだったが朝から暑くてジメジメする。うるさい蝉の鳴き声の中、俺は駅まで歩いていた。今日、本当にネガティブな西浦真美に会えるかわからないが、昼休みに二人で会社近くのファミレスに誘うつもりだ。10:00前に出勤して自分の席に座ってパソコンの電源をつけた。早速、西浦真美に「大事な話があるから昼休みに二人で近くのファミレスに行こう」とメールを送った。しばらくして西浦真美から「いいけど何の話?」という返事がきた。これはどちらの西浦真美かわからないが、おそらくメインはネガティブなほうだろうと思う。昼休みになり、二人で会社の近くにあるファミリーレストランに入った。前と同じくランチメニューから俺はハンバーグで西浦真美はパスタを注文した。西浦真美はよほどパスタが好きなんだろうか。窓側の席に座っていたが、俺は日差しがあるにもかかわらず西浦真美に影がないことに気づいた。やはり、この西浦真美はおかしいのだ。食事をしながら、俺は話しはじめた。
「西浦さんは、焦らず少しずつ優しく莉奈ちゃんにアプローチしていくのがいいって言ってたよね?」
「うん。女の子にアプローチするんだったら、相手の気持ちを大切にしながらじゃないと、告白してもフラれる可能性高いと思うわ」
「たしかにそれもそうなんだけど、どうして西浦さんはそこまで慎重になってるの?フラれる可能性ってネガティブな考えだよね?」
「水嶋君だって莉奈ちゃんとうまくいきたいでしょ?後悔したくないでしょ?だからよ」
「西浦さんの話をきいてると、積極性がなくて消極的なことばかり言ってるような気がするんだよ」
「そうかな?それで水嶋君は何がいいたいの?」
「西浦さん、自分の中で忘れていることがあるんじゃないかって思うんだよ。積極性とかポジティブな部分とか、そういう部分がまるで感じられないんだよ」
「わたしがそれを忘れているっていうの?」
「えっとね、思い出してほしいんだよ。西浦さんは積極的な部分を持っていたと思うんだけど、今は全くそれがなくなってるように思うんだよ」
「思い出すと言われてもわたしはわたしだし。積極的な部分か・・・う~ん」
「じゃあ、少し目を閉じて自分がどんな人だったか思い出してみて」
「わかったわ」
そういって西浦真美は目を閉じて何かを思い出しているようだった。30秒ほど経った時、突然、西浦真美が「きゃーーー」と叫んだ。レストラン内の人がこちらを一瞬みた。するとさっき見えていなかった西浦真美の影が現れた。
「いきなりごめんなさい。わ、わたしは・・・」
「どうやら一つに戻ったみたいだね」
「なんだか二つの記憶が混同しておかしな感じだけど、水嶋君とラーメン屋で話したことや二人で居酒屋に行った記憶があるの。一つに戻ったってどういうこと?」
「西浦さんはポジティブな部分とネガティブな部分の二つに分裂して存在していたんだと思う。それが今、一つの存在に戻ったんだよ。まあ分裂現象といえばいいのかな」
「また変な現象にわたしは巻き込まれていたのね。さっき私の中に何かが入ってくるような感じがしたの。思わず叫んでしまったけど、突然記憶が焼き付けられたみたいでびっくりしたの」
「つまり、先週の金曜日にホテルのランチに行った記憶とラーメン屋に行った記憶、そして火曜日に残業していた記憶と俺と二人で居酒屋に行った記憶があるってことだよね?」
「それだけじゃないの。昨日、休憩室で水嶋君と話した記憶もね。昨日はわたし、社長と出張していたはずなんだけど、会社にいた記憶もあって変な感じ。頭おかしくなりそうだわ」
「まあ、そこは両方の記憶を持っているしかないかもね。どちらか一方の記憶を消すなんてできないし、するべきではないと思うから」
「それにしても水嶋君に関わるとおかしな現象に巻き込まれちゃうのね」
「いや、今回の現象に俺は無関係な気がする。たしかに莉奈ちゃんの話をしたから俺も少なからず関係しているんだろうけど、その前から分裂現象は起こっていたと思う」
「たしかにラーメン屋に行った時、水嶋君とは偶然会ったわけだから、そうかもしれないわね」
「この分裂現象が起こった原因について、何か心当たりはないの?」
「あるにはあるんだけど・・・」
「よかったら話してくれないかな?そうじゃないとまた分裂現象が起こったら面倒でしょ?」
「わかったわ」
話を聞いてみると、先週の月曜日から西浦真美はかなり悩んでいたらしい。その悩みのキッカケとなったのは両親からお見合いをしないかと言われたことらしい。当然のように西浦真美は断ったのだが、両親から「もうすぐ30歳になるのにいつまでも女性が独身でいるのは良くない」と言われたようだ。それを聞いて西浦真美は自分の年齢について深く考え込んでしまった。アラサーで未だに独身の女性。このままだと一生独身になってしまうのではないかと考えた。女性にとって30歳で独身というのは絶望的であるように思えたという。ずっと悩み続けているうちにどんどんネガティブにしか考えられなくなったという。もうすぐ自分は30歳になり、結婚できる可能性も低くなって一生独身になってしまう。もう絶望的な状況になりつつあるんだと。それから「わたしはもうすぐ終わってしまう」と思うようになってしまったらしい。ずっとネガティブにしか考えられなくなっていつの間にかポジティブな自分を忘れてしまっていたという。そしていつの間にかネガティブなことしか考えられなくなったということらしい。おそらくその瞬間にポジティブな部分とネガティブな部分が分裂して二人の西浦真美が存在するようになったのだろう。メインはネガティブのままの西浦真美でポジティブのほうはネガティブな西浦真美が存在していない時に俺の前に現れるようになったということだろう。
「西浦さん、すごい悩んだんだね。でも30歳になっても大丈夫だと思うよ。そんなに美人だし。それに西浦さんは自分が本当に好きになった人と結ばれるべきだと思う。それまで焦らなくていいと思う」
「うん。そうよね。わたし、焦りすぎていたと思う。今の時代、30歳になってもまだまだ結婚できるチャンスあるわよね。それにしても、二人のわたしが存在したということは、昨日、わたしが会社にも存在していたってことよね?社長と出張してたはずなのに、他の社員に見られたのはまずくないかしら?」
「それは大丈夫だと思う。他の社員が騒ぎ出してないところをみると、ポジティブな西浦さんの存在は社員に見えてなかったのか、石ころのような存在になっていて気づいていないんだろうと思う」
「それならいいんだけど。水嶋君、わたしに分裂現象が起きてるっていつから気づいてたの?」
「確証できたのは昨日、ポジティブな西浦さんと話した後かな。最初は人格だけが変わっているのかと思ったんだけど、でもそれだと西浦さんの記憶に齟齬があると思ったんだよ。二つの記憶があるわけだからね。そこで考えてみるとポジティブとネガティブの二人が存在していると思った。でも難しかったのはここからで、どっちの西浦さんに問題があるかってことだった。ポジティブなほうの西浦さんは別に問題がありそうになかったけど、ネガティブなほうの西浦さんの発言は積極性がまるで感じられなかった。問題があるとすれば、ネガティブなほうの西浦さんだと思った。そして、おそらくメインとして存在しているのはネガティブなほうだと思ったんだよ。たしかに西浦さんが一人でラーメン屋に行くのもおかしな話だなって思ったから」
「だから今日、ネガティブなわたしのほうを昼食に誘ったというわけね。本当にありがとう。それにわたし、水嶋君にずいぶんとネガティブなこといったりしてごめんなさい」
「そのことならもういいよ。その上で聞きたいんだけど、俺は結局、早くアプローチしたほうがいいのか、焦らずアプローチしたほうがいいのかどっちがいいと思う?」
「そうね、早めにアプローチしていくのがいいと思うけど、あまり焦りすぎるのもよくないからはやまって告白するのは避けたほうがいいと思うわ。でも今年の夏の間には告白したほうがいいと思う」
「そうか、わかった。頑張ってみるよ。それでこそ西浦さんだね。ありがとう!」
「ううん。こちらこそありがとうね。でも、また変な現象が起こらないか心配だわ」
「まあ、また変な現象が起こったら何とか乗り越えるしかないね」
「そうなったらまた水嶋君に頼るかもしれないけど・・・」
「俺にできることがあればいつでも頼りにしてくれていいよ」
「うん。本当にありがとう」
これで西浦真美に起こった分裂現象は解決したのである。そういえば、俺の身の回りで起こる不思議な現象は2033年から送られてきたメールに解決方法のヒントが書かれていたが、今回はそれに頼らず自らの力で解決させることができた。それに7月はまだ2033年からのメールは届いていないのが気になるが、しばらくは重要なことが起こらないからなのだろうか。もしくは2033年の未来に変化がでてきたのだろうか。この先、おかしな現象がまだまだ起こりそうな気がしてならないが、もう自分で解決させるようにしないといけないということなのだろうか。今はまだわからないことだらけだ。




