第2話 不登校編 空に潜る
モチオは、古い家の前で一度、深く息を吐いた。
そのまま中へ入り、「ただいま」と言いながら自室へ直行する。
薄い壁の向こうからは、すでに母親のけたたましい声が響いていた。
電話で誰かと話している。
「ええ? 元旦那! あいつ、不倫してるってさ。最低な人間だよ! 裁判で慰謝料たんまりもらってやる!」デリカシーもなく大声で話すその内容は、部屋まで筒抜けだった。
その「最低な人間」が、モチオの父親だ。
そして、その最低な人間の子供が、自分だった。
夕食の時間になると、嫌でも母親と顔を合わせることになる。
引っ越した当初は、まだ貧しいながらもささやかな生活をしていた。
しかし、だんだんとうっとうしくなり、今では母親と直接話すことはほとんどない。
伝えたいことがある時は、たいてい妹を挟んだ。
とにかく、夕食が不味かった。
「あなたの父親は最低で、よそに女作って……あんな最低な人間にならないでよ!」
「なんで口答えするの! あんたもお父さんそっくり!!」
「なんでそんな考え方なの! お父さんの血だわ、気持ち悪い」
母親は、父親という存在の影を通して、何度も何度も、執拗なまでにモチオの人格を否定した。
一方で、この女は自分を完璧な被害者だと言い張り、弁護士を雇って裁判で父親と争っているらしかった。
夕食の席は母親の小言しか聞こえないので、モチオはひたすら自室にこもるようになった。
ある日、モチオは意を決して母親に言ってみた。
「お母さん、スイッチ2買ってほしい。クラスのみんな持ってるから」
母親はすぐに怒鳴り散らした。
「この家にそんなお金はどこにあるの! よそはよそ、うちはうち! みんな一緒なんてウチには関係ない。本当贅沢なのは誰に似たのかしら。ああ、あの血が入ってるから……」
モチオは諦めて口を閉じた。
これ以上は同じ言葉が繰り返されるだけだと分かっていた。
そもそも、この家にそんなお金はない、という言葉が不思議でならなかった。
子供にゲームを買う数万円はなくても、弁護士に100万円単位で払う金はあるのだ。
モチオは自室に帰り、プレイステーション2の電源を入れた。
これも昔、父親が買ってくれたものだった。
その時も、お父さんとお母さんは大喧嘩をしていた。
あの時は自分のわがままでお父さんに買ってもらったが、こんなに喧嘩をするなら買ってもらわなければよかったと思ったのを、今でも鮮明に覚えている。
しかし、今のモチオの生活にとって、この古いゲームだけが、時間を、そして人生を潰す唯一の方法になっていた。
翌朝、同じ時間に目が覚めた。
学校に行かないと……。頭では分かっている。
しかし、身体が重かった。
もう1週間、こんな状態が続いている。
学校に行かなければいけないという気持ちはあるが、それ以上に、身体が重くてどうしても動かなかった。
午前7時45分。
突然、雷のような怒号が響いた。
「早く起きなさい! 学校に行きなさい!!」
今日は少し休みたい、今日だけは――というモチオの切実な願いを、その声が冷酷にかき消した。
母親は、本当に自分に学校に行ってほしいのだろうか。
それとも、とにかく視界から、家から追い出したいだけなのだろうか。
疲弊しきった身体と心を持つモチオには、その怒号が自分を心配してのものなのか、ただ家から追い出したいだけなのか、もう判断がつかなかった。
ただ、あの不快なモーニングコールから逃げたい一心だけで、機械的に学校へ行く日々が続いた。
今日は、学校で三者面談があった。
「成績は、まあ……平均より少し下ですね。まだまだ、これからです」
担任が成績表を見つめながら、事務的に言った。
隣に座る母親が、すかさず口を挟む。
「モチオ、もう少し頑張りなさい。せめて、みんなと同じくらいにならないと駄目よ」
モチオはただ、下を向いたまま、小さな声で呟いた。
「ゲームの時は『みんなと一緒』を否定するくせに、成績の時は言うんだな」
もう、言葉を心の中に閉じ込めておく限界だった。
堰を切ったように、心の声が外へと漏れ出ていた。
感情が、内側で今にも爆発しそうになっていた。
しかし担任はモチオの呟きを完全に無視して、次の質問を淡々と投げかけた。
「モチオ君は、将来は何になりたいの?」
「モチオ君、将来したいことは何かな?」
母親も、早く答えろと促すようにモチオの顔を覗き込んできた。
「別に……」
モチオがそう答えると、母親はあからさまに呆れた顔をした。
モチオは、その呆れた顔をしている大人を、自分の母親を冷ややかに見つめていた。
こんな大人を見せられて、将来に夢も希望も持てるわけがなかった。
『なりたいものになる』
『やりたいことをする』
これまで学校も、親も、それらの言葉をすべて
「我慢しろ」
「我慢しろ」
「我慢しろ」と、自分に力ずくで押し付け続けてきたはずだ。
散々我慢させておいて、やりたいことは何か、と聞いてくる。
大人はこの致命的な矛盾にすら気づいていないのだろうか。
まるで、海中を深く潜らせながら「空を飛べ」と言っているようなものだ。
こんな破綻した言葉を平気な顔で言えるのが大人なら、
その問いに対する答えは、「別に」が唯一の最適解である。
やりたいことを徹底的に我慢させられ、いろんなことを諦めざるを得なかった僕に、
今さら「将来何がしたいか」と問う。
その不条理だけで、身体の奥から苛立ちの炎が激しく勢いを上げる。
モチオは拳を強く握り締め、目の前の先生と母親を、激しく睨みつけた。




