第4話:朝食の温もりと拡大する境界(前編)
ミリアの瞳からあふれていた涙がようやく穏やかに収まり、彼女は名残惜しそうにセトの温かい胸元からそっと体を離した。
その直後、静まり返った朝の冷たい空気の中に、どこからか「きゅるる……」と非常に可愛らしいお腹の音が響き渡る。
羞恥心からか、ミリアは瞬時に両手で自分の顔をパッと覆い隠し、真っ赤になった頬を隠すように耳をペたんと完全に伏せてしまった。
「っ……はずかしい……いっそこのままこの黒土に埋めてほしいかも……」
「気にするな。人間であれ獣人であれ、腹が減るのは生きている証拠だ。恥ずかしがる必要はまったくない」
セトはくすりと優しく笑いながら、昨日収穫した魔力果実の残りと、周囲の黄金色の苗床から新たに採取したばかりの朝露を湛えた新鮮な栄養野菜を手のひらに載せて差し出した。
それはただの野生の植物ではない。セトの『聖地創生』の魔力をたっぷりと吸い込んで育ったそれは、ほんのりと甘い香りを放ち、冷え切った身体に瞬く間に活力を満たしてくれる極上の食材だった。
「ほら、これを食べてみろ。今朝育ったやつは、昨日のよりもさらに高純度の魔力が定着しているはずだ」
「うん……いただきます……っ!」
ミリアは両手で大切そうにそれを受け取ると、小さくお辞儀をして一口かじった。
途端に、彼女の美しい瞳が驚愕に大きく見開かれる。
「――おいし……! 甘くて、噛むたびにジュワッて広がって……それに、身体の内側からぽかぽかしてくるの……!」
冷え切っていた胃袋が満たされるだけでなく、長年の過酷な生活で疲弊しきっていたマナの回路まで心地よく満たされていく感覚に、ミリアは夢中になって野菜を口に運んだ。
その美味しそうに食べる愛らしい姿を見ながら、セトは今後の予定を頭の中で冷静かつ緻密に組み立てていく。
仮小屋の周囲数十メートルはすでに安全な聖域へと生まれ変わったが、この死の土地『灰のヴェール・ガルド』を本当の意味で自給自足のできる一大王国へと発展させるためには、さらに開墾面積を何倍にも広げ、夜間の魔獣や追跡者に対する防衛線を構築しなければならない。
「ミリア、しっかり腹が膨れたら少し手伝え。この黄金の土の周囲に、簡易的な防壁と柵を設ける」
「うん! 私、なんでもする! もうすっかり元気になったから、力仕事もなんでも任せて!」
ミリアは両手を元気いっぱいに握りしめて返事をすると、昨日の衰弱しきった姿が嘘のように活力を取り戻した軽やかな足取りで、セトのそばへとぴたりと駆け寄った。
その頼もしくも愛らしい様子に満足な笑みを浮かべながら、セトは再び右手を地面へと力強く突き立てた。
「いくぞ――『聖地創生・拡張』!」
セトの低く響く凛々しい声とともに、足元の黄金色の光がまるで意思を持った波紋のように周囲の灰色の泥を次々と飲み込み、一気に数メートル外側へと大地を書き換えるように押し広げられていく。
世界そのものを耕し、運命を切り開く農業魔術の作業は、いま、心強い最初の仲間を得て新たなステージへと突入するのだった。
セトが右手を地面から引き抜くと、先ほどまで荒れ果てていた灰色の泥の大地が、まるで黒真珠のように深い光沢を放つ肥沃な黒土へと劇的に変貌を遂げた。
その広がりは、仮小屋を中心に半径で十数メートルほども拡大し、冷え切った荒野の風さえもその一帯だけはどこか穏やかで柔らかな春風のように感じられる。
「すご……い……。地面の色が、まるで生き物みたいに真っ黒で、温かいよ……」
ミリアは拡張されたばかりの新しい黒土にそっと素足を乗せ、その感触を確かめるように小さくつま先を動かした。
奴隷商人から逃げ惑っていた頃、彼女が踏みしめていたのは血と泥に塗れた冷たい岩肌や、足を容赦なく切り裂く棘の生い茂る荒野ばかりだった。それに比べて、いまセトが創り出したこの大地は、まるで母親の胸元のように優しく、少女の疲れた心身を芯から癒やしていく。
「土が生きている証拠だ。ここなら、どんな作物でも驚異的な速度で育つ」
セトは満足そうにうなずくと、周囲に転がっていた流木や、かろうじて形を保っていた荒野の枯れ木を集め始めた。
「ミリア、その辺りに落ちている手頃な枝を回収してくれ。防壁のための杭を作る」
「うん、任せて!」
ミリアは尻尾を機嫌よさそうにパタパタと左右に揺らしながら、小気味よい足取りで周囲の廃材を次々と集めていく。
獣人としての優れた身体能力を発揮し、重たい木材であっても軽々と持ち上げてセトの足元へと積み上げていくその姿は、先ほどまでの怯えた少女の面影を微塵も感じさせないほど頼もしかった。
二人は言葉を交わさずとも絶妙な呼吸で作業を進め、わずか数時間のうちに、開墾地の外周を囲むための頑丈な木の柵の骨組みを完成させた。
セトは出来上がった柵の並びを確認すると、その一本一本に微量の魔力を込めて地中深くへと固定していく。
「これでよし。これで、万が一の魔獣が寄ってきたとしても、簡単に侵入されることはない」
「これで、夜も安心して眠れるね……!」
ミリアは額にうっすらと滲んだ汗を小さな袖で拭いながら、ぱっと満面の笑みを浮かべた。
その無邪気で美しい笑顔を見た瞬間、セトの胸の奥に、かつて王国を追放されたときの冷ややかな怒りとは違う、温かな庇護欲と使命感がしっかりと芽生えていくのを感じた。
この少女を守り、この土地を耕し、やがては自分を切り捨てたすべての人間に目にもの見せてやる――その決意は、もはや揺るぎないものとなっていた。
そして、太陽が中天を過ぎ、鉛色の空がわずかに黄金色の夕暮れへと移り変わろうとする頃、二人の目の前には、広大な荒野の中にぽっかりと浮かぶ緑と黄金の楽園の原型が、見事にその姿を現すのであった。




