第九話 新しい歌のかたち
翌朝、目を覚ました時、私は見慣れない天井をしばらく思い出せなかった。
煤けた梁。壁に吊るされた籠。窓の隙間から入る、薄い灰色の光。耳を澄ませば、家のどこかで鍋が小さく鳴る音と、外を行き交う足音が、幾重にも重なっている。ホーナの家だ、とわかったのは、干した薬草と焼いた粟の匂いが同時に鼻へ届いてからだった。
身体を起こすと、毛布が肩から滑り落ちる。熱は引いていたが、変化の名残はまだ完全には消えていない。手首は少し細いまま、喉の骨もいつもより低く触れた。夜のあいだに完全には戻りきらなかったらしい。私は布団の端を握り、ひとつ息を吐いた。
助かっただけ、ましだ。
広場で崩れかけた時は、正直、もう少しひどいことになると思っていた。村人の目の前であからさまに身体がずれれば、それまで築いたものが一息に壊れてもおかしくない。だがホーナは何も聞かなかった。母親も、寝かせろとだけ言って部屋を空けた。気づいていないのか、気づいていて黙っているのかはわからない。けれど少なくとも、今朝の私はまだ村にいられる。
戸口が軋み、インネーが顔を出した。
「起きたかい」
「お世話になりました」
声は、少し高い。だが昨夜ほどではない。
インネーは一瞬だけ私の顔を見たあと、何も言わず椀を差し出した。粥の湯気がゆっくり上がる。彼女の沈黙は、問い詰める権利を持ちながら使わない大人の沈黙だった。
「今朝は皆、広場にいるよ」
椀を受け取りながら、私は顔を上げた。
「死骸の始末ですか」
「それもあるし、昨夜のことを、ちゃんと話さなきゃならない時分になったんだろうさ」
彼女はそこで少し笑った。
「長いこと、皆で知らないふりしてたからね」
その言い方が、胸に残る。知らないふり。たぶん、この村にとっていちばん都合のいい暮らし方だったのだ。助けられた恩は知っている。でも、その恩が今も誰か一人の孤独の上に乗っていることには触れない。そうして時間だけが積もった結果が、昨夜の慌ただしさと沈黙だった。
私は粥を飲み干し、薬草の煎じを一口含んだ。苦い。けれどその苦味が、身体を現実へ引き戻してくれる。
立ち上がろうとしたところで、戸の外にいたホーナがするりと入ってきた。昨夜のことなど一言も口にしないまま、私の肩へ羽織りを掛け直し、脇腹のあたりは布が傷へ触れないよう少し浮かせて結び直してくれる。手つきは慣れているわけでもないのに、妙に慎重だった。
「まだふらつく?」
「少しだけ」
「じゃあ、広場まではあたしがついてく」
有無を言わせない言い方だった。けれど昨夜のような切迫ではなく、もっと静かな気遣いとしてそこにある。私は礼を言いかけて、結局うまく言葉にできず、小さく頷くだけにした。
広場へ出ると、朝の光はまだ淡かった。山の影が長く村を横切り、昨夜壊れた柵の修繕跡が、濡れた木肌のまま残っている。泥は踏み固められ、溝には半分だけ水が溜まっていた。黒く歪んだ魔族の死骸は、すでに村外れへ引きずられている。残った血の色だけが、夜の重さを思い出させた。
近くを通る者は皆、その死骸をまともに見ないようにしていた。山犬なら罵りながら足で転がせる若い衆でさえ、今朝ばかりは声が低い。見張りの男と鍛冶場の老人が何かを確かめるように柄の長い槍でつついても、誰も笑わなかった。昨夜ここへ来たのは、ただの腹を空かせた獣ではない。もっと古く、もっと名を口にしづらいものだったのだと、村じゅうがようやく理解し始めている顔だった。
広場には、思っていた以上に多くの人が集まっていた。子どもたちまで、母親の後ろからこちらを見ている。誰もが、何かを待っている顔をしていた。見張りの男と村長、それに水汲みの女、鍛冶場の老人、セイもいる。ホーナは子どもたちの列の端へ行きかけ、それでも一度だけ振り返って私の顔色を確かめてから、ようやく皆の輪へ戻っていった。
そして、その少し離れたところに、老英雄が立っていた。
昨夜の闇の中で見るより、朝の光の下のほうが、老いは残酷だった。脚の癖も、肩の落ち方も、目の下の傷も、容赦なく浮き彫りになる。それでも村人たちは、誰一人としてすぐには近づかなかった。声をかける者もいない。ただ皆、遠くから見ている。
老英雄もまた、彼らを見返さない。
視線は村ではなく、壊れた柵と、その向こうの森ばかりを向いていた。
私はその距離を見て、胸の奥が重くなるのを感じた。昨夜、確かにこの人は村を守った。だが守った直後の朝でさえ、村とこの人の間にはまだ、橋のかからない谷がある。
村長が咳払いをした。
「……皆、知ってのとおりだ」
だが、その続きが出ない。
言葉がないのだ。感謝、謝罪、説明、どれを先に置くべきか決められないまま、老人の喉だけが小さく震える。その様子に、広場の空気はますます固くなる。しかも昨夜ここへ現れたのは、村人たちが見て見ぬふりを続けてきた「山の人」だけではない。古い歌の中にしかいないと思っていた魔族まで、火の明かりの届く場所へ立ったのだ。その事実が、誰の舌も余計に重くしていた。
その膠着を破ったのは、セイだった。
「まったく、年寄りばっかりが意地っ張りで困るね」
腰の曲がった身体を杖で支えながら、彼女はずいと前へ出た。
「助けられたなら助けられたって言えばいいし、助けたほうも、毎度毎度化け物みたいな顔して立ってないで、椅子のひとつでも借りりゃいい」
広場の何人かが、息を呑んで目を丸くした。老英雄は眉間へ深く皺を寄せる。
「婆さん」
「黙んな、ファルグ」
初めて、その名が広場へ落ちた。
ファルグ。
その瞬間、広場の空気がひっくり返った。
「今、ファルグって……」
「勇者さまの名だぞ」
「まさか」
「いや、でも――」
押し殺したざわめきが、あっという間に輪の外まで走る。子どもでさえ、その音の重さだけは知っていた。この辺りでは、昔話の勇者にあやかって頭文字の音を子に贈るくらいには、その名はまだ生きている。山の人、あの人、剣士。そうした呼び方の奥に、よりにもよってあの勇者の名があったのだと知れれば、静かでいられるはずがない。
老勇者の顔が、わずかに歪む。怒りか、苦さか、その両方か。だが否定はしなかった。その沈黙が、かえって村人たちの動揺を本物にしてしまう。
「昔のことを、言葉半分で済ませてきた報いさね」
セイは杖で地面を小さく叩く。
「この人は助けた。助けきれなかった夜もあった。けど、それから先もずっと、獣が来るたび山から下りてきた。昨夜みたいに、獣だけじゃ済まない夜まで背負わされてね。皆、知ってたよ。なのに名前で呼ばず、見なかったことにして、楽なほうへ逃げた。あんたたちだけじゃない、この馬鹿もだ」
最後の一言は、ファルグへ向かっていた。
老勇者は目を細める。だが反論はしない。
私はそのやり取りを聞きながら、胸の中で何かがかちりと噛み合う音を聞いた気がした。
村人たちの記憶は、もう十分に揃っている。
足りないのは、誰かがそれを一本の流れにして返すことだけだ。
私は広場の中央へ一歩進んだ。誰かがこちらを見る。喉の調子はまだ万全ではない。声も完璧ではない。けれど、今ここで黙っていたら、第1話から探してきたものが嘘になる気がした。
「……歌っても、いいですか」
誰へ向けた言葉か、自分でもわからなかった。村人へか、ファルグへか、それとも自分へか。
広場は静まり返る。
老勇者だけが、初めてまっすぐこちらを見た。その眼差しには警戒があった。昨夜までと同じ、勝手に綺麗にするな、という警戒だ。
私は頷いた。
「昔話にはしません」
それだけ言って、背から七響琴を下ろした。
長くは弾かない。深く魔力を通せば危うい。だから弦のない腹を撫でるように、ごく浅く、息と指だけで支える。音は高くも低くもない、井戸端の会話を邪魔しない程度の小さな響きで始めた。
広場の空気へ、音を置く。
それから私は、歌うというより、語るように声を重ねた。
山から下りてきた剣士がいたこと。
名前より先に、村の夜を知っていた人だったこと。
獣が来るたび、畜舎の戸を閉める音、子どもを抱いて走る足音、井戸端で水を汲む手の震えを、ずっと聞いてきたこと。
若い男に見えた夜もあれば、老人に見えた夜もあること。
片腕に見えたのは、片方の手を庇っていた日があったからかもしれないこと。
五体満足に見えたのは、誰かの前では痛みを隠して立っていたからかもしれないこと。
私は事実を断定しないまま、村人たちの記憶をそのまま並べた。あの夜こうだった、と一つに決めない。誰が何を見たか、その食い違いごと置いていく。そうすると不思議なことに、ばらばらなはずの断片が、同じ人物の周りを巡っていたのだと自然にわかる。
子どもが子守唄にしていた山の唸り。
鍛冶場の老人が若い頃に打った刃物の重さ。
水汲みの女が覚えている、血の匂いのついた朝。
インネーが知っている、怪我人へ当てた布の冷たさ。
見張りの男が言えずにいた、壊れた柵を何度も組み直した手間。
それらを一つずつ拾って、私は声に乗せた。
歌というにはあまりに素朴で、叙事詩というにはまだ短い。ただ、この村の空気が、今まで誰も口にしなかった順番で並び直されていくのがわかる。
ファルグの顔は、最初のうちは固いままだった。
だが「助けきれなかった夜もあった」という一節に差しかかった時、その肩がわずかに沈む。皆の前で初めて、その敗北が、隠すべき恥ではなく、この村の時間の一部として置かれたからかもしれない。
私はそこで、あの山の夜を、想像の届くぎりぎりまで語った。
山が泣いたこと。
人がそれを止めようとして、届かなかったこと。
それでも、そのあと山を捨てなかったこと。
届かなかった一夜のあとで、来るたび来るたび獣を退け、名も告げず、礼も受け取らず、村が続くぶんだけ自分も傷んでいったこと。
英雄とは、一度の勝利で残る者だけを言うのではない。
敗れたあとも、その土地に残る者を、そう呼ばずに何と呼ぶのか。
その問いを、私は最後の節へ置いた。
声は途中で二度ほど掠れた。音も少し不安定になった。けれど魔力を込めすぎないよう、息と間だけで繋いでいく。広場は静かだ。誰もが聞いている。子どもさえ、途中から泣き声を止めていた。
語り終えた時、風が一筋だけ広場を横切った。七響琴の上を撫で、火の匂いを揺らし、遠くの柵の縄を小さく鳴らす。その音が、最後の余韻みたいに村へ残った。
誰も、すぐには拍手しなかった。
華やかな場ではないから当然だ。だがその沈黙は、否定ではなかった。皆、自分の中で何かを動かしている沈黙だった。
最初に口を開いたのは、見張りの男だった。
「……あの夜、親父は脚をやられてた」
広場の視線が集まる。彼は少し気まずそうに頭を掻いた。
「山から下りてきた人に運ばれたって、酔うと必ず言ってた。けど、話が大きくなるのが嫌で、俺はずっと他所じゃ言わなかった」
水汲みの女が、ぽつりと続ける。
「うちの母親は、毛皮の上着を一枚失くしたって怒ってたよ。山の人が怪我してるって聞いて、こっそり置いてきたのに、お礼のひとつもないって」
鍛冶場の老人が鼻を鳴らす。
「礼なんぞ言う男なら、あんな山にこもるか」
だがその言葉には、初めて棘よりも苦笑が混じっていた。
インネーは袖で目頭を拭いながら笑った。
「ほら、やっぱり皆、知ってたじゃないの」
知っていた。
だが、繋がっていなかった。
私は広場の人々を見回した。誰かの記憶が誰かの記憶を呼び、ようやく同じ方向を向き始めている。歌がしたことは、結局そこなのだ。新しいものを作ったのではない。散っていたものを、同じ火のまわりへ座らせただけだ。
ファルグは最後まで黙っていた。
皆の言葉の流れがひと段落してから、ようやく一歩だけ前へ出る。その顔は、朝よりもさらに疲れて見える。けれど目だけは、今までより少し違っていた。怒りと拒絶の中へ、戸惑いが混ざっている。
「……勝手な歌だ」
吐き出すように言う。
私は頭を下げかけた。だが続く言葉が、その動きを止めた。
「だが、嘘ばかりでもなかった」
広場の空気が、目に見えないほど少しだけ緩む。
私は顔を上げた。ファルグはもうこちらを見ていない。代わりに、村人たちのほうを向いていた。真正面からではない。すぐ逃げられる角度を残した、いかにもこの人らしい立ち方だった。
それでも、それは初めて、村のほうへ身体を向けた姿だった。
人の輪が少しずつほどけ始めた頃、ファルグが私の脇を通り過ぎた。視線は合わせないまま、すれ違いざまに低く落とす。
「隠しとけ」
何のことか訊き返す前に、その目が私の喉元へ一瞬だけ落ちた。私は息を呑む。
「……気づいていたんですか」
「山で崩れかけた時からな」
ファルグは足を止めない。だが声だけが、わずかに残る。
「村の連中にゃ、昨夜のことで手一杯だ。お前の呪いまで一緒くたに背負わせるな」
きつい言い方なのに、不思議と拒絶ではなかった。私は七響琴を抱えたまま、その背中へ小さく頷くしかない。
「はい」
「……その身体でも、聞こえるもんは捨てるな」
最後の一言だけ、風の音に混じるほど小さかった。けれど、たしかに届いた。
歌は終わった。
だが、本当の意味で新しいものが始まるのは、たぶんこのあとだ。
私はそう思いながら七響琴を抱え直した。弦のない楽器の腹は、まだほんのり温かい。魔力はぎりぎりで済んだらしい。喉の熱も、昨日ほど危うくはない。
広場の上空では、雲の切れ間から遅い光がようやく山肌へ差し込み始めていた。昨夜の傷跡も、今朝の泥も、同じ光で照らされる。それが、何より章の終わりへ近づいた朝らしく思えた。




