第十話 響きを聞け
その翌朝、山へ向かう足は、不思議なくらい軽かった。
村を出る時、誰も引き止めなかった。見張りの男は無言で頷き、インネーは焼き菓子を二つ持たせ、鍛冶場の老人は昨日研いだばかりの小刀を黙って差し出した。ホーナは門口までついてきたが、さすがに「行かないで」とは言わなかった。その代わり、傷へ触れないよう私の外套の合わせを指先で整え、それから小さな声で言った。
「今度はちゃんと戻ってきて。山の話だけじゃなくて、あんた自身の続きも聞かせて」
私はすぐには答えられなかった。歌にする話を求められることには慣れている。けれど、自分自身の続きを待つと言われたことは、たぶんなかった。曖昧に笑って、それが約束になるかどうかもわからないまま、それでも前より少しだけ約束に近い気持ちで、私は山道へ足を向けた。
空気はよく澄んでいた。昨夜の騒ぎが嘘のように、沢の音は細く一定で、木々の葉の裏だけが朝の光を受けて白い。山の色は青と灰との間で揺れ、遠くの岩肌にはまだ冷えた影が残っている。こんな日なら、初めてこの山へ入った時には、美しいと思ったかもしれない。だが今の私には、美しいというより、ようやく機嫌の読める相手に見えた。
岩棚へ着くと、ファルグは小屋の前に座って矢羽を整えていた。
こちらに気づいていたはずなのに、すぐには顔を上げない。鷹の羽だろうか、黒と白の混じった矢羽を指先で撫で、角度を確かめ、糸を巻き直していく。指は相変わらず強張りがちだが、やるべき動作の順番は身体に染みついている。
「おはようございます」
「遅い」
返事は短い。けれど帰れとは言われない。
私は少し離れた岩へ腰を下ろした。ここ数日で、近づいていい距離とそうでない距離を、ようやく覚え始めている。
「昨日の歌、村の皆が喜んでいました」
「俺は喜んでねえ」
「知っています」
ファルグはそこでようやく目を上げた。苛立った顔をしている。だが本気で怒っている時の硬さではない。気に入らないが完全に切り捨てるほどでもないものへ向ける顔だった。
「でも」
私は続けた。
「あなたは止めませんでした」
「止めたところで、お前はやっただろう」
否定できない。私は苦笑し、ファルグは小さく鼻を鳴らした。
風が吹く。岩棚の端に干された薬草が、細い影を足元へ落とす。今日は空気がよく通っていて、谷の底から響く沢音も、前より澄んで聞こえた。遠くで鳥が一度鳴き、すぐに黙る。その静けさの中に、例の長い山の音が、糸のように混じっていた。
私は無意識に、そちらへ耳を向けていたのだろう。ファルグが矢羽から手を止め、ぼそりと言った。
「……お前、やっぱり聞こえてるんだな」
私は顔を上げる。
「何がです」
「惚けるな」
ファルグは顎で、谷の奥を示した。
「あの、山の泣き声だ。村の連中は嫌がるだけだが、お前は最初から、あれを追う耳をしてる」
胸の中が、ひどく静かに脈打つ。
ずっと言葉にしきれずにいた感覚へ、初めて他人の側から名前が触れた気がした。
「……歌に、聞こえます」
言ってから、自分で少しだけ身構えた。これまでその言い方をすると、たいてい妙な顔をされるか、話を逸らされるかのどちらかだった。
だがファルグは笑わない。
「だろうな」
その即答に、今度はこちらが息を呑む番だった。
「俺には、ただ頭を掻き回す音だった」
ファルグは矢を膝に置いた。
「腹の底まで響いてきて、目の前のものに刃を当てても、どこにも届いた気がしねえ。あの夜、俺はそれを力ずくで黙らせようとした」
彼の眼差しは、谷の奥ではなく、自分の手元に落ちている。
「剣は振った。ありったけを込めた。昔の俺は、それで大抵のものを割れたからな。岩でも、鎧でも、獣の骨でも」
乾いた笑いが一つ、喉の奥で転がる。
「だが、あれは違った」
私は身を乗り出しそうになるのを堪えた。続きを促す代わりに、息を潜めて待つ。ファルグは、待たれることにはもう慣れているのかもしれない。あるいは、昨日の歌のせいで、少しだけ話してもいい気になっているのかもしれない。
「力で押すってのは、壁に向かってひたすら拳を打ち続けるようなもんだ。石なら砕ける。木ならへし折れる。だが、風や音にそれをやっても、掴んだ端から指の隙間を抜けていく」
彼は近くに落ちていた小枝を拾い、地面へ一本の線を引いた。
「斬るなら、硬いところじゃない」
もう一本、細い線を交差させる。
「動きが変わるところだ」
言葉の意味は、理屈としてはすぐにわからない。だが耳ではなく身体のどこかが、その考え方を既に知っている気がした。戦いの最中、噛み合わない力を無理に押し込まず、相手の重心や息継ぎの変わり目へ刃を滑らせる。そういう感覚に近い。
私は地面の線を見つめたまま問う。
「剣の極意、ですか」
「入口だ」
ファルグは即座に否定した。
「極意なんて大層なもんじゃねえ。俺が年食って、力で押し切れなくなってから、ようやく見えたケチな工夫だ」
「でも、届かなかった理由を知った」
ファルグはわずかに目を細めた。
「知ったところで、あの夜の俺には間に合わなかった」
「私には、間に合うかもしれない」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。こんなふうに、自分を前へ置く言い方は、ここ何年もほとんどしてこなかった。
ファルグはその違和感に気づいたのか、じっとこちらを見た。その視線は鋭いが、責めているわけではない。私の中でさっき何が動いたのか、確かめているような目だった。
「……お前、戦う気はねえって顔をしてたくせに」
「今も、戦うのは怖いです」
私は素直に言った。
「怖いし、向いていないとも思っていました。人の歌を探して、それを残すほうが、自分の役目だと」
「今は違うのか」
答える前に、私は一度息をついた。谷から上がる風が、喉の奥を冷やしてくれる。完全には戻らない身体のこと、山で崩れかけたこと、昨夜広場で声を張り続けたこと、その全部が胸の中で絡まっている。
「違う、というより」
言葉を選ぶ。
「歌を探すことと、戦わないことは、同じじゃなかったんだと分かってきました」
ファルグは何も言わない。
「私は剣で押し切れる人間じゃない。でも、聞いたものを繋いで、誰がどこで何をするかを見つけることならできる。山で獣に襲われた時も、村で皆が動いた時も、結局やっていたのはそういうことでした」
「それで?」
「それでも、最後に刃を振るう瞬間が要るなら、その時だけ逃げないでいたい」
そこまで言って、私は少し笑った。
「……格好いいことを言ってるつもりはないんですけど」
ファルグの口元が、ほんのわずかだけ動く。笑った、というほどではない。だが昨夜までの苛立ちだけの顔ではなかった。
「半端者の理屈だな」
「ええ」
「悪くねえ」
その一言が、思っていた以上に深く胸へ落ちた。
私は視線を逸らすふりをして、指先を握り込んだ。もし真正面から受け止めてしまえば、今まで自分が作ってきた「ただの吟じ手」という言い訳が崩れそうだった。
ファルグは立ち上がると、小屋の壁に立てかけてあった古い木剣を一本こちらへ放った。咄嗟に受け取る。手に馴染む重さだが、均整はあまりよくない。長く使われ、削られ、重心が微妙に癖づいている。
「構えろ」
「今からですか」
「嫌なら帰れ」
嫌ではない。むしろ、その言葉を待っていた自分に気づいて、私は小さく息を吸った。
岩棚の上は広く見えて、実際には足場の悪い凹凸だらけだった。正面から打ち合う場所ではない。ファルグは少し離れた位置に立ち、木の枝先で地面を示す。
「力で押すな。足場を聞け」
「聞け」
「耳だけの話じゃねえ」
言うなり、彼は木の枝を振った。打ち込みではなく、ただこちらの肩口を触る程度の浅い軌道だ。私は反射で木剣を合わせたが、枝先はその手前で止まっている。
「今のは、見えた」
「はい」
「次」
今度は枝先が、足元の石を軽く叩いた。からん、と乾いた音がして、私は無意識にそちらへ意識を引かれる。その瞬間、ファルグの足が一歩だけ滑る。打ち込みではない。ただ位置が変わっただけだ。けれど次に枝が来る角度は、さっきとまるで違っていた。
私は遅れて木剣を出し、辛うじて受ける。手首へ衝撃が残る。
「音の後を追うな。変わり目を探せ」
ファルグの声は厳しいが、昨日の拒絶ほど冷たくはない。
「風が鳴る。沢が鳴る。相手の足が石を踏む。全部聞こえる。だが全部追ってたら遅れる。どの音で流れが変わるか、それだけ拾え」
私は何度か試した。失敗のほうが多い。枝先は顔へ、肩へ、脇腹へ、容赦なく飛んでくる。強くはない。だが受け損ねると、これが本物の刃なら終わっている、とわかる正確さだった。
そして何本目かで、ようやく一度だけ、先回りができた。
ファルグの足が石を踏むより先に、私は木剣を半歩だけずらす。枝先がこちらの防ぎたいところへ来る前に、その通り道へ置く。軽い音。枝が止まる。
ファルグの眉が、わずかに上がった。
「今のだ」
息が詰まる。嬉しい、より先に、身体が何かを思い出しかける感覚があった。勝つために押すのではなく、流れが変わるところへ身体を置く。その時だけ、不思議と喉の熱も騒がない。無理に力を通さなくて済むからだ。
私は木剣を下ろし、荒くなった呼吸を整えた。
「これなら……」
「ああ」
ファルグは枝を地面へ投げる。
「お前の身体でも、無駄に壊さずに済むかもしれん」
その言い方に、私は顔を上げた。ファルグはもうこちらを見ていない。だが今の一言は、明らかに私の「変調」を踏まえたものだった。気づいていた。しかも、ただ厄介な弱みとしてではなく、戦い方を変える理由として捉えている。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……聞かないんですね」
何を、とは言わなかった。ファルグもまた、それを求めなかった。
「言いたきゃ、そのうち言うだろ」
淡々と返ってくる。
「今は、剣の話のほうが先だ」
私は苦笑した。
こんなふうに救われるとは、思っていなかった。問い詰めず、暴かず、ただ「その身体でも」と言って、やり方の話へ変えてしまう。その不器用な優しさが、かえって深く沁みる。
そして実際、その日から私はすぐには山を下りなかった。
朝ごとに岩棚へ上がり、木剣を握った。風が岩肌を撫でる音、沢が石を噛む音、足裏の下で小石が転がる気配、そのどこで流れが変わるかを拾う稽古が続いた。強く踏み込めば熱が喉まで這い上がる。だからこそ、踏み込まなくても届く置き方を、何度も何度も身体へ覚え込ませた。
初めのうちは、木剣を受けるたび手首が痺れ、夕方には脇腹の傷まで鈍く疼いた。だが岩棚へ差す陽の角度が少しずつ変わり、沢沿いの草が深く伸び、村へ下りる頃の風から刺すような冷たさがひとつ抜ける頃には、私は前より短い呼吸で剣を扱えるようになっていた。力を通しすぎず、変わり目へ刃を置く。そのやり方なら、呪いと喧嘩せずに済む瞬間が、たしかに増えていった。
ファルグは褒めるかわりに、昨日できたことを今日は崩し、できないところだけを執拗に突いてきた。そうして私は、歌うためでも逃げるためでもない、自分の剣の持ち直し方を少しずつ覚えていった。
ある朝、木剣の先が初めてファルグの枝を完全に封じた時、彼はようやく小さく頷いた。
「もう下りても、前みたいには崩れんだろ」
その日の午後、ファルグは小屋の中から古びた地図の切れ端のようなものを持ってきた。紙ではない。油紙に炭でざっくり山道が記され、その先に大きな街道と川筋が描かれている。
「この沢をさらに下ると、やがて王都へ向かう本道にぶつかる」
指先で、道筋を示す。
「そこから日暮れのほうへ少し外れた土地に、変な唄を嫌うくせに、変な唄ばかり集めてる婆がいる」
「変な唄を」
「古い節回しだ。祈りとも呪いともつかんものをな。俺には合わん」
大魔法使いか、学者か、あるいはまだ別の誰かか。今ここで決める必要はない。だが次の土地の旋律が、すでに道の先へ待っている気配だけは十分だった。
「行ってみます」
「勝手にしろ」
いつもの調子だ。だがその「勝手にしろ」は、最初の「帰れ」とはまるで違う。
私は油紙を受け取り、慎重に懐へしまった。
「……ファルグ」
初めて、その名を口にすると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「やめろ。似合わん」
「では、何と」
「山の人でいい」
私は笑った。
「それでは、歌にする時に困ります」
「歌にするな」
「難しい注文ですね」
ファルグは小さく鼻を鳴らし、それきり黙った。だが完全に不機嫌ではない。その沈黙の柔らかさが、昨日までとの違いだった。
陽は高くなり、岩棚の影は短くなっていく。谷の底から吹く風は相変わらず冷たいが、その中に混じる長い音は、初めて聞いた時ほど不気味ではなかった。怖くないわけではない。ただ、怖さの中にも、流れと変わり目があるのだと知ったからかもしれない。
私は立ち上がり、小屋と岩棚と谷の形をもう一度目に焼きつけた。
「行きます」
ファルグは頷きもしない。矢羽へ戻した視線のまま、ぼそりと言う。
「次に会う時は、歌より先に、自分の耳を信じろ」
私はその言葉を、何度か胸の中で繰り返した。
歌より先に。
耳を信じろ。
たぶんそれは、剣のことだけではない。人の声も、山の泣き声も、自分が恐れて隠してきた身体の変調も、まずは聞こえたものとして受け取れ、という意味なのだろう。
私は深く頭を下げた。
今度の礼は、ちゃんと届いた気がした。
岩棚を下りる途中、風が背を押すように吹いた。沢音は細く続き、遠くの村からは、もう鍋を打ち鳴らす音はしない。代わりに、ごくかすかに、子どもたちの笑い声のようなものが聞こえた気がした。
山はまだ泣いている。
けれどその泣き声を、私はもう、ただ恐れるだけではいられなかった。
次の土地にも、まだ歌われていない旋律がある。
それを聞きに行くために、私は再び山を下りる。
今度は、少しだけ前より軽い剣を腰に下げて。
(第一章・了)
ここまでで、夏休み短期集中連載分を完結です。
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