第十一話 唄を集める婆の噂
クレヴの町に着いたのは、陽が傾き始めた頃だった。
王都へ向かう本道から少し逸れただけなのに、空気の湿り方がまるで違う。木々の匂いが濃く、川べりの石畳は苔で滑りやすい。宿場というより、行商と木こりが半々で住み着いたような、そんな町だった。表通りに軒を連ねる店の看板は、どれも書き直された跡があり、この町がそれなりに長く商いを続けてきたことを窺わせた。
山を下りてから、幾つの村や町を通り過ぎてきたか、正確な数はもう覚えていない。ファルグと別れた朝の空気だけは、なぜかいつまでも鮮明だった。日暮れのほうへ少し外れた土地に、変な唄を嫌うくせに、変な唄ばかり集めてる婆がいる――あの一言を、道中何度も反芻した。手がかりと呼ぶには頼りない、老人の思い出話のようなものだったが、それでも今の私にとっては、次に進むべき道筋そのものだった。
夕暮れの町並みを歩きながら、まずは腹を満たせる場所を探した。通りを行き交う人々は、旅装の私を一瞥するだけで、特に気にする素振りも見せない。旅人の出入りに慣れた町なのだろう。井戸端で洗濯物を絞る女や、荷を積んだ荷車を押す男の姿を横目に、私は道の先を探った。
通りの両脇には、木材を扱う店が目立った。丸太を積んだ荷車が何台も並び、鋸の目立てをする男の甲高い音が、金物屋の槌音と重なって響いている。軒先に吊るされた乾燥中の薬草束、皮なめしの独特な臭い、パン種の発酵する甘酸っぱい匂い。それぞれの生業の気配が、狭い通りにひしめき合うように詰め込まれていた。川沿いの道まで来ると、水車小屋がゆっくりと回る音が聞こえてくる。木こりの町、というだけあって、林業に関わる商いがこの町の背骨になっているらしい。
道端では、木彫りの小さな玩具を並べた露店が店じまいを始めていた。売れ残りらしき人形を片付ける老人の手つきに、なぜか目を引かれる。旅の途中、こういう何気ない光景の一つひとつが、後になって歌の種になることがある。頭の隅にその情景を留めながら、私は先へ進んだ。
町の中心らしき広場には、小さな噴水があった。水はもう涸れていて、代わりに落ち葉が吹き溜まっている。その縁に腰掛けた老人たちが、こちらを一瞥して何やら囁き合っていた。旅人が珍しい町ではないはずなのに、その視線には微かな好奇の色があった。もしかすると、この町には旅人を歓迎する空気と、余所者を値踏みする空気が、両方同居しているのかもしれない。そんなことを考えながら、私は宿の看板を探して通りを進んだ。
看板の欠けた宿屋の並びを抜けると、明かりの漏れる一軒の酒場が目に入った。
酒場の扉を開けると、薪の爆ぜる音と、湿った外套の匂いが出迎えた。旅の吟じ手が来た、という空気が伝わるのに、そう時間はかからなかった。給仕の女に一杯頼み、隅の卓に腰を下ろす。七響琴の紐を締め直しているうちに、案の定、声がかかった。
「兄さん、吟じ手かい?一曲頼んまあ」
断る理由もない。私は軽く頭を下げ、腕の中の七響琴を掲げた。魔導石にわずかに力を流すと、弦のない胴が震え、最初の音が立ち上がる。
最初の一曲は、いつもの持ち歌にした。国中どこへ行っても知られている、勇者様の武勇伝。竜を討ち、魔物の群れを退け、最後には王都を救ったという、あの筋書きだ。何百回と歌ってきたから、指も喉も何も考えずに動く。景気のいい旋律に合わせて、酒場のあちこちで手拍子が起こった。
「――いいねえ、その調子だ! もう一丁いけるかい?」
歌い終えると、すぐさま声がかかった。杯を打ち鳴らす音と、口笛が重なる。こういう時、聴衆というのは決して満足を知らない。もっと、まだやれ、という空気が、店内に満ちていた。私は苦笑いを浮かべながら、次の一曲を選んだ。今度は少し悲しい戦の歌。それも受けた。三曲目、四曲目と続けるうちに、酒場はすっかり温まっていた。
「兄さん、随分と持ち歌が多いな。他には何がある」
問われて、七響琴の弦――弦はないが、そう呼びたくなる感触の魔導石の並び――に軽く触れながら、私は少し迷った。ここらで、まだ誰にも聞かせていないものを出すべきかどうか。だが、これだけ温まった空気なら、悪い滑り出しにはならないだろう。
「では、最後にもう一曲。まだ粗削りな、新しい歌なんですが」
今夜歌ったのは、まだ誰にも聞かせたことのない歌だった。山から下りてきて、名も告げずに消えた剣士の歌。私はそれを、正しくは「歌になりきっていない歌」と呼んでいる。まだ節の粗が目立つし、間の取り方も定まっていない。それでも、この数か月胸の中で転がし続けた分、声に乗せると勝手に熱がこもった。
――敗れて、なお立てと、山は言わなかった。
――ただ、聞けと言った。獣の声も、風の音も、己の裡の声も。
節の合間に挟んだそんな一節に、自分でも少し驚いた。ファルグから受け取ったものの輪郭が、ようやく言葉になり始めている気がした。喉の奥に、旅の疲れとは別の熱が灯る。それを苦いとは思わなかった。
最後の一音が消えるまで、酒場は静かだった。先ほどまでの陽気な手拍子とは、明らかに質の違う静けさだった。
「――こいつは、また変わった歌だな」
誰かがそうつぶやいたのをきっかけに、拍手と、それより多い問いかけが飛んできた。どこの村の話か、剣士の名は、今もその山にいるのか。私はその一つひとつに、曖昧な笑顔で応じた。答えを持たない部分は、素直に持たないと言う。それが、この仕事で身につけた一番の礼儀だった。
「名も分からんのに、よくそこまで歌にできるもんだ」
「歌にするために、名を知る必要はありませんから。むしろ、名が残らなかった分だけ、誰かが歌わないと消えてしまうので」
その返しに、卓を囲んでいた男の一人が、感心したように唸った。詮索好きな者も、そうでない者も、それぞれの受け取り方で頷いてくれる。旅先の一晩としては、上出来な滑り出しだった。
* * *
客がまばらになった頃合いを見て、私は世間話のふりをして水を向けた。
「この辺りにも、何か面白い話はありませんか。歌になりそうなものなら、なんでも」
「面白い話ねえ……」
隣の卓の男が、杯を傾けながら顎をなでた。
「そういや、婆さんの話でもいいか? この町の外れに、変な唄ばっかり集めてる婆がいるんだよ」
「変な唄、ですか」
「唄そのものは大嫌いなくせに、聞きつけると放っておけないらしくてなあ。旅の連中から聞いた文句を書き留めて、それきり誰にも聞かせやしない。頭がいかれてるとまでは言わねえが、変わり者には違いねえ」
私は苦笑いを作りながら、内心で耳を立てた。唄を嫌うくせに集めている婆――ファルグが最後にくれた手がかりと、寸分違わない。
「その婆さん、どちらに?」
「ここから半日も歩けば、森の中に塔みたいな家があるとよ。俺らも近づいたことはねえけど」
「近づいたことがない、というのは」
「なんとなく、だな。悪さをするって話は聞かねえが、若い娘が出入りしてるのを見たって奴もいる。弟子か何かなんじゃねえか」
「へえ」
興味なさげに相槌を打ちながら、頭の中ではすでに道筋を組み立てていた。若い娘、という一言も、頭の片隅に留めておく。
「昔は、町の詠唱士たちの間じゃちょっとした有名人だったらしいぜ」
別の卓から、初老の男が会話に混ざってきた。給仕の女がその男の前に新しい杯を置きながら、呆れたように口を挟む。
「あんた、その話、いつも同じところで盛るんだから」
「盛ってねえよ。俺の親父の代の話だ。魔法使いとしちゃ、この国で指折りだったってな。今じゃ声も出せねえほど弱っちまったらしいが」
「声が出せない」
思わず聞き返すと、初老の男は得意げに続けた。
「なんでも、若い頃に無理な魔法を使いすぎて、喉をやっちまったとか。詳しいことは知らねえけどよ。それでも唄だけは今も集め続けてるってんだから、業が深いというか、なんというか」
喉を、失っている。その情報は、これまでの噂話の中でも一等重かった。私は表情を崩さないよう気をつけながら、杯を傾けるふりをして、その先を促した。
「その方に、会うことは難しいでしょうか」
「さあな。俺らでも会ったことねえんだから、旅の兄さんに会えるかどうかは知らねえよ。まあ、行ってみりゃわかるんじゃねえか」
乾いた笑いとともに、話はそこで一区切りついた。もう一人、年配の女が口を挟んできた。
「唄っていえば、この辺じゃ『空が歌った夜』の話もあるよ。知らないかい」
「初耳です。どんな話なんですか」
「随分昔、空が丸ごと歌い出したみたいな夜があってね。そのおかげで村が助かったって話さ。祠もあるくらいだから、まるきりの作り話でもないんだろうけどねえ」
「歌ったのは、誰なんです?」
「聖女様、とだけ聞いてるよ。名前までは残っちゃいない」
「その祠は、今も?」
「町外れに、今もあるよ。祭りの日には、酒の一杯くらいは供えるもんさ」
空が歌う。名の残らない聖女。喉を失った魔法使い。奇妙な符合が、頭の隅で幾つも灯った。この町には、まだ歌になっていないものが、思っていたより多く転がっているらしい。
「なんだって、旅の兄さんがそんな古い話に興味を持つんだ?」
問われて、私は笑ってこう返した。
「――いい歌になりそうなので」
男たちは軽く笑い、それ以上は追及してこなかった。ちょうどいい重さの答えだった。本当に知りたいことを、まだ誰にも預けるつもりはない。
* * *
宿を取り、狭い寝台に横になってから、今日聞いた話を頭の中で並べ直した。
唄を嫌うくせに集める婆。森の中の塔。出入りするという若い娘。空が歌った夜。名の残らない聖女。
ファルグの言葉を思い出す。日暮れのほうへ少し外れた土地に、変な唄を嫌うくせに、変な唄ばかり集めてる婆がいる――あの一言だけを頼りに、私はここまで来た。手がかりとしては十分すぎるほどだった。あの人が、なぜそんな人物のことを知っていたのか。ただの噂で片付く距離感ではない気がしたが、それを確かめる術は、今の私にはない。
窓の外では、隣家の誰かが子どもをあやす声が聞こえていた。呪いのことは、今夜は特に暴れなかった。喉の奥にわずかな熱が残っているだけで、指先も、骨の並びも、いつも通りの形を保っている。長旅の後にしては上出来だ、と自分に言い聞かせながら、私は目を閉じた。
思えば、ここしばらくは呪いのことを、以前ほど恐れなくなっている自分に気づく。変わり目に刃を置け、というファルグの教えは、剣の技であると同時に、身体そのものへの向き合い方でもあった。抗うのではなく、聞く。崩れるままに任せるのでもなく、ただ流れを見極める。それがどこまで通用するのか、まだ確かめきれてはいなかったが。
喉を失った魔法使い、という言葉が、妙に頭から離れなかった。声を失ってなお、唄を集め続ける。その執着の形が、どこか歪で、それでいて切実なもののように思えた。歌えなくなった者が、それでも歌を求め続ける理由とは、一体何なのだろう。答えの出ない問いを抱えたまま、私は寝返りを打った。
明日は、まずその塔とやらに行ってみよう。婆に会えるかどうかはわからないが、少なくとも、噂の出所くらいは確かめられるはずだ。




