第十二話 精緻さと乱れ
「あの、すみません」
翌朝、宿の外で七響琴の紐を締め直していると、声をかけられた。
朝靄の残るクレヴの町は、昨夜とはまるで違う顔をしていた。人通りはまだ少なく、パン屋の窯からだけ、白い煙が真っ直ぐに立ち上っている。荷馬車の軋む音が、通りの向こうから近づいては遠ざかっていった。
振り向くと、大きな籠を抱えた若い女が立っていた。癖のある髪を無造作に括り、袖口には煤か何かの汚れがいくつも付いている。学者というより、工房の職人に近い出で立ちだった。
「昨夜、酒場で歌ってましたよね。ちょっと聞きたいことがあって」
「聴いていただいていたんですか」
「はい。……というか、聴いてたっていうか、見てた、が近いかもしれません」
曖昧な言い回しに首を傾げると、女は少し早口になった。
「あたし、魔力の流れが見える質なんです。七響琴、あれ魔導石に力を流して鳴らす楽器でしょう。だから演奏中、勝手に流れが目に入ってくる。それで――気になって、今朝ずっと宿の前で待ってました」
「待っていた、というのは、私を、ですか」
「そうです。すみません、怪しいですよね。あたし、ドルチって言います。この先の森に住んでます」
言われてみれば、彼女の目の下には、薄っすらと隈があった。本当に夜通し待っていたのかもしれない。それだけの労力を割いてまで確かめたかったことが、私の中に一体何なのか、俄然気になり始めていた。
名乗られて、私も名乗り返す。手がかりを探すつもりで一日を潰す覚悟でいたのに、向こうから飛び込んできたことになる。宿の前で夜通し待たれていたと聞けば、多少の警戒心くらいは湧いてもよさそうなものだが、不思議とそれはなかった。目の前の女の物言いには、駆け引きの気配が微塵もなかったからかもしれない。
「森というと、変わった唄を集めている方がいらっしゃると聞きましたが」
「――師匠のこと、ですね」
ドルチは目を細めた。値踏みというより、答え合わせをするような視線だった。
「そちらもついでに聞くつもりだったんですが、先に言わせてください。昨夜の演奏中、あなたの魔力の流れ、変でしたよ」
「変、というのは」
「言葉のまま。一部はやたら精緻で、一部はめちゃくちゃ。……立ち話で済む話でもないので、少し歩きながらでもいいですか」
断る理由もなく、私は頷いた。ドルチは籠を持ち直し、森の方角へ向かって歩き出した。
* * *
町を抜け、木立の間の道に入ったところで、ドルチが足を止めた。
「魔力の流れ、見せてもらいましたけど――一部はものすごく精緻なんです。無駄がない。年季の入った職人が糸を撚るみたいに、綺麗に整ってる。なのに、その隣が、めちゃくちゃなんですよ」
「めちゃくちゃ」
「渦みたいに絡まって、行き場を探して暴れてる。よくそれで指が飛ばないなって思うくらい。……失礼、なんでそんな身体で平気な顔してるんですか」
率直な物言いだった。誤魔化してもすぐに見抜かれる気がして、私は少し迷ってから答えることにした。
「呪いを受けているんです。ダンジョンの探索中に」
「呪い」
「死ぬような類のものではありません。ただ、身体の形が、時々思い出したように変わる。魔力を多く流すと、その頻度が上がる」
ドルチは瞬きを止め、じっとこちらを見つめた。値踏みではなく、今度は純粋な興味の色が濃かった。
「それ、詳しく聞いてもいいですか」
「話す分には構いませんが、聞いて楽しい話でもありません」
「楽しいかどうかより、気になるかどうかの方が大事なので」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。ファルグとはまた違う種類の、飾らない人間らしい。
「一応、聞いておきますけど。魔力の流れが見える、というのは、生まれつきなんですか」
「そうですね。物心ついた頃には、もう見えてました。おかげで子どもの頃は、周りの大人が何を隠してるかまでうっすら分かっちゃって、あんまり可愛げのない子どもだったと思います。まあ師匠にはいまだに言われるんですが」
ドルチは苦笑いを浮かべながら、道端の枝を軽く払った。少し寂しげな笑い方だった。師匠と呼ぶその人物との関係が、単なる技術の授受だけではないことが、その表情から伝わってきた。
「お師匠様とは、長いんですか」
「物心つく前からです。両親のことは、あんまりよく覚えてなくて。師匠が、ほとんど育ての親みたいなものです」
さらりと語られたその一言に、私は少し返答に困った。踏み込んでいい話題かどうか、まだ測りかねていた。
「実は、うちの師匠――さっき言った、唄を集めてる人ですけど――が、そういう魔力の乱れに詳しいんです。というか、たぶん今、この国で一番詳しい人だと思う」
「その方に、診ていただけると」
「聞いてみないとわからないですけど、少なくとも、あたしが今すぐ知りたいです。よければこのまま塔まで来てもらえません? ちゃんと診察――って言うと大袈裟か。話を聞く機会を設けられると思います」
願ってもない申し出だった。私は頷き、七響琴の紐を握り直した。
「お願いします」
「決まり。じゃあ、荷物運ぶの手伝ってもらっていいですか。その分、早く着きます」
言われるままに籠を受け取ると、思っていたより重かった。薬草らしき束や、小さな瓶が幾つも詰まっている。買い出しの帰りだったのだろう。
「よくこの量を、一人で運んでいたんですか」
「慣れてるので。今日はちょうど、荷物持ちが見つかって幸運でした」
軽口を叩きながら、ドルチはそう言うと、先に立って歩き出した。木立の間を抜ける道は、思っていたより整えられていた。轍の跡があり、時折、切り株に古い斧の刃跡が残っている。人の出入りが、それなりにある土地らしい。
町の喧騒が遠ざかるにつれ、木々の密度が増していく。頭上を覆う枝葉が夕暮れの光を細かく砕き、道の上に不揃いな影の模様を落としていた。鳥の声が、思いのほか賑やかに響く。時折、藪の奥で何かが動く気配がしたが、ドルチはまるで気にする素振りも見せず、慣れた足取りで先へ進んでいく。この道を、何百回と往復してきたのだろう。
「この道、よく使われてるんですね」
「あたしと、あとは行商の人が時々。師匠は、もう長いこと外に出てないので」
「長いこと、というのは……お伺いしても?」
「まあ、もう、歳が歳なので」
ドルチは少し困ったように笑い、それきり口を噤んだ。詳しい事情を聞くのは、まだ早いのだろう。私はそれ以上踏み込まず、代わりに七響琴の位置を直しながら、森の匂いを吸い込んだ。湿った土と、微かな薬草の匂いが混じっている。
「その楽器、ずっと気になってたんです」
沈黙を払うように、ドルチが話題を変えた。
「七響琴、でしたっけ。弦がないのに音が出るのって、珍しいですよね」
「魔導石に力を通して鳴らす仕組みです。壊れた石を安く譲ってもらって、旅の道中で自分なりに直しました。だから、本来の鳴りとは少し違うと思います」
「直した、って、独学で?」
「見よう見まねです。上手くいったのは、半分くらい運が良かったんだと思います」
「へえ……。それも、いつか見せてもらっていいですか。魔導石の扱いは、あたしの専門でもあるので」
その口ぶりには、素直な興味が滲んでいた。研究者としての血が、旅の道具にまで反応するらしい。私は小さく笑って頷いた。
会話が途切れると、辺りの静けさが一段と際立った。道はいつしか緩やかな上りに変わり、木々の合間から、遠く霞んだ稜線が覗くようになっていた。足元の下草は踏み固められ、道というより、獣道に近い趣を帯び始めている。空気はさらに冷たさを増し、吐く息がうっすらと白く滲んだ。木漏れ日の色が次第に橙から灰へと変わっていくのを見て、日が傾き始めていることに気づく。
道の先に、ようやく塔の全貌が見え始めた。灰色の石積みは、想像していたよりずっと古い。壁面のあちこちに蔦が這い、窓の縁は苔で緑がかっている。長い年月、そこに立ち続けてきたことだけは、一目でわかった。
「――あそこですか」
「はい。見た目より、中は生活感ありますよ。びっくりしないでくださいね」
冗談めかした言い方だったが、その声には、どこか誇らしさのようなものも滲んでいた。この場所を、この人なりに大切にしているのだと、なんとなく伝わってきた。
塔に近づくにつれ、木々の隙間から差す光の角度が変わり、辺りの空気がひんやりと涼しくなっていくのを感じた。魔導石特有の、微かに甘い匂いも漂ってくる。長年、様々な実験が繰り返されてきた場所特有の気配だった。門扉の前で立ち止まり、ドルチが振り返る。
「ようこそ。大魔法使いクヴェルン擁する魔法研究所『音の塔』へ!」




