第十三話 整った形と、崩れた形
塔は、外から見た印象よりも生活の匂いが濃かった。一階の広間には作業台が並び、割れた魔導石や、紐の切れた楽器らしきものが山と積まれている。壁際の棚には、札の剥がれかけた小瓶がびっしりと並び、床には描きかけの魔法陣が幾つも重なって残されていた。人が長く暮らし、研究を続けてきた場所特有の、雑然としながらも秩序だった空気があった。天井は思っていたより高く、吹き抜けになった中央部分から、上階へと続く螺旋階段が覗いている。埃っぽい紙の匂いと、微かに甘い魔導石の匂いが、鼻の奥でいつまでも溶け合わずにいた。
ドルチは籠を戸口に置くと、奥の小部屋へ私を案内した。
「ここ、あたしの作業部屋です。師匠には後に挨拶してもらうとして、まずはこっちを先に」
石造りの床に、白墨で薄く円が引かれている。試験用の場所らしい。壁際には、使い込まれた計測器具らしきものがいくつも置かれていた。
「昨日の演奏、少しだけ流してた感じでしたよね。あれをもう一段階、上げてみてほしいんです」
「上げる、というのは」
「普段抑えてる分を、抑えないで。……危ないことを頼んでる自覚はあります。だから、ここでやってほしい。何かあっても、あたしが対処できる場所で」
率直な申し出だった。旅の道中では、決してやらない類のことだ。だが、この乱れを言語化してくれる人間に会ったのは、初めてだった。知らないまま先延ばしにするより、知ってしまった方がいい。そう判断するのに、そう長くはかからなかった。振り返れば、この身体のことを、これまで正面から誰かに相談したことは一度もなかった。それがどれほど心細いことだったか、この瞬間になって、ようやく実感した気がした。
「わかりました」
円の中心に置いた椅子に座り、酒場で歌う時のように、七響琴の紐を握る。魔導石に指を添え、いつもは半ばで止める流れを、そのまま押し通した。
喉の奥に、燠火のような熱が走る。骨が軋み、肩の稜線が緩やかに変わっていく感覚。息を継ぐたびに、声の高さが階段を下りるように変化していった。目を閉じ、ただその流れに身を委ねる。抗うより、受け入れる方が早く終わる。それは、ファルグに教わったことでもあった。
しばらくして、熱が引いた。
「――終わりました、か」
声は、自分でも驚くほど軽く高い音になっていた。手のひらを見下ろすと、指は細く、爪の形まで変わっている。着ていた服が、肩と胸のあたりで持て余され気味だった。鏡があれば、と思ったが、この部屋にそれらしきものは見当たらなかった。むしろ、それでよかったのかもしれない。今はまだ、自分の姿を正面から見る心構えができていなかった。
「うわ……」
ドルチが小さく声を漏らした。値踏みでも興味本位でもない、純粋な驚きの色だった。
「痛みは?」
「今のところは。慣れたもので」
「慣れたものって、そんな軽く言うことじゃないと思いますけど……ちょっと、もう一回見せてもらっていいですか。魔力の流れ」
私が指先に力を通すと、ドルチは息を詰めて、その流れを目で追った。彼女は棚から薄い木箱を取り出し、中から目盛りの刻まれた計測器具を取り出した。魔導石の欠片を仕込んだ、見慣れない形の道具だった。それを私の手首に軽く当てながら、傍らの紙に数字を書き付けていく。
「これは?」
「魔力の密度を測る道具です。数字にしておくと、後で見比べられるので」
几帳面な字で、日付と数値が書き込まれていく。研究者としての彼女の顔を、初めてまともに見た気がした。好奇心と、それを支える地道な作業と。どちらも、この人の中では矛盾なく同居しているらしい。
「――綺麗」
「先ほどとは違いますか」
「全然違います。乱れが、ほとんど消えてる」
ドルチは白墨の円の縁にしゃがみ込み、独り言のように呟いた。
「たぶん、ですけど。あなたの身体、どっちつかずの状態にされると、そこで綱引きが起きるんだと思います。男の形を保とうとする力と、女の形へ引っ張る力が、同じ場所でぶつかり合って、渦になる。……でも、どちらかに完全に振り切ってしまえば、綱引き自体がなくなる。だから、流れが整う」
「つまり、抑えている状態こそが、一番荒れている、と」
「そういうことになりますね。皮肉な話ですけど」
言われてみれば、思い当たる節はあった。全開でもなく、完全に抑え込むのでもない、その中間で長年身体を保ってきた。安全のためにそうしてきたつもりが、実は一番身体に負担をかける選び方だったのかもしれない。パーティーを組んでいた頃、仲間たちにこの呪いのことを話せなかったのも、結局はこの「中間」を選び続けた結果だった。誰にも気づかれないぎりぎりの線を保つことに、いつしか慣れきっていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「こういう乱れを持つ人は、他にもいるものなんですか」
ドルチは少し考える素振りを見せてから、首を振った。
「正直、初めて見ました。呪いって、原因も効果も本当に千差万別なので、似た症例があるかどうかも、今の段階ではなんとも。……でも、だからこそ面白いんです。研究者としては」
その言葉に他意はないとわかっていても、自分の身体が誰かの好奇心の対象になっている、という事実には、複雑な感情が拭いきれなかった。それでも、この人の言う「面白い」には、見世物にするような軽薄さがなかった。純粋に、解き明かしたいと願う響きだった。
* * *
その日のうちに、身体は完全な女の形へと落ち着いた。残念ながら、大魔法使い殿への挨拶はまだ叶っていなかった。「体調のいい時じゃないと、長く話すのも辛いので」とドルチが言葉を濁す様子から、寝込みがちなのだろうと察しはついた。声がかかるまでの間、私は塔の一室を借りて過ごすことになった。
身体の方は、いつもと様子が違った。中途半端に留めるのではなく、一度きっちりと振り切ってしまったせいか、男の形へほとんど戻ろうとしなかった。喉の奥の熱もすっかり収まり、指の細さも、声の高さも、ずっと女のままだった。いつもなら、二日と経たずに揺り戻しがきていたはずだ。
男女の中間で揺れているだけの時なら、ファルグに仕込まれた分の勘が、多少なりとも役に立った。踏み込みの軌道を保てなくても、間合いを読む勘だけは残っている。だが今は、その中間ですらない。すっかり振り切れた女の身体で木剣を握ってみると、剣の重み、腕の重み、重心のズレなど、これまで培ってきた技術が損なわれたとあらためて実感させられた。踏み込みの軌道はおろか、柄を握る指の長さから合っていない。無理に型を確かめてみたが、いつもの半分も踏み込めなかった。
――ならば、いっそ。
そんな軽い思いつきで、昔、パーティーを組んでいた頃に見聞きしただけの初級魔法を、試しに唱えてみた。灯りを点す、あの誰でも使える程度の魔法だ。当時の私は前衛専門で、魔法にはまるで縁がなかった。呪文を覚えていたのも、ただ耳で拾っただけの、うろ覚えの記憶でしかない。
それが、驚くほどあっさりと灯った。
「――は」
思わず声が漏れた。掌の上で、小さな光がゆらゆらと揺れている。剣より、よほど素直に応じた気がした。
「何ですか、その顔」
通りがかったドルチが覗き込んでくる。私は掌の光を見せた。
「初めて使えたんです、これ」
「初めてって、その歳で?」
「剣ばかりでしたので。魔法は、我流のうろ覚えです」
ドルチはしばらく黙って光を見つめたあと、ゆっくりと笑った。
「前に話した呪いの理屈の続きがあるとしたら――今のあなたは、身体が女の形にきっちり振り切れたままだから、魔力の通りがすごく良くなってるんだと思います。剣は、たぶんこの身体だとうまく力が入らない。でも魔法は、逆に楽になる。得意不得意が、身体ごと入れ替わってる感じ」
「便利といえば便利ですが、いつまでもこの形でいるわけには」
「ですよね。魔法が得意になった代わりに、剣士としての勘は、しばらく鈍ったままかもしれません。全部を同時に手に入れるのは、たぶん無理な話なんだと思います」
その言葉には、妙な実感がこもっていた。何かを得るためには、何かを手放さなければならない。旅を続ける中で、幾度となく突きつけられてきた道理だった。
「早く師匠と相談する場ができれば、こういう身体と魔力の込み入った話は、あたしよりずっと詳しいので」
願ってもない提案だった。それを惜しいと思う自分に、少し驚いた。
「まだ、体調の方は……」
「はい。良い日が来るまで、名前だけ考えておいてもらえます? その姿で師匠に会うなら、名乗りがあった方がいいかと」
名の相談だけを宿題のように抱えたまま、その日は暮れた。
翌朝は、灯りの魔法を繰り返す練習から始めた。何十回、何百回と唱えるうち、指先の動きよりも先に、意識の持っていき方が馴染んでいくのがわかる。昼過ぎ、水を汲みに広間へ下りると、忙しなく立ち働く年上の女とすれ違った。会釈だけを交わし、名乗り合うことはなかった。もう一人、ドルチと同じ年頃らしい娘の話し声が、奥の部屋から漏れ聞こえてくることもあったが、顔を合わせる機会はまだなかった。塔の生活は、静かで、規則正しく、それでいてどこか他人行儀だった。
夜、寝台に横になりながら、名前について考えを巡らせた。旅先で使う仮初めの名は、これまでにも幾つか思いついては使い捨ててきたが、今回ばかりは勝手が違う。この身体そのものに与える名前だと思うと、存外に難しい。楽器の名を借りるという思いつきに行き着いたのは、それから幾日か経ってからのことだった。
そんな風にして、日々が過ぎていった。塔にいるのは、どうやらこの二人だけらしかった。詮索してこないのが、かえって落ち着かない。噂は既に回っているのだろう。奥の部屋には、まだ紹介されていない師匠の気配だけが、時折扉の向こうから伝わってくるばかりだった。




