第十四話 名乗りと居場所
「今日、行けそうです」
朝の食事もそこそこに、ドルチがそう告げてきたのは、灯りの魔法にもすっかり飽きて、木剣の素振りを日課に組み込み始めた頃だった。慣れない身体で振るう木剣は、思うように風を切らない。それでも毎朝続けていたのは、剣士としての勘を、少しでも繋ぎとめておきたかったからだ。振り終えた木剣を壁に立てかけたところへ、ドルチが駆け込んできた。息が上がっている。よほど急いで伝えに来たのだろう。
「お師匠様の具合が、ですか」
「はい。こういう日は、そう長くは続かないので。では、名はなんと?」
急かされる形で、私は少し考えてから答えた。
「――リュート、ではどうでしょう」
「リュート」
「七響琴の遠い親戚のような楽器に、そんな名があった気がします。似た響きなら、うっかり素の名を呼んでしまっても言い訳が利くかと」
「実用的ですね。いいと思います」
名前が決まってしまうと、急に現実味が増した気がした。これから会う人物が、ただの噂話の中の存在ではなく、この塔に確かに息づいている一人の人間なのだと、今更のように実感する。ドルチに続いて塔の奥へ進みながら、私は柄にもなく緊張していた。
クヴェルンの部屋の手前には、小さな控室があった。ドルチは「先に様子を見てきます」と言い残し、一人で奥へ姿を消した。残された私は、備え付けの椅子に腰掛け、待つしかなかった。
壁には、古い絵図が何枚も掛けられていた。旋律を線で表したような、見慣れない記法の楽譜らしきもの。誰の手によるものかはわからないが、几帳面な筆致から、おそらくはクヴェルン自身のものだろうと見当がついた。待つ時間が長く感じられるほど、この部屋の主に対する緊張が募っていく。ファルグと対峙した時とは、また違う種類の緊張だった。あの時は敵意との対峙だったが、今回は、未知の人物への純粋な畏れに近かった。
やがて、扉の向こうからドルチの声がした。
「――どうぞ、入ってください」
その日の午後、私はリュートとして、塔の奥の一室へ通された。
部屋は静かだった。薬草の匂いが、寝台の周りに薄く漂っている。窓は薄布で覆われ、光は柔らかく遮られていた。半身を起こしたクヴェルンは、思っていたよりずっと小柄で、痩せていた。聞いていた年齢のわりに、ずいぶんと老いて見える。長年の研究が、身体の内側から確実に何かを削り取っていったのだと、一目でわかる姿だった。それでも、寝台脇に置かれた石板や書きかけの紙束からは、今なお衰えない探究心のようなものが滲んでいた。
「師匠、今日はお加減よさそうなので、少しだけ」
ドルチが声をかけると、クヴェルンはゆっくりと頷き、傍らの石板を引き寄せた。細い指が、白墨で文字を綴っていく。動作の一つひとつが、ひどく緩慢だった。それでも、字は驚くほどしっかりとしていた。
〈お客さん?〉
「はい。旅の吟じ手さんです。魔力の流れに、ちょっと面白い癖があって」
クヴェルンの目が、初めて正面から私を捉えた。値踏みではなく、興味を隠さない、まっすぐな視線だった。石板の文字が続く。
〈唄、集めてる?〉
「――噂を聞いて参りました。まだ歌になっていない話を探しています」
クヴェルンは小さく喉を鳴らした。笑ったつもりらしいと、少し遅れて気づいた。
〈山の男。知ってる?〉
その一言に、背筋が伸びた。
「はい。この夏、あの山で会いました。あなたのことを、教えてくれました」
クヴェルンはしばらく石板を見つめたまま、動かなかった。何かを懐かしむような、あるいは苦いものを噛みしめるような、そんな間だった。やがて、また白墨が動く。
〈元気そう?〉
「はい。少なくとも、私が去る時までは」
石板の端に、小さく丸が一つ描かれた。それだけで、返事は十分らしかった。
* * *
ドルチが、これまでの経緯――魔力の乱れ、呪い、女の形に振り切った状態での変化――を手短に説明する間、クヴェルンは目を閉じて聞いていた。時折、確かめるように石板へ問いを綴る。ドルチがそれに答え、私が補う。会話というより、三人で一枚の絵を組み上げていくような時間だった。
〈他に、変わったことは〉
「灯りの魔法が、急に使えるようになりました。以前は、まったく縁がなかったのに」
クヴェルンの目が、わずかに見開かれた。石板に、素早く文字が綴られる。
〈剣は?〉
「振れなくはないですが、感覚がまるで違います。今の身体だと、力の入り方が、以前とは別物のようで」
〈得意、入れ替わった〉
その一言は、ドルチが語ったものと、ほとんど同じだった。師弟が同じ結論に、それぞれ独立して辿り着いたということに、少なからず驚かされた。
やがて、クヴェルンの筆が、私に向けて動いた。
〈しばらく、いる?〉
「――お邪魔でなければ」
〈ドルチに、みてもらいなさい〉
そう綴った後、クヴェルンはドルチの方を見て、もう一言書き足した。
〈あなたの、はじめての弟子〉
ドルチが息を呑む気配がした。私はその意味をすぐには測りかねたが、ドルチの表情を見れば、これがただの言葉ではないことくらいはわかった。
「師匠……」
〈わたしより、あなたの方が向いてる。しばらく前から、そう思ってた〉
クヴェルンはそこで一度、大きく息をついた。長く話すこと自体が、身体に負担をかけているのだろう。ドルチが気遣うように石板を下げようとするのを、クヴェルンは小さく手で制した。もう一行だけ、書き足す。
〈仮でいい。まずは、やってみなさい〉
こうして、私はドルチの――正確には、まだ名ばかりの――初めての弟子として、しばらくこの塔に留まることになった。
* * *
夕食の席で、ドルチは私を紹介した。長机を囲むのは、思ったよりずっと少人数だった。ドルチより少し下の年頃の娘が一人、忙しなく立ち働いていた年上の女性が一人。この塔にいるのは、本当にそれだけらしい。厨房から漂う煮込みの匂いが、控室の緊張をほぐしていくようだった。長机には所々傷や焦げ跡があり、実験の合間にここで食事を済ませてきた年月が、そのまま刻まれているように見えた。
「こちら、リュートさん。しばらくうちで預かることになりました」
「よろしくお願いします」
努めて平静に頭を下げると、一番年若い娘が興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「わたし、トルセです。クヴェルン様の弟子で、ドルチ姉様とは姉妹弟子になります」
「よろしく、トルセさん」
「リュートさんって、旅の吟じ手なんですよね。どこから来たんですか」
もう一人の女――サスフと名乗った――は、軽く会釈をしただけで、あとは黙々と碗を並べていた。クヴェルンの世話をしているのはこの人だと、ドルチが後で教えてくれた。すぐそこの町に夫と子どもがいるが、ここ最近は師匠の具合が思わしくなく、塔に泊まり込んでいるのだという。
「トルセ、質問攻めにしすぎ」
「だって、旅の人と話すの久しぶりなんだもん」
次々と飛んでくる質問に、当たり障りのない範囲で答えながら、私はできるだけ視線を皿の上に落としておくよう努めた。今の身体で、女ばかりの食卓に紛れて座っている状況そのものが、どうにも据わりが悪い。誰かに疑われているわけでもないのに、居心地の悪さだけが募っていく。
「トルセさんは、ここに長いんですか」
「三年くらいです。前は別の町で、簡単な魔法の手ほどきを受けてただけなんですけど、師匠に見出されて、ここに」
「見出された、というのは」
「よくわかんないんですけど、村祭りで小さい魔法披露してたら、いつのまにか声をかけられてて。師匠、めったに外に出ないのに、あの時はどうしてたんだろう、って今でも謎です」
サスフが、その話に小さく苦笑いを浮かべた。何か知っていそうな顔だったが、口を挟むことはなかった。食卓には、根菜の煮込みと、硬めのパンが並んでいた。質素だが、丁寧に作られているのが味からも伝わってくる。
「――リュートさん、なんか静かですね」
「人見知りなもので」
昨夜まで酒場で大勢を相手に歌っていた口で、よくもそんな嘘がつけたものだと、自分でも思う。だが、今はそういうことにしておく方が都合がよかった。
食事の間、トルセの明るい話し声が途切れることはなかった。ドルチが時折茶々を入れ、サスフは黙々と碗を運び続ける。それぞれの役割が、既にこの塔の中でしっかりと根付いているのがわかった。私だけが、その輪の外側から、そっと様子を窺っている部外者だった。
食事を終えて自分にあてがわれた部屋に戻ってから、ようやく肩の力が抜けた。窓の外はもう暗い。今日一日で、これまで噂だけだった存在が、次々と輪郭を持った人間に変わっていった。クヴェルンの筆致、ドルチの生真面目さ、トルセの人懐こさ、サスフの寡黙さ。それぞれが、この塔という一つの場所で、静かに絡み合いながら暮らしている。
* * *
塔の暮らしにも、少しずつ勝手がわかってきた頃、ドルチに誘われて、久しぶりに町へ下りた。買い出しのついでに、少し寄り道をしないか、という誘いだった。
「リュートさんとしての衣料や小物なども、整えたりしないと」
「あー……言われてみれば、そうですね」
クレヴの通りを、女の姿のまま歩くのは、妙な感覚だった。以前この町に来た時と同じ装い、そして同じ道のはずなのに、見える景色がまるで違って感じられる。露店の主人が向ける視線も、心なしか柔らかい。荷物を持つ手を差し伸べられたり、ちょっとした世間話を振られたりすることが、以前より多い気がした。
「どうです、視線を低くして歩く町の景色は」
「新鮮です。悪くない、と言えば嘘になりますが」
ドルチは、その返しにくすくすと笑った。買い物を済ませたあと、少し足を延ばして、以前訪れた酒場の前を通りかかった。
「あ、ここ」
「以前、歌わせてもらった酒場ですね。やや早い時間ですが開いてますね」
「じゃあ、今日も試しに一曲、どうです? あたし、まだリュートさんの歌、ちゃんと聴いたことないので」
からかい半分の誘いだったが、断る理由もなかった。中に入ると、あの晩とは違う客が席を埋めていたが、旅の吟じ手を歓迎する空気だけは変わらなかった。七響琴の紐を締め直し、魔導石に指を添える。今の身体で声を出すのは、これが初めてだった。
音が、思っていたよりずっと軽く、高く跳ねた。喉の使い方も、息の吐き方も、以前とは微妙に違う。だが、それが不思議と心地よかった。旋律に乗せる声が、いつもよりわずかに柔らかく響く。歌い終えると、ドルチが目を丸くしていた。
「――綺麗な声ですね。前と全然違う」
「今の身体なりの声、というだけです」
「それも含めて、リュートさんなんだと思います」
その一言に、なぜか少し照れくさい気持ちになった。塔へ戻る道すがら、夕暮れの空を眺めながら、この身体で歌うことにも、思っていたより早く馴染んでいる自分に気づいた。
* * *
これからは、この身体で、この場所で、魔法というものを一から学ぶことになる。剣を握れない今、それ以外に選びようがなかった。
――いい歌になるかどうかは、まだわからない。だが、少なくとも、退屈はしなさそうだった。




