第十五話 揺り戻しと、留める技術
しばしの日にちが過ぎ、灯りの魔法はもう見なくても点せるようになっていた。それだけでなく、風を軽く撫でる程度の術も、水を掌に集める程度の術も、一通り形になり始めていた。塔の窓から見える木々は、来た頃よりも幾分色を深めている。朝の空気は日に日に冷たさを増し、吐く息が白く尾を引くようになった。日々の稽古は同じことの繰り返しに見えて、振り返れば確かな厚みを積み上げていた。ドルチの教え方は理詰めで、私のような我流の人間にもよく馴染んだ。文言とメロディー、どちらが欠けても魔法は成立しない、というのが彼女の口癖だった。
「文言だけだと、ただの音の羅列になります。メロディーだけだと、ただの歌になる。両方が噛み合って、初めて世界がこっちの意図を汲んでくれるんです」
「歌が、そのまま力になる、ということですか」
「乱暴に言えばそうです。だから、吟じ手のあなたは、他の人よりずっと呑み込みが早いんだと思います。旋律を捉える耳が、もう出来上がってるので。簡単な魔法なら、心情もイメージもそこまで要りません。しかし、大魔法と呼ばれるくらい効果の大きいものになると、技術と知識と、場数がものを言うようになる」
「今の私は、まだ場数が足りない側ですね」
「圧倒的に。でも、伸びは早い方だと思いますよ」
褒められているのかどうか判然としない口調で、ドルチはそう言った。稽古の後、二人で塔の外周を歩くのが、いつしか日課になっていた。教える側と教わる側、という関係を超えて、他愛のない話をする時間も増えていた。塔を囲む木々の隙間から、遠くクレヴの町の灯りがぽつぽつと見えることもあった。あの町で聞いた噂話が、今こうして自分の日常の一部になっていることが、時折不思議に思えた。
ある日の稽古で、私は初めて、複数の術を続けて発動することに挑戦した。灯りを点し、消えないうちに風を起こす。単体では容易い術も、繋げるとなると勝手が違った。
「息継ぎと同じです。歌でも、フレーズの切れ目で無理に力むと、次が続かなくなるでしょう」
「――なるほど」
言われてみれば、腑に落ちる例えだった。魔法の呼吸を、歌の呼吸に重ねて考えると、驚くほど飲み込みが早くなる。ドルチのこういう教え方の巧さに、幾度となく助けられていた。
一方で、身体の方には、少しずつ変化が出始めていた。あれほど頑なだった女の形が、ようやく緩み始めている。声が半音ほど低くなる日があり、指の長さが、ほんの少し戻っているように感じる日もあった。喜ばしいはずのその兆しが、今は素直に喜べなかった。戻りかけるたびに、掌に灯る光が心なしか弱々しくなる。魔力の通りが、また鈍り始めているのだ。
「――やっぱり、戻ると駄目になりますね」
試しに唱えた水の術が、いつもの半分ほどの勢いしか出なかった夜、私はそう呟いた。ドルチが横から覗き込む。
「そうですね。今のあなた、ちょうど中間に差しかかってるので」
「戻るのを、止める方法はありますか」
「止めるっていうか……単純に、また魔力を通せば、女の形に戻ります。それだけです」
答えは、拍子抜けするほど単純だった。だが、その単純さの中に、選択の重みがあった。今ここで男の形に戻ることを選べば、身につけかけた技術の練度は落ちる。かといって、女の形を維持し続けるということは、今しばらくこの姿のまま過ごすということでもある。
迷ったのは、そう長くなかった。
「――しばらくは、このままでいます」
「いいんですか」
「剣は、いずれ戻った時に取り戻せばいい。魔法は、今この身体でしか掴めない気がするので」
言いながら、自分でも少し驚いていた。以前の私なら、迷わず元の形へ戻ることを選んでいたはずだ。剣士としての自分こそが本来の姿だ、と信じて疑わなかった頃の名残が、まだどこかに残っていた。だが今は、その優先順位が、確かに揺らいでいる。
ドルチは少し驚いた顔をしたあと、小さく頷いた。
「わかりました。じゃあ、明日からもう少し詰めた稽古にしましょう」
その日から、私は意識して魔力を身体に通し続けるようになった。完全に振り切れたままの状態を保つのは、思っていたより神経を使う作業だった。塔に来た当初に診察で振り切らせた後はなかなか揺り戻しが起きずに不安がよぎったりしたものだが、いまでは気を抜くと、するりと男の形へ引き戻されそうになる。まるで、綱を張り続けているような感覚だった。夜、眠りに落ちる寸前が、一番危うい瞬間だった。意識の手綱が緩む一瞬に、身体は元の形へ戻ろうとする気配を感じる。目が覚めるたびに、まず自分の指先を確かめる癖がついた。
* * *
ある日の稽古で、私はその「綱」を、少しだけ緩めてみることにした。
最初の試みは、ものの見事に失敗した。半分ほど戻したつもりが、勢い余って一気に男の形へ引き戻され、唱えかけていた水の術が暴れるように弾けた。掌の先で小さく爆ぜた水飛沫が、頬に冷たく飛び散る。
「――っ」
「大丈夫ですか!」
「平気です。……ただ、思っていたより難しいですね、これ」
力の抜き方も、止め方も、感覚だけが頼りだった。何度か繰り返すうち、今度は逆に力を込めすぎて、指先に小さな火傷のような痕を残すこともあった。ドルチはそのたびに手を止めさせ、水で冷やすよう指示した。
「無理はしないでくださいね。まだ、探り始めたばかりなんですから」
「わかってます。……ただ、これは、掴めば大きい気がするので」
根拠のない確信だったが、口にしてみると、自分の中で揺るがないものになっていく気がした。
次の日は、狙いすぎて逆に固まってしまった。動きを止めることに気を取られるあまり、身体全体が強張り、術どころか呼吸すらままならなくなる。ドルチに背中をさすられながら、ようやく息を整えた。
「力ませすぎです。止める、というより、漂わせる感じで」
「漂わせる、ですか」
「綱引きの喩え、覚えてます? あれ、両方の力が拮抗してる状態こそが、実は一番安定するはずなんです。片方を無理やり抑え込むんじゃなくて」
その助言を受けて試した三度目は、確かに「止まった」感触があった。だが、保てたのはほんの数秒だった。呼吸を一つ挟んだだけで、あっさり男の形へ滑り落ちてしまう。四度目は、逆に女の形へ戻りすぎた。五度目は、術を唱える前に体勢が崩れてしまい、そもそも試行にすらならなかった。
日が変わるごとに、少しずつ違う種類の失敗を重ねた。ある日は指先だけが中間で止まり、他の部分が置き去りになった。ある日は声だけが澄んで、身体の方が追いつかなかった。パズルの欠片を一つずつ嵌めていくような作業だった。焦れったさに苛立ちを覚えることもあったが、ドルチは根気強く、そのたびに違う角度から助言をくれた。
「今のは、惜しかったです。喉の方はもう、ほとんど掴めてる感じがします」
「身体の方が、まだついてきません」
「焦らなくていいです。これ、たぶん一朝一夕で身につく類の技術じゃないので」
何度目かの失敗の後、ようやく感覚の輪郭が掴めてきた。
完全に女の形を保つのではなく、ほんの一歩だけ、男の形の方へ、自分の意思で引っ張ってみる。声が半音低くなる、その手前で、逆に魔力を通すように、止める。指先が、ほんのわずかに太くなる、その手前で留める。危ういところで踏みとどまり、その状態のまま、水の術を唱えてみた。
術は、乱れなかった。
「――お」
ドルチが目を丸くした。
「今、中間じゃないですか。なのに、流れが崩れてない」
「はい。……留めて、みました」
「留めて。 いまの状態を言葉で表せますか?」
「流すだけでなく、流されるだけでもなく。抗おうとする気持ちと、委ねようとする気持ちと。ちょうど、その真ん中の、一番危うい、一番ぐちゃぐちゃしたところで、心と身体を留めてる感じです」
うまく言葉にできているか自信はなかったが、ドルチは真剣な顔で聞き入っていた。しばらくの沈黙のあと、彼女はぽつりと呟いた。
「まさに半音、ですね」
「半音」
「音楽で言う、一番不安定な音のことです。全音でも、休符でもない。そこにあるのに、そこに留まっていられないはずの音。それを、あなたは、あなたの意思で留めてる」
ドルチの目に、これまでとは違う光が宿っていた。研究者の顔だ、と思った。
「これ、もう少し詰めましょう。ちゃんとしたあなたの技術になる気がします。名前、考えておきますね」
私はまだ半分も実感が湧かないまま、掌に残る水の余韻を見つめていた。危ういところで踏みとどまる感覚は、剣の修行で覚えたものと、どこか似ていた。変わり目に刃を置く。あの教えと、この技術は、根のところで繋がっている気がした。あの山での日々が、まさかこんな形で今に繋がるとは、当時の私には想像もつかなかった。
「これから毎日、この状態を保つ練習をしましょう。最初は短い時間からでいいので」
「わかりました」
その日から、稽古の内容は一段と細かくなった。完全に振り切った状態から、ほんの少しだけ手前に戻す。その位置を保ったまま、簡単な術を唱える。位置がずれれば、術は乱れる。何度も何度も、その境目を探る作業の繰り返しだった。指先の感覚が研ぎ澄まされていくのが、自分でもわかった。
* * *
それからしばらく、同じような稽古を重ねる日々が続いた。中間で留める感覚は、日を追うごとに馴染んでいった。塔の外では、木々の色が少しずつ深まっていくのがわかる。窓辺に座って術の型をさらう時間が、いつのまにか一日の中で一番落ち着く時間になっていた。
トルセも、時折稽古の様子を覗きに来るようになった。
「リュートさん、最近すごい顔で唸ってますよね。何か掴みかけてます?」
「掴みかけてる、ような、まだ手探りのような」
「かっこいいです、そういうの」
無邪気な賛辞に、少し面映ゆい思いをしながらも、悪い気はしなかった。この塔での生活が、いつしか自分の暮らしの一部として馴染んでいることに、ふと気づかされる瞬間だった。
その静けさが破られたのは、朝の支度をしていた時だった。
部屋の扉を叩く音が、いつもより性急だった。開けると、サスフが立っていた。いつも黙々と働いている彼女の顔が、今はひどく強張っている。
「――リュートさん。ドルチを、呼んできてもらえますか」
「どうしましたか」
サスフは、それには答えなかった。ただ、視線がわずかに奥の部屋――クヴェルンの部屋の方へ向いていた。その一瞬で、聞かずとも察してしまった。
私は、返事を待たずに駆け出した。




