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第十六話 弔いの後で

 クヴェルンは、眠るように逝っていた。


 その日の朝は、いつもと変わらず始まった。私は井戸端で水を汲み、トルセが台所で朝食の支度を手伝う物音が聞こえていた。何の前触れもない、ありふれた朝の光景だった。だからこそ、サスフの悲鳴に近い呼び声が響いた時、すぐには事態が呑み込めなかった。


 サスフが今朝、いつものように様子を見に行って、そのまま呼吸をしていないことに気づいたのだという。苦しんだ形跡はなかった。ただ、静かに止まっていた。長く病を得ていた人の死としては、あまりに穏やかすぎるようにも思えたが、それがかえって、この人らしい終わり方なのかもしれなかった。寝台に横たわるその姿は、初めて対面した日と、ほとんど変わらないように見えた。ただ、あの筆談の際に感じた、微かな熱のようなものだけが、もう伝わってこなかった。


 ドルチは、しばらく部屋の入り口から動けずにいた。私が声をかけても、返事はなく、ただ師の顔をじっと見つめていた。サスフが、その背にそっと手を置いた。二人とも、涙は流していなかった。覚悟をしていたのだと、その様子だけでわかった。トルセだけが、少しだけ冷たくなったクヴェルンの手を握り、言葉にならない声を漏らした。


* * *


 弔いは翌々日と決まった。神官の都合と、土地の慣習によるものだという。それまでの一晩、私たちは寝台のそばで夜を明かすことにした。誰が言い出したわけでもなく、自然とそうなった。


 燭台の灯りが、部屋の隅々まで届かないまま揺れていた。トルセは寝台の脇に膝をついたまま、いつしか肩を寄せ合うようにサスフの隣で眠りに落ちていた。ドルチだけは、最後まで目を開けたまま、師の顔を見つめ続けていた。


「――何か、話しますか」


 沈黙に耐えかねて、私はそう声をかけた。ドルチは少し考えてから、ぽつりぽつりと語り始めた。子どもの頃、初めて魔法陣を描いた日のこと。叱られてばかりだった稽古の日々。それでも、いつも根気強く付き合ってくれたこと。取り留めのない思い出話が、静かな部屋に小さく響いては消えていった。


 私は相槌を打つだけで、ほとんど口を挟まなかった。今夜は、聞き役に徹するべき夜だと思った。夜が更けるにつれ、ドルチの声も次第に掠れていったが、それでも彼女は語ることをやめなかった。まるで、言葉にすることで、何かを繋ぎとめようとしているかのようだった。


* * *


 弔いは、ごく身内だけで行われた。町から神官が一人呼ばれ、簡単な祈りの言葉が読まれる。参列したのは、ドルチ、トルセ、サスフとその家族、そして私だけだった。塔の裏手、木々の間に開けた小さな空き地に、クヴェルンは埋葬された。土を被せる作業は、神官の手を借りず、私たち四人で行った。誰からともなくそう決まった。他人任せにはしたくない、という空気が、言葉にせずとも共有されていた。


 土は思っていたより重く、冷たかった。鋤を入れるたび、掌に伝わる感触が、この土地に確かに人が眠っているのだという事実を、否応なく突きつけてくる。誰も泣かなかった。ただ、黙々と手を動かし続けた。その沈黙の重さが、下手な言葉よりもずっと雄弁だった。


 祈りが終わったあと、誰も、しばらく動こうとしなかった。風が木々の葉を揺らす音だけが、やけに大きく響いていた。空はよく晴れていて、その晴れやかさが、かえって場違いに感じられた。


 サスフは、墓標の前で長く立ち尽くしていた。何を思っているのか、その背中からは読み取れなかった。ただ、両手をきつく握りしめていることだけは見て取れた。私は、あえて声をかけなかった。かけるべき言葉を、まだ持っていなかった。長年、この人のそばで働き続けてきたサスフにとって、この喪失の重さは、私などが安易に想像できるものではない気がした。


 やがて、日が傾き始めた頃、四人はそれぞれの足取りで塔へ戻っていった。誰も、多くを語らなかった。トルセは俯いたまま歩き、サスフは少し遅れて、一人で夕暮れの道を辿っていった。その背中を見送りながら、私はこの数か月の間に、この四人がそれぞれどんな形でクヴェルンと関わってきたのかを、改めて思い返していた。師として、弟子として、あるいは世話役として。関わり方は違えど、誰もが確かに、あの寝台の主を必要としていた。


* * *


 しばらく、塔の空気は目に見えて重たくなっていた。ドルチは普段通りに稽古をつけてくれたが、口数は明らかに減っていた。トルセも、無邪気な質問を投げてこなくなった。サスフは塔と自宅を行き来するように変わり、その足取りは以前より心なしか遅かった。夕食の席も、以前より静かだった。誰かが口を開くたびに、その声が妙に大きく響く。空いた椅子が一つ、いつまでも片付けられないまま、食卓の端に残されていた。


 ある夜、私は水を汲みに降りた廊下で、灯りの点いたままの一室を見つけた。クヴェルンの部屋だった。扉が薄く開いている。覗くと、主を失った寝台奥の床から、明かりが漏れてきているのがわかった。床からは石階段が設けられていて、降りた先にはドルチが一人、大きな机の前に座り込み、積み上げられた書物や紙束を眺めていた。


「――遺品整理、ですか」


「はい。誰かがやらないといけないので」


 声には力がなかった。積み上げられた紙の量は、想像していたよりずっと多かった。棚一つ分では到底収まらず、床にまで書物が積み上がっている。この一室だけで、何十年分もの記録が眠っているのだと、一目でわかった。私は迷ってから、部屋に足を踏み入れた。


「手伝います。できることに限りはあるかもしれませんが」


「いいんですか」


「今の私は、一応、あなたの弟子なので」


 その響きに、自分でも少し驚いた。この数か月で、いつのまにか自分をそう認識するようになっていたらしい。旅の吟じ手として振る舞ってきた自分と、弟子としての自分。二つの立場が、無理なく同居し始めていることに気づかされた。


 その言い方が可笑しかったのか、ドルチはようやく小さく笑った。久しぶりに見る表情だった。


「じゃあ、お言葉に甘えて。でも、無理しないでくださいね。量が量なので、長い目で見て」


 積まれた紙束は、どれも古びていた。詠唱の覚え書き、旋律の走り書き、旅人から聞き取ったらしい唄の断片。長年かけて集められたものが、ここに全部詰まっているのだと思うと、簡単には手が動かせなかった。一枚めくるごとに、この人がどれほどの歳月を、この作業に費やしてきたのかが伝わってくる。


 紙束の中に、見覚えのある字を見つけて、手が止まった。あの筆談で使っていた石板の文字と、同じ癖のある書き方。日付を見ると、私が塔に来てからしばらく後の頃合いだった。〈半音、面白い〉とだけ、短く書かれている。ドルチが席を外していた合間、一度だけ、私一人でクヴェルンの部屋を訪ねたことがあった。稽古の進み具合を伝えに行っただけのつもりが、思いのほか長く筆談が続いた日のことだ。あの日、クヴェルンは私の話を聞きながら、何度も小さく頷いていた。今にして思えば、あれはただの世間話ではなく、彼女なりの観察だったのかもしれない。


「お師匠様は、本当にたくさん集めてたんですね」


「唄を、嫌ってたはずなんですけどね」


 ドルチは、手にした紙の一枚を、そっと膝の上に置いた。


「子どもの頃、師匠に唄を歌ってあげたことがあるんです。ただの子守唄でしたけど。そしたら、ひどく嫌な顔をされて。……なのに、その後もずっと、こうやって集め続けてた。矛盾してますよね」


「矛盾、というより」


 私は少し考えてから、続けた。


「嫌いだから遠ざける、とは限らないんだと思います。むしろ、簡単には手放せないくらい、大事なものだったのかもしれません」


 ドルチは、しばらく黙って私の顔を見つめていた。それから、小さく頷いた。


「――そうかもしれません」


 彼女は膝の上の紙を、もう一度そっと撫でた。指先の動きが、まるで壊れ物に触れるように慎重だった。


「師匠のこと、あたし、まだ全然わかってなかったんだなって、最近よく思います。一番近くにいたはずなのに」


「近くにいたからこそ、見えないものもあると思います」


「そう、なんですかね」


 ドルチは、力なく笑った。それ以上、深くは踏み込まなかった。今夜のところは、それで十分な気がした。


「今日はもう、休みましょう」


 私は頷き、地下室を出た。廊下の窓から見える空には、いつのまにか月が高く昇っていた。まだ何も見つけていないのに、この部屋の奥に、何か大きなものが眠っている気配だけは、確かに感じていた。


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