第十七話 多重奏の記録
遺品整理は、思っていたよりずっと時間のかかる作業になった。地下室から資料を運び出し、紙の一枚一枚に目を通し、要るものと要らないものを分け、判読できない古い記録は棚に戻して後回しにする。稽古の合間を縫っての作業だったから、なおのこと進みは遅かった。窓の外の木々はすっかり葉を落とし、朝の水汲みでは、桶の縁に薄氷が張るようになっていた。
トルセは、この作業にはあまり顔を出さなかった。師の遺品を漁ることに、まだ気持ちの整理がついていないのだろう。代わりに、稽古の量が以前より増えていた。何かにすがるように術の型を繰り返す姿を、私は何度か見かけていた。サスフは、変わらず塔と自宅を行き来していたが、遺品整理には決して手を貸そうとしなかった。何か、踏み込みたくない事情があるのだろうと、私はそれ以上尋ねなかった。
一度だけ、廊下ですれ違いざまに、サスフの視線がクヴェルンの部屋の方へ流れるのを見たことがある。ほんの一瞬のことだったが、その目には、単なる哀惜とは違う、もっと複雑な色が滲んでいるように見えた。長年、この場所で働き続けてきた人が、なぜ遺品にだけは触れようとしないのか。理由を知りたい気持ちはあったが、それを尋ねる資格が自分にあるとは思えなかった。まだこの塔に来て日の浅い、余所者の身だった。
その日、ドルチは奥の書棚を漁っていた。私は積み上げられた紙束を、種類ごとに束ね直す作業をしていた。単調な作業は、いつしか無心になれる時間になっていた。窓の外では、時折鳥の声が聞こえるだけで、他には物音一つしない。師を失った塔は、以前よりずっと静かになっていた。
「――あった」
ドルチの声に、手を止めた。彼女は、古びた革表紙の冊子を手にしていた。表には、何も書かれていない。ただ、開いた中身には、見慣れた師匠の几帳面な字が並んでいた。
「何の記録ですか」
「詠唱の実験記録、みたいです。日付を見ると、かなり昔の」
ドルチはページをめくりながら、次第に表情を強張らせていった。私は黙って、その様子を見守った。
「――『多重奏』」
「多重奏、というと」
「合唱のように、複数人で詠唱を重ねる方式のようです。師匠、こんな研究、あたしには一言も」
ドルチの指が、ページの一角で止まった。しばらく動かない。私が覗き込むと、そこには、見覚えのある名が記されていた。
サスフ。
「これ……サスフさんの、名前」
「はい」
ドルチの声が、わずかに震えていた。
「実験相手、サスフさんだったんです。師匠と、サスフさんの、二人で。……サスフさんが弟子をやめた理由、あたし、詳しくは聞いたことがなくて」
記録には、淡々とした筆致で、実験の経過が綴られていた。理論の構築、詠唱の組み立て、そして――発動の失敗。魔力の重ね合わせが噛み合わず、片方に強く反動が返ったこと。そこで記録は途切れていた。それきり、二度と手が付けられなかったことも。
「発動、してないんですね。これ」
「してません。……なのに」
ドルチは、冊子を胸に抱えるようにして、しばらく動かなかった。私も、かける言葉を持たなかった。成功もしなかったのに、代償だけを払わされた人がいる。その事実の重みは、今この場で軽々しく言葉にできるものではなかった。
「サスフさんには、聞かないんですか」
「今は、まだ……。どんな顔をして聞けばいいのか、わからなくて」
ドルチの声は、いつになく弱々しかった。長年一緒に暮らしてきた相手の、知らなかった過去。それを突きつけられた戸惑いは、想像に難くなかった。私は、それ以上何も言わず、ただ隣に座っていた。
ふと、あの筆談の日のことを思い出した。〈半音、面白い〉とだけ書かれた一言の裏に、もしかすると、この記録のことがあったのかもしれない。声を失うほどの代償を払ってなお、クヴェルンは唄を、そして魔法を諦めなかった。その執着の理由が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
* * *
それから、ドルチは人が変わったように、この記録の解読に没頭するようになった。稽古の合間、食事の合間、気づけば古い紙束を睨みつけている。私が声をかけても、生返事しか返ってこない日が続いた。
「――これ、和音が足りなかったんです」
ある晩、ようやくドルチがそう切り出した。
「和音」
「日頃から、魔法は文言とメロディーで世界に働きかけるもの、大魔法と呼ばれるくらいのものであれば、心情やイメージなども大事になる、という話はしてきました。それくらい影響の大きいものになると、旋律として和音――三つ以上の音が要求される水準になる。師匠が組んだ合唱詠唱の理論、たぶんそのレベルのものでした」
「二人では、足りなかった、と」
「はい。二人だと、どうやっても音が二つにしかならない。和音として成立しないまま、無理に発動を試みたから、噛み合わずに弾かれた」
ドルチは、手元の紙に新しい図を書き足しながら、続けた。
「でも、効果の範囲をもっと絞れば、話は変わってくるんじゃないかと思うんです。大きな影響を及ぼす魔法として設計するから、和音が要求される。もっと狭く、二人だけの間で完結するように組み直せば――二重奏として、そのまま鳴らせるかもしれない」
「師匠たちが目指していたものとは、違う形になる、ということですか」
「はい。もっと小さく、もっと確実に。師匠の理論の全部を再現するわけじゃないですけど……せめて、あの記録に区切りをつけてあげたくて」
その言葉に込められた意味を、私はうまく汲み取れなかった。だが、区切りをつける、という響きだけは、はっきりと伝わってきた。
窓の外は、すっかり冬めいていた。ドルチの根を詰めた作業は、幾晩も続いた。書き損じた紙が、部屋の隅に積み上がっていく。私は稽古の合間、その作業を横から手伝った。詠唱の型を、実際に声に出して確かめる役目は、自然と私に回ってきた。
「ドルチ姉様、最近ずっとこもりっぱなしですね」
夕食の席で、トルセが心配そうに呟いた。ドルチは、その日も食事もそこそこに部屋へ戻っていった。私は曖昧に頷くことしかできなかった。彼女が何を抱えているのか、詳しくは話していない。話すべきかどうかも、まだ判断がつかなかった。
声に出すたびに、ドルチは細かく修正を加えていった。ここの音が高すぎる、ここの間が短すぎる、と。まるで、壊れた楽器を一音ずつ調律し直すような作業だった。夜が更けても、彼女の手が止まることはほとんどなかった。時折、疲れ果てて机に突っ伏す姿も見かけたが、翌朝には、また新しい紙を広げていた。
「少しは休んでください。倒れたら元も子もないので」
「わかってます。……わかってるんですけど、止まると、色々考えちゃうので」
その一言で、彼女がこの作業に没頭している本当の理由が、垣間見えた気がした。手を動かしている間だけは、喪失の重さから目を逸らしていられる。私はそれ以上、無理に休めとは言わなかった。代わりに、できるだけ隣にいるようにした。
やがて、紙の上の理論が、形になり始めた。何度も書き直された図の余白には、小さく「駄目」と書き殴られた跡が幾つも残っていた。それでもドルチは諦めず、次の日にはまた新しい角度から式を組み直していた。私はその隣で、彼女が声に出せと言う節を、何度も何度も繰り返し唱えた。喉が嗄れるほど同じ旋律をなぞる作業は、単調でありながら、確かな手応えも伴っていた。少しずつ、紙の上の記号が、実際に声として鳴るものへと近づいていくのがわかる。
「――できたかもしれません」
ある朝、寝不足の目をこすりながら、ドルチがそう言った。
「本当に、ですか」
「机上では。実際に鳴らしてみないと、確かなことは言えませんけど」
ドルチは、書き上げた紙束を私の前に置いた。
「数日ほど、喉や体調を整えたのちに。一緒にやってもらえますか」
「トルセさんではなく、私に、ですか」
少し意地の悪い聞き方だったかもしれない。ドルチは、それでも真面目な顔で答えた。
「ここまで手伝わせながら本番は外すとかどんな悪辣な魔女ですか。それにトルセはまだ、魔法の腕がこれからです。込み入った詠唱を任せるには早い。あと――」
ドルチは、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「あなたとなら、できるって思ったんです。理由なんて、それくらいしかないんですけど」
その言い方に、深い意味はないはずだった。少なくとも、この時の私は、そう受け取っていた。
それでも、即答できずにいた。脳裏をよぎったのは、あの記録に綴られていた顛末だった。発動すら失敗し、それでも一人の未来を奪った実験。今度は違う、とドルチは言うが、確証があるわけではない。
「――怖くは、ないんですか」
「怖いですよ、正直」
ドルチは、紙束を胸に抱えたまま、まっすぐにこちらを見た。
「でも、このままお蔵入りにするのも違う気がして。師匠が命がけで組んだ理論を、失敗の記録のまま終わらせたくないんです。……あなたに無理を強いるつもりはありません。断ってくれても構わない」
「断る、とは言っていません」
私は少し笑って答えた。
「ただ、確かめておきたかっただけです。あなたが、ちゃんと怖がった上で、それでもやろうとしているのかどうか」
「――変なところ、気にするんですね」
「怖がらない人と組む方が、よほど怖いので」
ドルチは、意外そうに目を瞬かせたあと、ふっと表情を緩めた。
「成功、させましょうね」
「ありがとうございます」
ドルチは、ようやく肩の力を抜いたように笑った。窓の外では、初雪らしい白いものが、ちらほらと舞い始めていた。




