第十八話 鳴った和音
その日の朝、私たちは早くから起き出し、最後の詠唱の確認をした。食卓には手をつけず、代わりに紙束を広げ、互いの分の節を何度も声に出して合わせた。トルセとサスフには、まだ何も伝えていなかった。実験のことを知るのは、私とドルチの二人だけだった。
向かい合い、頷き合う。窓の外は、朝からずっと重たい灰色の空だった。支度を終える頃には、互いに口数が減っていた。緊張が、言葉よりも先に体に表れているようだった。
試すのは、塔の裏手、クヴェルンが眠る空き地からさらに奥へ入った、開けた場所にした。万が一のことを考えて、人目にも建物にも遠いところがいい、というドルチの判断だった。空はどんよりと曇り、今にも雪が降り出しそうな重たい色をしていた。歩きながら、私は懐に忍ばせた剣の柄を、無意識に何度も握り直していた。
「いつも通り、合図はあたしが出します。詠唱に入ったら、途中で止めずに最後まで」
「わかりました」
ドルチが持ってきた紙には、「春を喚ぶ」と名付けられた二人分の詠唱がそれぞれ書き分けられていた。私は自分の分を目で追い、頭の中で何度も節をなぞった。単純な旋律ではない。だが、ここ数か月の稽古で仕込まれた感覚が、指先の記憶として残っている。呼吸の合わせ方、声の乗せ方、一つひとつが、これまでの稽古の積み重ねの上に成り立っていた。
「緊張、してます?」
「少し。ドルチさんは」
「かなり。……でも、やらなきゃ、師匠たちのことが終わらない気がして」
その一言に、これから唱える詠唱の重みを、改めて思い知らされた。これは単なる実験ではない。ドルチにとっては、師との別れに区切りをつけるための、大切な儀式でもあるのだろう。
「――いきます」
ドルチの声が、最初の一音を刻んだ。私は一拍遅れてそれに重ねる。二つの声が、円を描くように絡み合っていく。喉の奥に、これまで感じたことのない引っ張られる感覚があった。自分の声と、ドルチの声の境目が、次第に曖昧になっていく。
空気が、鳴った。
耳よりも先に、肌がそれを感じ取った。目の前の空間が、薄く波打つように揺れる。詠唱の最後の一節を重ねた瞬間、視界が一瞬、白く飛んだ。
――発動した。
二人とも、しばらく声が出なかった。ドルチの目に、喜びと驚きが同時に浮かんでいる。数か月分の苦労が、たった今、報われた瞬間だった。
「――できた。師匠たちの時には、できなかったのに」
「良かった、ですね」
私も、心から安堵していた。この結果を、ドルチと一緒に喜べることが、素直に嬉しかった。
そう言いかけた時、足元の空気が、ふつりと重くなった。
円を描いた場所の中心が、黒く沈んでいく。最初は染みのように小さかったそれは、見る間に広がり、地面から染み出すように、輪郭の定まらない何かが盛り上がってきた。
「ドルチさん」
「――止まって。動かないで」
ドルチの声が硬い。私たちは、詠唱の余韻も冷めやらぬまま、その黒い塊を凝視していた。人の形にも獣の形にも見えない。輪郭が曖昧なまま、ゆっくりと、脈打つように膨らんでいく。
攻撃してくる気配はなかった。だが、それが逆に不気味だった。ただ膨らみ続けるだけの、その静かな脅威に、私は経験したことのない種類の恐怖を覚えていた。獣でも、賊でもない。意志を持たない質量が、ただ理屈もなく広がっていく。倒すべき急所も、通じる言葉もない相手だった。
「――なに、これ」
ドルチの声が震えていた。研究者としての彼女が、目の前の現象をどう理解すればいいのか、必死に頭を働かせているのが伝わってきた。だが、答えはすぐには出てこないようだった。私は剣の柄に手をかけたまま、じりじりと後退った。塊は、こちらの動きを見透かすように、少しずつ膨張の速度を上げているようにも見えた。
「塔に、戻りましょう。これは、私たちだけでどうにかできる規模じゃないかもしれない」
「――そうですね。急ぎましょう」
二人して、来た道を引き返そうとした。だが、数歩も進まないうちに、足元の下草が不自然にざわめいた。振り返ると、塊から伸びた細い触手のような黒い筋が、地を這うように背後へ回り込んでいた。退路を断つように、木々の間を音もなく這い進んでいる。
「――嘘でしょう」
「回り込まれた」
背筋が、冷たくなった。逃げるという選択肢が、静かに消えていく。残された道は、今この場で、どうにか食い止めるしかなかった。私は剣を抜いた。刃が鞘から離れる音が、やけに大きく響いた。
* * *
「魔法、効いてない……!」
ドルチが放った炎の弾は、黒い表皮に触れた途端、じゅう、と嫌な音を立てて溶けるように消えた。表面が焼けた跡は残るが、それだけだ。塊はひるみもせず、ただ広がり続けている。
私は剣を抜き、腕ほどの太さに伸びた黒い触手のようなものへ斬りつけた。刃は沈み込むように肉へ埋もれ、抜こうとした瞬間、嫌な粘つきに引っかかって刃こぼれの感触が走った。
「くっ――」
「無理に近づかないで!」
塊からは、時折、黒い靄が吹き出していた。それが触れた地面は、じわりと色を失い、枯れたように腐食していく。木々の根元にまとわりつくと、幹ごと変色させていった。森が、少しずつ侵食されている。鼻の奥を突く、饐えたような臭いも漂い始めていた。
私は距離を取りながら、灯りの魔法を応用して、目眩ましのつもりで強い光を放ってみた。塊の表面が一瞬だけ縮こまったように見えたが、すぐに元の膨張を再開する。焼け石に水、という言葉が頭を過った。
「今の、少し効きました?」
「気休め程度です、たぶん」
ドルチの見立ては、容赦がなかった。だが、その通りなのだろう。相手には、痛覚も恐怖もないように見えた。ただ広がることだけを目的にした、純粋な質量。そんなものと戦うための術を、私はまだ持っていなかった。
ドルチが後退しながら、次々に呪文を試していく。水、風、土。どれも表面を撫でる程度で、決定打にはならない。土の壁を作って進行を防ごうにも、壁ごと侵食されて数十秒と持たなかった。
「雷と、火は多少効くみたいだけど……!」
彼女の放った雷撃が、塊の一部を弾けさせた。焼け焦げた跡が残り、そこだけ動きが鈍る。だが、すぐに周囲の黒い質量がそこを埋め、何事もなかったかのように盛り返した。
「これじゃ、削るだけじゃ追いつかない……!」
ドルチの声に、初めて焦りが滲んだ。塊は着実に大きくなり続けている。すでに、最初の倍近い規模になっていた。周囲の木々は次々と傾ぎ、乾いた音を立てて倒れていく。逃げ場になるはずの空間が、刻一刻と狭められていった。私は剣を握り直しながら、周囲の地形を素早く確かめた。逃げ道はどこにも見当たらなかった。
一度、大きく息を吸って、私は塊の側面へ回り込むように踏み込んだ。ファルグに仕込まれた足運びを、無意識になぞっていた。狙うのは、正面からの力比べではない。流れの隙間、変わり目を探る。だが、この相手には「変わり目」と呼べるものがなかった。獣であれば呼吸の間があり、敵であれば意志の揺らぎがある。だが、この塊には、そのどちらもない。ただ均一に、理不尽に、広がり続けるだけだった。
「――駄目だ、隙がない」
思わず声が漏れた。剣の技が通じない相手と対峙するのは、初めてだった。培ってきたものが、まるごと空を切っているような感覚に、焦りが背筋を這い上がってくる。
小手先の術も、剣も、決め手にならない。残された手立てを頭の中で数えるうち、一つだけ、まだ試していないものがあることに思い至った。
「――ドルチさん、あの詠唱を、もう一度」
「二重奏、ですか。でも、それがこれを呼んだ原因かも……」
「わかってます。でも、これだけの威力を持つものは、他にない」
ドルチは一瞬、唇を噛んだ。だが、迷っている時間の方が、もう命取りだった。
「――やりましょう。狙いは、正面から」
私たちは剣を挟まず、素手のまま向き合った。声を重ねる。喉の奥に、あの引っ張られる感覚が満ちていく。今度は全力で、出し惜しみなく。詠唱の最後の一節を重ねた瞬間、視界が真っ白な光で塗り潰された。
雷が、まっすぐに塊の中心を貫いた。
これまでとは比較にならない量の光と音が、辺り一帯を揺らす。塊は大きく痙攣するように震え、表皮のあちこちから黒い破片が弾け飛んだ。悲鳴とも呻きともつかない、地の底から響くような音を立てて、塊全体がぐらりと崩れ落ちていく。
やがて、動きが完全に止まった。
「――終わった……?」
ドルチが、震える声でそう漏らした。私も、剣を握ったまま、しばらく動けずにいた。焦げた匂いが、辺りに立ち込めている。崩れ落ちた黒い質量は、もう脈打つ様子も見せず、ただの焼け焦げた塊としてそこに横たわっていた。
「やった、やりました……!」
ドルチが、へたり込むように膝をついた。安堵の息が、白く長く尾を引く。私も、詰めていた息をようやく吐き出した。数か月の稽古も、師の死も、遺品の中に眠っていた過去も、この一撃で、ようやく報われた気がした。
だが、その安堵は、あまりに早すぎた。
崩れ落ちた黒い質量の縁が、ぴくり、と動いた。
「――え」
見間違いかと思った。だが、次の瞬間、焼け焦げた表皮の下から、新しい黒い質量が滲み出すように湧き上がってきた。まるで、傷口から膿が溢れ出すように。塊は、崩れる前よりもさらに速い勢いで、再び膨張を始めていた。
「そんな、あれだけの威力だったのに……!」
喜びも束の間、絶望に近い焦りが押し寄せてくる。再膨張した塊は、明らかに以前より禍々しさを増していた。動きも速い。油断していた分だけ、こちらの反応が遅れた。
「下がってください、ドルチさん!」
叫んだ時には、遅かった。
塊の縁から伸びた黒い靄が、ドルチの足元の木を根元から腐らせ、大きく傾がせた。倒れ込む幹の下敷きになる寸前、ドルチは横へ飛び退ったが、着地した先には、いつの間にか広がっていた黒い靄が待ち構えていた。
倒木と、黒い靄。挟まれる形で、ドルチの逃げ場が消えた。
「――っ、しまった」
「動かないで! 今行きます!」
私は塊の脇を回り込みながら、彼女のもとへ駆けた。だが、距離がある。塊の本体が、まるでその隙を見逃さないとでもいうように、ゆっくりと、しかし確実に、ドルチのいる方向へ質量を伸ばし始めていた。
途中、足元に転がっていた枝に躓きかけ、体勢を崩した。踏みとどまった拍子に、脇腹を掠めるように黒い靄の先端が過ぎる。焼けるような痛みが走ったが、止まっている暇はなかった。歯を食いしばり、痛みごと呑み込んで走り続けた。
「ドルチさん、そのまま倒木に沿って、右へ! 少しでも隙間があるはずです!」
「わかりました……!」
ドルチが指示通りに動く。だが、右手の隙間は、思っていたよりずっと狭かった。彼女の身体が、倒木の枝葉に引っかかって止まる。
「駄目、抜けられない……!」
「そのまま、動かないで!」
私は剣を構え、間に合わせに近くの若木を薙ぎ倒し、少しでも通り道を広げようとした。だが、木を切り倒す一瞬にも、黒い靄はじりじりと距離を詰めてくる。焦りで指先が震えた。剣を握る手のひらに、汗が滲む。
黒い靄が、倒木の隙間からドルチの足元へ這い寄っていく。彼女の顔から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。
「――誰か、誰でもいいから……!」
その叫びは、誰に向けたものでもなかった。ただ、恐怖に押し出された、剥き出しの声だった。私は歯を食いしばり、足に力を込めた。間に合うか、間に合わないか。考えている暇はなかった。
喉の奥で、心臓が跳ねる音がした。




