第十九話 半音の刃
迷っている暇が、消えた。
黒い靄がドルチの足元へ這い寄る様が、やけにゆっくりと見えた。恐怖で時間の感覚が狂っているのか、それとも別の何かが働いているのか、判然としない。ただ、身体は考えるより先に動き出していた。
俺は喉に力を通す。完全に振り切るでも、抑えるでもない。あの、稽古で何度も繰り返した、危ういところで踏みとどまる感覚――半音。声変わりの手前で、意図して止める。何十回、何百回と繰り返してきた感覚だ。今、それを実戦で試す時が来た。
脳裏に、ふとファルグの声がよぎった。変わり目に、刃を置け。押し通すのではなく、聞き分けろ。あの日、山の岩棚で叩き込まれた言葉が、今になってようやく、剣以外の場所でも意味を持ち始めている。力ずくで押し通すことも、完全に抑え込むことも、この局面では何の役にも立たない。ただ、境目に立ち続けること。それだけが、今の俺にできる唯一のことだった。
流れが、澄んだ。
視界が、妙にはっきりとしていた。恐怖も焦りも消えたわけではないのに、その奥にある芯だけが、静かに冷えていく感覚。ファルグに教わった、あの変わり目の感覚と、寸分違わなかった。
風を掌に集め、黒い靄へ向けて叩きつける。押しのける。倒木とドルチの間に、一瞬だけ空白が生まれた。
「そこだ!」
俺は地を蹴った。倒木の幹へ、剣を叩き込む。乾いた音とともに、木が裂ける。だが、刃は半ばから折れ、鈍い音を立てて宙を舞った。柄だけが手に残る。数打ちとはいえ、長年連れ添った得物だった。それが、こんな形で終わるとは思っていなかった。
「――しまった」
「リュートさん!」
ドルチが裂けた幹の隙間から転がり出てくる。無事だった。だが、それも束の間、塊はさらに質量を増し、二人を囲むように広がり始めていた。折れた剣では、もう斬り込む手立てがない。
俺は折れた剣を構えたまま、後退るドルチを庇うように前へ出た。柄しか残っていない得物でも、ないよりはましだった。だが、その虚勢もすぐに底が知れた。黒い触手の一本が、掠めるように腕を打つ。皮膚が焼けるような痛みに、思わず呻き声が漏れた。
「くそ……!」
闇雲に柄を振るっても、黒い質量には傷一つ付けられない。焦りが、思考の速度を鈍らせていく。それでも、頭のどこか冷めた部分が、まだ諦めていなかった。何か、まだ手立てがあるはずだ。
「まだ、何か……!」
ドルチが叫ぶ。俺の頭の中で、稽古で組んだばかりの詠唱の節が、勝手に鳴り始めた。何百回と声に出してきた旋律だ。折れた剣を握る手が震える。だが、頭の芯は不思議なほど冷静だった。
「――さっきの二重奏、なぜ効ききらなかったんだと思いますか」
「え……表面からじゃ、すぐに立て直されるから、じゃ……」
「なら、外から叩くんじゃなく、中から突き崩したらどうです」
俺の中で、何かが繋がった。半音留めで澄んだ流れ。折れた剣。さっき空を割った雷。ばらばらだったものが、一つの答えへ収束していく。表面から叩いても、この質量はすぐに立て直す。ならば、外からではなく、中から。
「――ドルチ、もう一度。今度は、この剣に、直接」
「剣に、って……」
「さっきの雷を、剣へ流し込む。表面じゃなくて、内側から突き崩す」
ドルチは一瞬、目を見開いた。それから、迷いを振り切るように頷いた。
「――やりましょう」
俺は、手の中にまだ残っていた折れた柄を握り直した。刃はもうない。だが、それでいい。
俺たちは、柄を挟むように向き合った。声を重ねる。半音の縁に留めたまま、詠唱を刻む。喉の奥が、また引っ張られる感覚に満ちる。今度は、闇雲に鳴らすんじゃない。狙う先を、はっきりと定めて。周囲で唸る黒い質量の圧に、意識が押し流されそうになる。それでも、半音の縁だけは、決して手放さなかった。
剣身が、白く発光し始めた。
折れた刃の断面から、まるで刃を継ぎ足すように、光の刃が伸びていく。物理の刃ではない。魔力そのものが、剣の形をとって固まっている。掌に伝わる感触は、いつもの鉄の重みとはまるで違う、脈打つような熱を帯びていた。ドルチの目が、驚愕に見開かれた。
「人が、こんなこと……」
「今は、それを喜んでる場合じゃない」
俺は光る刃を握り直し、迫る黒い質量へ向けて踏み込んだ。狙うのは、表面じゃない。奥だ。
一歩目、黒い靄が足首に絡みついた。構わず踏み抜く。焼けるような痛みが走ったが、止まればそれだけ隙になる。二歩目、触手の一本が顔の高さを薙いできた。半音の縁を保ったまま、紙一重で身を沈め、かわす。頭の中では、剣の技と、留め続けている半音の感覚と、両方を同時に制御する作業が続いていた。どちらか一方でも崩れれば、全てが終わる。それでも、不思議と焦りはなかった。あの山で覚えた「変わり目」の感覚が、今この瞬間、確かに俺を支えていた。
三歩目で、間合いに入った。
刃が、黒い塊の中心へ深々と突き刺さる。手応えは、これまでとまるで違った。刃が沈み込むのではなく、確かに何かを貫いた感触。塊全体が、初めて明確に怯むように震えた。
「――ドルチ、さらに雷を! この剣に、直接!」
叫ぶと同時に、ドルチの詠唱が跳ねた。雷撃が、俺の握る柄を伝って刃の先へ流れ込む。剣そのものが導線と化し、高圧の雷が、塊の内側へ直接叩き込まれた。
悲鳴とも呻きともつかない音が、塊の全体から響いた。表皮の下で何かが弾け、黒い質量が内側から崩れ始める。俺は柄を握ったまま、渦の中心に踏みとどまった。腕を伝って、痺れるような痛みが何度も駆け上ってくる。それでも、握りを緩めなかった。ここで手放せば、今までの全てが無駄になる。
塊が、最後の抵抗のように大きく暴れた。周囲に残っていた木々が、その振動だけでばきばきと折れていく。俺は柄を握ったまま踏ん張り、足の裏で地面を掴むように力を込めた。視界の端で、火花のような光が幾度も瞬く。剣そのものが、限界を訴えているようだった。柄が小刻みに震え、握る手のひらの皮膚が焼けるように熱い。
「もっと……! まだ、足りない!」
ドルチの声が張り上げられる。二重奏の旋律が、さらに一段高く跳ね上がった。喉が引きちぎれそうなほどの負荷を感じながら、それでも半音の縁だけは、決して手放さなかった。塊の内側で、何かが決定的に壊れる感触が、柄を通して腕まで伝わってくる。剣身の輝きが、一際強く膨れ上がった。
「――離れて!」
ドルチの声に弾かれるように、俺は柄を手放し、後ろへ飛び退った。次の瞬間、塊が内側から爆ぜるように弾け、黒い霧となって四方に散った。爆風にも似た衝撃が、遅れて頬を打つ。四散した霧は、風に流されるように薄れ、やがて夜気の中へ溶けて消えていった。
静けさが、戻ってきた。
* * *
私は、地面に膝をついたまま、しばらく動けなかった。喉が痛い。指先が痺れている。荒れた呼吸を整えるので精一杯だった。全身から力が抜け、指一本動かすのも億劫だった。
「――終わった、んですよね」
「たぶん」
ドルチも、崩れるようにその場に座り込んでいた。互いの息が白く上る。周囲を見渡すと、地面は所々黒く焼け焦げ、倒れた木が何本も転がっていた。だが、あの塊はもう、どこにも見当たらない。焦土と化した空き地に、静けさだけが広がっていた。
「剣、なくしました」
「……すみません」
「いえ。……あれがなかったら、私たちの方がなくなってたので」
冗談めかして言ったつもりだったが、声はまだ掠れていた。それでも、失った得物を惜しむ気持ちが、じわりと遅れてこみ上げてきた。あの剣は、ダンジョンで呪いを受けた頃から、ずっと共にあった相棒だった。何の変哲もない量産品だったが、手に馴染むまでの年月は、確かに私だけのものだった。
ドルチが、力なく笑う。
「人類で初めて、なんですよ、多分。剣と魔法をあんな風にくっつけたの」
「そう、なんですか」
「そうです。あとで、ちゃんと記録しないと」
研究者の顔に戻りかけたドルチを見て、少しだけ安心した。少なくとも、この人はまだ、立ち直る力を残している。互いに何も言わないまま、しばらくその場で息を整えていた。焼け焦げた地面の匂いと、木々の間から漂う冷たい朝の空気が、少しずつ混じり合っていく。
腕の痛みは、まだ引いていなかった。焼け爛れたような感触が、じくじくと熱を持ち続けている。それでも、動けないほどではなかった。ただ座り込んで呼吸を整えるだけで、少しずつ意識が現実へ引き戻されていく。
「――半音留め、使えたんですね。実戦で」
「ぎりぎりでしたが」
「見てました。あれ、ちゃんと技になってます。師匠の理論と、あたしの見立てと、それをあなたが実際に使ってみせた。三人がかりで、やっと完成した技術ですね」
三人、という言葉に、少し胸を突かれた。この技術は、俺一人のものではない。声を失った師の理論、それを継ごうとした弟子の観察、そして俺自身の身体。誰か一人でも欠けていれば、今ここに、この技はなかった。
「――お師匠様も、見ててくれたと思いますか」
なぜそんな言葉が口をついて出たのか、自分でもよくわからなかった。ドルチは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと空を見上げた。
「どうでしょう。でも、見ててくれたなら、きっと呆れてると思います。危なっかしいことするな、って」
「それでも、止めなかったと思いますか」
「――止めなかったと、思いたいです」
私は空を仰いだ。木々の隙間から覗く空は、もうすっかり白み始めていた。一晩中、あの塊と向き合っていたのだと、その時になってようやく気づいた。
遠くから、木々を掻き分ける音が近づいてきた。松明の灯りが二つ、揺れながらこちらへ向かってくる。
「――ドルチ姉様! リュートさん!」
トルセの声だった。悲鳴に近い響きに、サスフの押し殺した呼吸音が重なる。二人とも、夜通し戻らない私たちを案じて、探しに来てくれたのだろう。焼け焦げた空き地と、倒れた木々を目にした瞬間、トルセの足が止まるのがわかった。
「――何が、あったんですか」
「後で、ちゃんと話します。今は、二人とも無事なので」
ドルチがそう答える声を、どこか遠くのもののように聞いていた。安堵のためか、それとも張り詰めていた気が一気に緩んだためか、視界の端が滲むように暗くなっていく。




