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第二十話 別れの唄

 あの夜のことは、結局、身内以外には詳しくは話さなかった。町のほうには、森で魔物騒ぎがあった、とだけ伝わっているらしい。ドルチはそれを、正確な記録として自分の手元にだけ残すことにしたようだった。


「本当のことを表に出すと、余計な詮索を招くので」


 そう言った時のドルチの顔には、以前の研究者らしい生真面目さの他に、何か底の見えない慎重さが加わっていた。門の呪文がどうとか、そういう類の話は、私の耳には入ってこなかった。ドルチが、意図して私に伝えなかったのだろうことは、なんとなく察していた。聞かなかったことにした。知らない方がいいこともある、ということを、この旅はいつも教えてくれる。


 傷の癒えかけたある日、私はトルセとサスフに、自身にかかっている呪いを打ち明けることにした。二人には、隠し立てをしたまま過ごすのが、もう窮屈に思えていた。サスフのほうは少し驚いた顔をした程度だったが、トルセは、寒い日に抱きついていた相手が実は男性だったとわかり、ものすごく取り乱し、扉の向こうまで駆けていってしまった。


 それからしばらく、トルセは気まずそうに私を避けていた。だが、それも長くは続かなかった。ある朝、稽古場で顔を合わせると、彼女の方から先に声をかけてきた。


「――その、驚いてしまって、すみませんでした」


「いえ、当然の反応だと思います」


「男の人だから嫌、とかじゃないんです。ただ、心の準備が全然できてなくて」


 その一言で、わだかまりはあらかた解けたようだった。それからのトルセは、それまでにも増して稽古熱心になっていた。ただ、少し前までの師を失った寂しさを、鍛錬で埋めようとしている様子ではなく、真剣に、実直に、なにか目標が定まっているようにも見えた。ドルチは、そんなトルセの様子を、以前よりずっと近い距離で見守るようになっていた。姉妹の形が、少しずつ変わりつつあるのを、傍から見ていても感じ取れた。


 冬の底が過ぎ、日差しに少しずつ力が戻ってくる頃、私の身体も、ようやく元の形へ落ち着き始めていた。指の太さが戻り、声が徐々に低くなっていく。今度は、誰に急かされるでもなく、自然な速さでの揺り戻しだった。名残惜しさがなかったと言えば嘘になる。だが、掴んだものが消えるわけではない、ということも、この数か月でわかっていた。塔での日々を思い返すと、慌ただしく、痛みも多かったはずなのに、不思議と穏やかな記憶ばかりが浮かんでくる。傷んだ木々も、時をかけて少しずつ元の姿を取り戻していった。焼け焦げた地面にも、やがて新しい下草が芽吹き始めた。


* * *


 クヴェルンの墓の前で、私は七響琴を構えた。


 立ち会ったのは、ドルチ、トルセ、サスフの三人だけだった。サスフをこの場に呼んだのは、私からドルチへの、ささやかな頼みだった。


「歌います。まだ粗が残っていますが」


 旋律は、あの夜に聞いた「空が歌った夜」を下敷きにしていた。だが、伝わっていた話とは違う形にした。一人の聖女の奇跡ではなく、名を持たない幾つもの声が、重なって空を鳴らした夜の話に。そして、その中には、成功しなかったけれど確かに声を重ねようとした、名も伝わらなかった二人の若者のことも、そっと差し込んだ。


 声が空へ伸びていく。喉の熱はもうすっかり落ち着いていたが、代わりに、旅の間ずっと胸の奥に積もっていたものが、旋律に乗って流れ出ていくような感覚があった。この土地に来てから見聞きしたもの全部が、今この一曲に集まっている。そんな気さえした。


 歌い終えると、しばらく誰も口を開かなかった。サスフが、目元を袖でそっと拭う。それが、彼女がこの旅で見せた、初めての大きな表情だった。トルセも、洟をすすりながら、必死に涙をこらえている様子だった。ドルチだけが、静かに墓標を見つめたまま、微動だにしなかった。


「――いい歌だと言ってくれるといいなあ」


 誰にともなく呟いた言葉だった。師匠にも、サスフにも、まだ声を失う前の、若かった二人にも。


「いい歌でしたよ」


 サスフが、初めて自分から声をかけてきた。短い一言だったが、それで十分だった。


 その晩の食卓は、いつもより少しだけ賑やかだった。サスフが腕を振るったという煮込みが、大皿にたっぷりと盛られている。トルセは、あの日の取り乱しようが嘘のように、いつもの調子でよく喋った。


「リュートさん、じゃなくて……リュードさん、で合ってます?」


「どちらでも。旅の間は、リュートと名乗ることも、まだあると思うので」


「ややこしいですね」


 トルセがそう言って笑うと、つられて食卓全体に小さな笑いが広がった。あの一件から、名乗りの是非についてはもう誰も深く追及しなかった。私がどちらの姿であっても、この塔の中では変わらず同じ人間として扱われる。それが、思いのほか心地よかった。


「明日には、もういないんですね」


 ぽつりと、トルセが呟いた。


「寂しくなります」


「また来ます。約束はできませんが、方角が合えば、必ず」


 その場しのぎの言葉ではなかった。この数か月で得たものを思えば、二度と訪れないという選択肢の方が、むしろ不自然に思えた。食卓の隅で、ドルチが静かにこちらを見ていた。何かを言いたそうな顔をしていたが、結局その夜は、それ以上何も言わなかった。


 旅立ちの日は、静かに決まった。


* * *


 その前に、最後にもう一度だけ、あの酒場に立ち寄った。到着した晩に歌った、あの店だ。扉を開けると、給仕の女が「あら」と声を上げた。


「久しぶりだね、旅の兄さん。ずいぶん見なかったから、もう発ったのかと思ってたよ」


「森の方に、少し長居していまして」


 隅の卓には、あの晩に唄婆の噂を教えてくれた男たちの姿もあった。杯を傾けていた一人が、こちらに気づいて片手を上げる。


「おう、吟じ手の兄さんじゃねえか。例の婆さんには会えたのかい」


「ええ、おかげさまで。良い話が、幾つも聞けました」


「そいつは何より」


 男は満足げに笑い、隣の仲間に何か耳打ちした。あの夜と同じ卓、同じ面ぶれ。数か月という時間が、まるでなかったことのように、この店の空気だけは変わらず流れ続けていた。


「一曲、いかがです。最後になるかもしれないので」


 私がそう申し出ると、店の中がにわかに沸いた。七響琴の紐を締め直し、あの夜と同じように、魔導石へ指を添える。今度歌ったのは、道すがら少しずつ練り直してきた、あの旅の記録だった。空が歌った夜と、名も残らなかった二人の若者の話。歌い終えると、拍手より先に、しんと静かな間があった。


「――こいつは、また随分と深い話になったな」


 あの晩と同じ台詞を、あの晩と同じ男が呟く。私はただ笑って、頭を下げた。答えを持たない部分は、今度も素直に持たないと言った。それだけで、十分だった。


 その前に、町で剣を新調した。以前使っていたのは、しがない量産品だった。今回は少しだけ吟味した。柄の太さ、重心の位置、握った時の馴染み方。何本も抜き比べ、店主に呆れられるほど時間をかけた。今の身体だけでなく、いつかまた揺れることになるかもしれない身体にも、そこそこ馴染む一振りを選んだ。店主に妙な顔をされたが、理由は説明しなかった。


「お客さん、随分こだわるね」


「長く付き合う相棒にしたいので」


 冗談めかして返したが、口にしてみると、案外本音に近い気がした。この身体と、これからも長く付き合っていくのだと思えば、得物選びにも自然と力が入る。


「にしても、握り方が独特だね。あんた、剣士にしちゃ随分と繊細な握りをする」


 店主の指摘に、思わず苦笑いが漏れた。この数か月で、身体の重心そのものが変わってしまったのだろう。以前なら気にも留めなかった握りの角度一つに、今は妙に意識が向く。店主は不思議そうな顔をしながらも、それ以上は詮索せず、代わりに柄の巻き直しを勧めてくれた。仕上がった一振りは、以前のものよりわずかに軽く、それでいて手に吸い付くような馴染みがあった。


* * *


「新しい剣、似合ってますよ」


 塔を出る朝、見送りに来たドルチがそう言った。トルセとサスフも、少し離れたところに並んで立っていた。冬の名残がまだ薄く残る空気の中、朝日が塔の輪郭をくっきりと縁取っていた。


「ありがとうございます。色々、お世話になりました」


「こちらこそ。……あ、これ」


 ドルチは、折り畳んだ紙束を差し出してきた。


「半音留めの、基礎をまとめたものです。師匠の遺した理論と、あの夜に見たものを、あたしなりに整理しました。まだ荒削りですけど」


 受け取った紙は、思っていたより厚かった。何日もかけて書かれたのだろうことが、筆跡の乱れ方からわかった。


「大事にします」


「はい。……あと」


 ドルチは、少し言い淀んでから、続けた。


「魔法って、力の強さじゃなくて、世界への問いかけなんだと思うんです。師匠がずっとそう言ってました。あたしも最近、やっとわかってきた気がします。もっともっと、教わりたかったですね」


「問いかけ、ですか」


「はい。だから、また分からないことがあったら、いつでも聞きに来てください。あたしも、今度はちゃんと、人を集めてやろうと思うので」


 その決意めいた一言には、これまでの彼女からは感じられなかった、新しい強さのようなものが滲んでいた。孤独な研究を、独りで抱え込もうとしていたこれまでの姿とは、明らかに違う顔だった。


 その一言に、これまでとは違う何かが込められている気がした。だが、それを言葉にして確かめる勇気は、まだ私にはなかった。ドルチの視線が、一瞬だけ長く私に留まった。それだけだった。


「そういえば」


 ドルチが、思い出したように言葉を継いだ。


「ええとですね、その、実は、ずっと名乗りそびれてたんですけど。ドルチって、愛称なんです。本当の名前、もっと長くて」


「聞いても?」


「ドルチッシモ、って言います。」


 ドルチは、少し照れくさそうに笑った。


「師匠がつけてくれた名前ではないんですけど……あなたには、教えておこうと思って」


「ドルチッシモ、さん」


「今更さん付けですか」


 軽口に、少しだけ肩の力が抜けた。


「では『師匠』。」


「! お気を……いえ、気をつけて、リュード。たまには顔出してね」


 塔を振り返ると、トルセが大きく手を振っていた。サスフは、いつもの通り小さく会釈をするだけだった。それぞれの見送り方が、この数か月で見てきた、それぞれの距離感そのものだった。


 クレヴの町を抜け、本道へ戻る道すがら、私は懐にしまった紙束の重みを確かめた。半音留めの基礎。剣の新しい柄の感触。まだ耳の奥に残る、あの夜の歌の余韻。


 ――さて、次はどちらへ向かおうか。


 七響琴の紐を締め直しながら、私は日暮れとは逆の方角へ、足を向けた。


(第二章・了)


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