第八話 守り続けた傷
夜が完全に下りたあとも、ヴァーンの村はすぐには静かにならなかった。
壊れた柵を応急で縛り、溝へ落ちた泥をかき出し、傷ついた者の手当てをしていると、時の流れは普段よりずっと遅くなる。灯された松明の火は風に煽られて細く揺れ、そのたび人の顔の陰影を不安定に塗り替えていく。泥にまみれた若い衆はまだ肩で息をし、年配の女たちは口を止めずに布を裂き、鍛冶場の老人は使い終えた鉄串を無言で水桶へ沈めていた。何かが終わったあとというより、まだ終わりきっていないものの中へ、皆が立ち尽くしているような空気だった。
私は広場の端へ腰を下ろし、受け取った薬草をすり潰していた。老英雄に投げ渡された束は、煮るだけではもったいないほど香りが強い。葉を指で揉むと、青い苦味の匂いが立ち、指先の熱まで少し引くようだった。
「なあ」
声をかけてきたのは、以前この広場で木剣の稽古をした若い衆の一人だった。後ろにもう二人、ばつが悪そうな顔で続いている。三本勝負で私に負けた時と、同じ面ぶれだ。
「さっきの、あれ。柵んとこで、獣の脚を斬ったやつ」
「……見ていたんですか」
「見てたも何も、目の前だったろ」
男は首の後ろを掻いた。
「腕が立つのは、稽古の時から知ってたけどよ。あんな踏み込み、俺たちの型にはねえ。今度、教えてくれよ」
悪気のない、ただの憧れの目だった。負けた悔しさより、単純な興味のほうが勝っている顔。だが今の私には、それに丁寧に応じる余裕がなかった。喉の奥はまだ熱を持ったままだし、何より、あの三太刀が何だったのか、自分でもうまく言葉にできる気がしなかった。型でも、教わった技でもない。ただ身体が、崩れる寸前で辛うじて止まる場所を、勝手に探り当てただけだ。
「今度、機会があれば」
言葉を濁すと、男は「絶対だぞ」とだけ言って、仲間のところへ戻っていった。その素直さに、強張っていた肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
喉はまだ完全には戻らない。誰かへ短く答えるだけでも、声がわずかに高く滑る。それを誤魔化すために、私は必要以上に人の輪から離れていた。今夜の村では誰も私を気にする余裕がない、と信じたい一方で、こういう時ほど些細な違和感が誰かの目へ残ることも知っている。
ホーナが椀を持ってきたのは、囲炉裏の煙の匂いがようやく薄くなり始めた頃だった。
「それ、飲みなよ」
湯気の立つ椀から、薬草とは別の、穀物を煮た優しい匂いがする。
「食べないと倒れる」
「倒れてる暇はないので」
軽口のつもりで言ったが、声の掠れは隠しきれなかった。ホーナの眉がぴくりと動く。
「……ほんとに大丈夫?」
「少し喉を使いすぎただけです」
「嘘」
即答だった。夜のせいか、その声はいつもよりずっと低い。
「あんた、山から戻ってきた時からずっと変だもん。顔色も、息の仕方も」
私は椀を受け取りながら、返す言葉を探した。嘘をつくのは難しくない。けれど、今のホーナの目の前で、安っぽい誤魔化しを口にしたくなかった。
「変なのは、お互い様でしょう」
結局、そんな言い方しかできない。
ホーナは笑わなかった。代わりに、私の隣へ腰を下ろし、広場の中央を見た。そこでは見張りの男と村長らしい年配の男、それに鍛冶場の老人と水汲みの女が、今後の見張りをどう回すか話し合っている。
「皆、山の人が来たって顔してる」
ホーナがぽつりと言う。
「でも名前にしない。したら、本当にいるって認めることになるから」
私は黙って椀の中を見た。粥はとろりとして、明かりを吸って鈍く光っている。こういう時に温かいものが腹へ入ると、身体が生き延びるためだけの単純な安心を思い出す。
「あたし、小さい頃はね」
ホーナは広場を見たまま続けた。
「山の人って、もっと大きいと思ってた。山そのものみたいな人。誰にも見えなくて、でも困ると来てくれるような」
「今は違うと?」
「今夜の矢、見たでしょう」
私は頷いた。
「あれ見たら、急に怖くなった。ちゃんと人なんだって分かったから。人なのに、ずっと一人で山にいたんだって」
その言葉は、私の胸の中にもまっすぐ落ちた。
伝説が人であると知ることは、憧れを近づけると同時に、痛みまで具体的にしてしまう。山の人は、山そのものではなかった。痛み、老い、呼吸の乱れ、指の強張りを持つ、一人の老人だった。
だからこそ、今夜の二本の矢は、昔話よりもずっと重い。
「あなたたちは、あの人がいることを知っていた」
私がそう言うと、ホーナは首を横に振った。
「知ってた、っていうより……知ってることにしないで済ませてた」
広場の向こうで、子どもが眠気に負けて泣き出した。母親が抱き上げると、すぐに泣き声は小さくなる。火の色に照らされたその横顔は疲れているのに、腕だけはしっかりしていた。
「誰かが助けてくれたのは本当。でも、その人が何をして生きてるかとか、どうして下りてこないかとか、考え始めたら気まずいでしょう。助けられる側でいるほうが楽だもの」
ホーナの言葉は、自分自身を責める調子ではなかった。村全体の甘えを、ようやく言葉にしたという響きだった。
私は椀の中身を飲み干した。熱が喉を通る時、わずかに痛む。けれどその痛みのおかげで、声を出さずに済む数拍が生まれた。
その時、広場の外れでざわめきが起きた。
見張りに立っていた若い衆が、息を切らして駆け込んでくる。
「北の斜面で、また音がした!山犬じゃねえ!もっと背が高い、二本足の影だ!」
広場が一瞬で張る。
見張りの男が振り返り、村長が杖を握り直し、鍛冶場の老人は小さく舌打ちした。今しがた一群を退けたばかりなのに、もう次が来るのか――その疲労と苛立ちが、誰の顔にも浮かぶ。
「数は」
「わからねえ!暗くて見えん!だが柵の上から木が揺れるのが見えた!」
村長が呻くように息を吐いた。
「今夜じゅうにもう一度来る気か……」
私は立ち上がりかけて、膝の奥が一瞬抜ける感覚に眉をひそめた。まずい。身体のほうはまだ限界を越えていないが、そこに近い。もし今からまた走り回り、声を張り、剣まで抜く羽目になれば、無事に済む気がしない。
それでも広場の空気が、もう一度誰かの動きを待ち始めているのがわかった。見張りの男は有能だ。だが今度は相手が見えない。闇に紛れて動くものへ、村人たちの足は鈍る。
その時だった。
柵の外、北の斜面の闇から、獣の唸りとは違う音がひとつ落ちてきた。
甲高くはない。だが深い底を擦るような、長い、嫌な響き。
広場の何人かが、その場で動きを止めた。
山の泣き声だ。
私はすぐにわかった。昨夜ホーナの隣で聞いたもの、山の上で耳を澄ませたものと同じ種類の音だ。ただ今夜は、それが村の近くまで降りてきている。
見張りの男が怒鳴る。
「怯むな!音に気を取られるな!」
けれど言葉ほど簡単ではない。あの音は、耳から入って頭の奥へ触る。恐怖そのものではなく、恐怖に名前を与える前の嫌悪だけを先に掻き立てる。人が嫌がるようにできている音だ。
私は喉の奥が冷えるのを感じた。あの人は、この音の中で戦ったのか。
そして負けたのか。
それがどれほどのことだったのか、ようやく少しだけ想像が届く。
「広場へ寄せて!」
今度の声は見張りの男ではなく、私の口から出た。
「一人ずつ散るな!火を真ん中へ!音を聞かせるな!」
叫んだ声が高く掠れた瞬間、自分でも舌打ちしたくなった。だが言葉の内容は伝わったらしい。インネーがすぐ子どもたちをさらに広場の中央へ押し込み、鍛冶場の老人が火鉢を二つ運ばせる。人が密集すると、それだけで音への意識が少し散る。誰かの肩に触れ、誰かの息遣いを感じると、人は自分がまだここにいると確認できる。
見張りの男が私を見る。その目に一瞬だけ逡巡が走る。声が変だ、と気づいたのかもしれない。だが彼は何も言わず、すぐに言葉を引き継いだ。
「柵の北側へ三人!それ以外は広場から出るな!」
村人たちが動き始める。
その時、柵の向こうで何か大きなものが枝を薙ぐ音がした。一本や二本ではない。重く濡れた布を裂くような連続音だ。火の明かりが届かない闇の中で、見えない巨体だけが位置を主張している。
次の瞬間、壊れかけた柵の上へ、黒い影がぬるりと立った。
獣ではない。
人に似ている。だが似ているだけだ。腕が長すぎる。背が不自然に反り、首が前へ突き出ている。火に照らされた皮膚は泥のような黒褐色で、肩から胸にかけては何か古い甲冑の欠片みたいなものが肉へ食い込んでいた。目にあたる場所だけが、妙に淡く濁っている。
「……魔族」
誰かが掠れた声で言った。
その響きだけで、広場の空気が凍る。
老英雄の矢は、まだ来ない。
私は無意識に、北の森を見た。
闇ばかりだ。
もしかしたら、あの人はもう来ないのかもしれない。今夜の一度だけ、気まぐれに手を貸しただけで、これ以上村へ関わる気はないのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の内へ奇妙な怒りが刺さる。
来てくれ、と願っている自分に対する怒りだ。
違うだろう、と私は思う。あの人が来るかどうかに関わらず、村は自分たちで立たなければならない。老英雄に救われた記憶だけを支えにしていたから、皆はこんなにも口を閉ざしてきたのではなかったか。
ならば、今ここで必要なのは、昔の英雄を待つことではない。
今ここにいる者同士の声を、散らさずに繋ぐことだ。
私は七響琴へ手をかけ、そして止めた。使えば遠くまで響く。だが魔力を流した瞬間、今の身体がどうなるかはわからない。ほんの少しだけなら、と誘惑が囁く。けれど、その「ほんの少し」の境目を私はまだ自分で決められない。
だから、代わりに声だけを使うことにした。
「聞いてください!」
広場のざわめきへ向かって、私は叫んだ。
「山の音は、昔から鳴ってたんでしょう!子どもたちが子守唄にするくらいに!今夜だけのものじゃない!音にやられるな、やることを見ろ!火を持つ人は火だけ!溝を見る人は足元だけ!子どもの名前を呼ぶ人は、名前だけ!」
声は掠れる。けれど言葉は届いたらしい。ばらけていた視線が、少しずつ自分の役へ戻る。ホーナが子どもたちの名を順番に呼び始めると、幼い声がぽつぽつと返事をした。鍛冶場の老人は火のついた枝を長い棒へ括りつけ、即席の火槍を作って若い衆へ渡す。年配の女たちは布を水へ浸し、煙避けの口覆いに変えていく。
その輪の端で、小さな影が一つ、列からはみ出しかけるのが見えた。火に怯えたのか、幼い子が母親の手を振りほどいて柵のほうへよろめいていく。私は反射的に駆け出していた。腕を伸ばし、その小さな身体を抱えて後ろへ突き飛ばす。次の瞬間、柵を越えた魔族の腕が横薙ぎに閃き、爪が背を掠め、脇腹まで焼けるような痛みが走った。
深くはない。だが布が裂け、ぬるいものが肌を伝うのがはっきりわかった。
「下がって!」
叫びながら子どもを押し戻すと、若い衆が火槍を突き出した。だが魔族は怯まない。火の穂先を片腕で払い、濡れた木でも折るみたいに棒ごと弾き飛ばす。私はその場で息を詰める。背中から脇へかけて、服がじわりと貼りつく感覚が気持ち悪かった。
誰か一人が強いからではない。
皆が自分の場所を思い出した時、村の空気そのものが変わる。
私はその変化を、ほとんど祈るような気持ちで見ていた。
魔族は火の輪の外で、首をかしげるみたいに止まった。あの嫌な山の音を、今度は喉のすぐ奥で鳴らしている。広場の誰もが、その一歩を待たされていた。
次に動いたのがどちらだったのか、私には見えなかった。
闇がひとすじ、火の縁へ滑り込んだ。
白髪。
痩せた肩。
そして、長く抜き放たれた剣。
山の人だ、と誰かが叫ぶより先に、その刃はもう振り抜かれていた。
力任せではない。大きくもない。火に照らされて歪んだ魔族の喉が、あの嫌な音を吐こうとわずかに震えた、その変わり目だけを断つような一閃だった。
音が、止まる。
遅れて、黒い体が半歩ぶんだけ前へ泳ぎ、それから糸を切られた操り人形みたいに膝を折った。地へ落ちた身体は二度ほど痙攣し、もう起き上がらない。
村人たちの誰かが、息を吸うことすら忘れたように固まっている。
ファルグは魔族のそばへ半身で立ったまま、剣についた黒い血を一振りで払った。あの人が剣を持つところを、私は初めて見た。弓を握る時よりも静かで、むしろ何も足されていないぶんだけ、ひどく完成して見える。
「山の人だ……」
今度の囁きには、恐れより先に、呆然が混じっていた。
ファルグは誰のほうも見ない。魔族が本当に動かなくなったのを確かめると、剣を下げたまま、北の暗がりへ視線を走らせる。ほかにまだ何かいるか、それだけを見ている目だった。
やがて、森の音は少しずつ退き始めた。遠巻きに残っていた獣たちも、魔族の気配が消えたのを悟ったのか、北の暗がりへ引いていく。唸り声は遠くなり、最後には風の長い息ばかりが残った。
誰もすぐには動かなかった。
今度こそ終わったのか、まだ次があるのか、判断がつかないのだ。見張りの男が手を上げ、皆を制する。しばらくして、闇の向こうから何も返ってこないとわかってから、ようやく広場の空気が少しだけ緩んだ。
その瞬間、私は視界の端がぐらつくのを感じた。
まずい、と思った時には遅い。膝から力が抜け、広場の土へ片手をつく。喉の奥を熱いものが一気に這い上がり、胸元の呼吸が浅く速くなった。今はだめだ。今ここで崩れるな。そう思うほど、身体は言うことを聞かない。
「リュード!」
ホーナが駆け寄る。私は咄嗟に顔を背けた。火の明かりの中で、喉の線や声の高さが変わり始めたら誤魔化せない。
「平気です、少し」
出た声は、ひどく頼りなかった。
ホーナは一瞬だけ目を見開いた。けれど次の瞬間には、何も問いたださず、身体を盾にするように私の前へしゃがみ込む。
「薬草、まだある?」
「あります」
「なら、うちに来なよ。ここじゃ休めない」
断る理由を探したが、身体が先に限界を教えてくる。私は小さく頷くしかなかった。
立ち上がる時、広場の向こうをちらりと見る。北の森の縁には、もう誰もいない。けれど白い髪の残像だけが、闇の奥へ消えずに残っている気がした。
老英雄は来た。しかも、剣で終わらせた。だが村へ下りてきて、歓声を受けることはしなかった。
守ったのに、受け取らない。
その歪さこそが、あの人の傷の深さなのだろう。
私はホーナに肩を貸されながら、火の色でまだ赤い広場を後にした。夜の村には泥と血と煙の匂いが混じっている。どれも綺麗ではない。けれど、人が生き残った夜の匂いとしては、ひどく正直だった。
家へ入るなり、インネーは余計なことを聞かなかった。灯りを絞り、湯を沸かし、私へ背を向けたまま「ホーナ、戸を」とだけ言う。その手際の良さに、かえって逃げ場を失う。ホーナが戸を閉めたところで、インネーの目が私の脇腹へ落ちた。
「服、切れてるよ」
そこでようやく、私も自分の上着の脇が大きく裂け、血が滲んでいることをまともに見た。さっきまで熱と眩暈に押し流されていたせいで、痛みのほうが後から追いついてくる。
「浅いです」
「浅くても洗うよ。ホーナ」
娘はすぐに頷いた。断る暇もなく、私は椅子へ座らされる。上着を脱ぎ、下着を肩から外そうとしたところで、少しだけ手が止まった。背中から脇へ走る傷を見せるだけでなく、この身体そのものを見られることになる。
「早く」
インネーの声は淡々としていた。叱っているのではない。ただ、怪我人を前にした時の母親の声だった。私は観念して布を脱いだ。
背へ冷たい空気が触れる。ホーナが息を呑むのがわかった。傷そのものは浅い。だが肩から脇へかけた線は、いつもの男の身体の厚みから、もう半歩ほどずれていた。骨の出方も、肌の張りも、火影の下ではごまかしきれない。
インネーは湯で血を拭いながら、そこには何も触れなかった。薬草をすり潰して布へ載せ、「押さえときな」とだけ言って、奥へ下がる。戸口の向こうで湯を替える音がした。あえて二人きりにしたのだと、その沈黙でわかった。
「……やっぱり」
ホーナの呟きは責める響きではなかった。驚きと、腑に落ちた安堵とが半分ずつ混じっている。
「山で受けたわけじゃ、ないんだ」
私は自分から先に言った。ここだけは、間違わせたくなかった。
「もっと前の冒険で受けました。古い遺跡で、罠を踏んだ時に」
ホーナは黙って私の背を見ている。傷の痛みより、その視線のほうが落ち着かない。
「戦ったり、強く魔力を通したりすると、時々こうなります。今夜も、あのまま押し切ろうとしたら、たぶんもっとひどかった」
ホーナは息を呑んだ。けれど距離は取らない。私の背後へ回り、傷へ触れないよう確かめてから、そっと肩口のあたりを包むように腕を回してくる。背中へ触れる体温はやわらかく、なのに逃がさない。
「だから隠してたの」
「見せていいものじゃないと思っていました」
「あたしは、見たからって嫌いになったりしないよ」
耳のすぐ後ろで囁かれたその言葉が、思いがけないほど深く沁みた。傷に障らないよう、ホーナは抱く力を細かく加減している。その慎重さが、なおさら胸に堪えた。インネーは背を向けたまま湯を椀へ注いでいる。聞こえているはずなのに、振り返らない。その沈黙もまた、ホーナの言葉と同じ種類の優しさだった。
歌にするなら、この匂いごと残さなければならない。
そんなことを考えながら、私は薄れかける意識の端で、自分の声がどこまで変わらずに済んでいるかだけを必死で確かめ続けていた。




