第七話 村へ戻る音
ヴァーンへ戻る道は、来た時より短く感じられた。
実際に近かったわけではない。ただ、急いでいる時の山道は、景色を眺める余裕を容赦なく奪っていく。息を継ぐたび肺へ入る冷気は鋭く、湿った土の匂いも、斜面に張り出した木の根も、今はただ足を取るものとしてしか迫ってこない。私は何度も枝を払い、岩へ靴を滑らせかけ、そのたびに左腕の傷をかばって歯を食いしばった。
喉の奥の熱も、走るほどにぶり返してくる。
よくない、とわかっていた。こういう時に無理をすると、後で必ず崩れる。呼吸が荒くなり、身体の芯まで熱が通ると、あの呪いは決まってこちらの事情を無視してくる。だが、山の上で耳にした金気の正体を確かめるまでは、引き返すわけにいかなかった。
やがて木々の向こうに、ヴァーンの柵が見えた。
村の入口には、普段より明らかに多い人影が集まっている。男たちは槍や斧を手にし、女たちは水桶や布束を抱えて走り回っていた。子どもたちの姿は外からは見えない。柵の上には見張りが二人上がり、そのひとりが鍋のような鉄器を棒で叩いている。澄んだ鐘の音ではなく、腹へ響く鈍い警報だった。
「何があった」
駆け寄りながら声をかけると、見張りの男が振り向いた。驚きと苛立ちとが同時に浮かぶ。
「お前、戻ってきたのか」
「音が聞こえました」
「聞こえたから戻る馬鹿があるか」
吐き捨てながらも、男はすぐに顎で森のほうを示した。
「斜面の下で、山犬だけじゃねえ足跡が見つかった。でかいのが混じってる。しかも一筋じゃない。村の裏手を回る気だ」
私は息を整えながら、その言葉を頭の中で並べた。裏手。谷に近いほうか。あちらは柵が低い。畜舎も水場も寄っていて、獣が来るなら狙いやすい。
「見つけたのは誰です」
「薬草採りに出た女衆だ」
見張りの男はそれだけ言って、すぐに別の指示を飛ばした。柵沿いへ丸太を運べ、火を絶やすな、家畜を奥へ寄せろ。声は荒いが、混乱してはいない。ただ、人手も時間も足りていないのがありありとわかる。
私は半歩下がって村の全体を見た。人の流れがいくつもぶつかり、荷が偏っている。力のある若い衆は表の柵に集まりすぎ、裏手へ回る者が少ない。畜舎の戸はまだ開いている。井戸端には女たちが集まっているが、誰も役を決めきれず、桶の置き場所だけが増えていた。
頭の中で、ひと月のあいだに見てきた景色が勝手に並ぶ。
水場の近くには、いつも乾いた薪が積んである。
井戸の脇の古い溝は、春先の雪解けを流すために残しているとインネーが言っていた。
裏手の柵は、山羊を追い込む時に使う狭い通路へ繋がっている。
鍛冶場の老人は片脚が悪いが、火起こしだけは誰より手際がいい。
子どもたちは、川辺へ向かう細道をよく知っている。
戦えない。
今の私は、前へ出て獣と斬り結ぶべきではない。山から下りる時点で喉はすでに熱く、息も浅い。これで剣を抜き、深く踏み込み、また熱を上げれば、誰より先に自分が崩れる。
ならば、別のやり方をするしかない。
私は見張りの男の袖を掴んだ。
「裏手の柵へ、人を回してください」
「言われなくても――」
「表は見せかけです」
男が眉を寄せる。
「薬草採りの人たちが足跡を見つけたのは斜面の下なんでしょう。山犬が餌を狙う時、匂いの濃い畜舎や水場へ回る道を使うと、ホーナの弟のマニが言っていました。正面で騒がせて、薄いほうを突くつもりです」
言ってから、私は一瞬だけ迷った。子どもの話を根拠にするのは弱い。だが見張りの男の顔つきが変わったのを見て、その迷いは消えた。
彼も知っているのだ。子どもが遊びで通る道が、獣にとっても通りやすいことを。
「……おい、畜舎の裏へ三人回れ!井戸の溝、今すぐ掘り返せるか見ろ!」
怒鳴り声が飛ぶ。男が一度動き出すと、周囲の空気も少しだけまとまる。その隙に私は井戸端へ走った。
インネーと水汲みの女、それに年配の女が二人、桶を前にして揉めている。火事へ備えるのか、怪我人へ備えるのかで意見が割れていた。
「どちらも要ります」
割り込んだ私へ、四つの視線が向く。
「水は井戸端へ積まないで、畜舎の裏手と広場に半分ずつ。怪我人が出たら広場の納屋を使ってください。火を持つなら鍛冶場の老人に任せたほうが早い」
「あんた、また勝手に――」
水汲みの女が言いかける。だがインネーが先に頷いた。
「裏手、ね。たしかにあっちは柵が心細い」
「溝が使えます。雪解け水を流すと言っていたでしょう。あれをぬかるませれば、獣の足を取れる」
年配の女の一人が、はっとした顔をする。
「ああ、昔やったね。猪避けに」
よかった。村の記憶に引っかかった。
私はさらに言葉を継いだ。
「子どもは広場へ集めて、数を確認してください。小さい子ほど黙って隠れようとする。誰がどこにいるか、呼び名を知ってる人が見ないとだめです」
女たちの目が、こちらの言葉の良し悪しではなく、その先の動きやすさを測る目になる。その目を見て、私はほんの少しだけ息をついた。説得ではなく、思い出させればいい。必要なのは、私の正しさではない。皆が自分の村の癖を思い出すことだ。
ホーナの姿はすぐには見つからなかった。
代わりに鍛冶場の前を通ると、老人がすでに炉へ風を送り込んでいるのが見えた。火はまだ低い。だが鉄串や古い鉈が、手の届くところへきちんと並べられていた。
「火、借ります」
私が声をかけると、老人は片目だけ上げた。
「勝手に持ってけ」
「ありがとうございます」
「礼は、村が立ってからにしろ」
短い言葉のあと、老人は鞴を踏み込んだ。赤い火が一段だけ強くなる。その色が、妙に心強かった。
広場へ戻ると、ようやくホーナを見つけた。子どもたちを納屋へ追い込みながら、顔だけは強張っている。私に気づいた瞬間、その目が揺れた。
「なんで戻ってきたの」
責めるような言い方だったが、本気で怒っているのではない。怒らなければ不安を隠せないだけだとわかる。
「音が聞こえたので」
「そんな理由で戻る人、普通いない」
「でしょうね」
私は苦笑した。
「子どもたち、何人です」
「今いるのは七人。あと二人が、川のほうの家から戻ってない」
心臓が一段沈む。川沿いは裏手に近い。
「名前は」
「パタと、ロト」
覚えがあった。七響琴の音にいちばん近寄ってきた小さな双子だ。川辺の石をいつも並べ替えて遊んでいた。
「家の裏手に抜ける細道を知ってるはずです。誰か一人、呼び戻しに行ける子は」
「大きい子なら」
「二人じゃなく一人で。もう一人は名前を呼び続ける役を」
言いながら、私は自分の中で何かが整っていくのを感じていた。剣で押し通せない時、人の配置と声の渡し方を考える。かつて仲間と戦っていた頃、私はたぶんこういう役回りを一番多くしていたのだ。
英雄になる器ではない、と自分を納得させるために長いこと忘れたふりをしていただけで。
「リュード」
ホーナが、初めていつもの軽さを捨てた声で名を呼ぶ。
「……死なないでよ」
私は答えに一拍使った。
「それは、お互いに」
言葉を返した時、喉が少しだけ掠れた。熱がまだ消えていない証拠だ。ホーナはそれに気づかなかったのか、気づいていても何も言わなかった。ただ強く頷いて、子どもたちのほうへ走っていった。
やがて、最初の唸り声が柵の向こうから届く。
犬より低く、猪より長い。山犬だ。しかも一頭ではない。木々の間で枝が折れ、土が掻かれる音が、近づいたり離れたりしながら村の裏手を舐めるように動いていく。
見張りの鍋打ちが、今度は一定の間隔で三度鳴る。
裏だ。
私は広場の真ん中へ立った。ここからなら、井戸にも畜舎にも納屋にも声が届く。七響琴は背にある。使えば、もっと遠くまで声を飛ばせるだろう。だが今、魔力を流すのは危うい。ほんの少しでも熱が増せば、足場ごと失う。
だから私は、素の声で叫んだ。
「裏手へ近づきすぎるな!溝を越えてきたやつだけ狙ってください!子どもは広場から出すな!」
最初の山犬が柵へぶつかった時、木が嫌な悲鳴を上げた。
女たちが水を流し込んだ溝へ、泥が跳ねる。獣はそこで一瞬足を取られ、柵の隙間から槍が突き出た。短い悲鳴。だが止まらない。別の影が右から回る。
私は走り、畜舎裏の角へ回った。若い衆が二人、狭い通路で獣と睨み合っている。ひとりは足がすくみ、もうひとりは槍を前へ突き出したまま後ろへ下がれなくなっていた。
「退くな、半歩だけ左!」
反射で声が出る。若い衆が言われるまま動いた瞬間、山犬の身体が通路の杭へぶつかり、わずかに斜めになった。その隙へ後ろの男の鉈が入る。浅いが十分だ。獣は悲鳴を上げて溝へ転げ落ちた。
私はほっとする間もなく次の場所へ向かった。
戦っているつもりはない。だが、声を渡し、目の前の動きを繋ぐだけで、身体の奥が熱くなる。呼吸は荒く、胸は上下し、喉の裏で火種がぱちぱちと弾けていた。声を張るたび、高さが少しずつ不安定になるのが自分でもわかる。
こんな時に。
私は唇を噛んだ。
納屋の前では、子どもたちが泣くのを堪えながら身を寄せ合っている。ホーナが双子の片方を見つけ出し、もう一人を呼びに出た子も戻ってきたところだった。広場の端で鍛冶場の老人が火を移した松明を配っている。井戸端では年配の女たちが、傷を負った男の腕を布で縛り上げていた。誰もが自分の役を思い出し始めている。
それでも、数が多い。
森の縁で赤く光る目が、三つ、四つ、また一つと増える。その向こうで、もっと低い唸りが底を這う。大きいのがいる。最初の足跡に混じっていた、あの重いものだ。
見張りの男が、柵の上から怒鳴った。
「来るぞ!でかいのが来る!」
次の瞬間、裏手の柵が大きく軋んだ。
普通の山犬ではない。肩の高さが人の腰ほどもある影が、泥を跳ね上げながら突っ込んできたのだ。灰褐色ではなく、ほとんど黒に近い毛並み。片方の耳が裂け、牙の一本がむき出しに欠けている。長く生き延び、何度も人里の匂いを覚えた獣だと一目でわかった。
槍が二本、突き出る。
一本は弾かれ、もう一本は浅く刺さっただけで折れた。
柵が揺れる。子どもが叫ぶ。
私は無意識に剣の柄を握っていた。
いけるかもしれない、という考えが一瞬だけ頭を掠める。踏み込めば。喉の熱を無視して、一撃に全部を乗せれば。けれど、その先に何が来るかを、私は知っている。今ここで私が崩れれば、村人たちは獣と、得体の知れない私の変調とを同時に見ることになる。
それは助けではない。
――そのはずだった。
だが折れた槍を握ったまま尻餅をついた若い衆の頭上へ、獣の爪先が振り下ろされる。その向こうには、逃げ遅れた小さな影が二つ。避ける間はない。松明も、声も、もう間に合わない。
迷っている暇が、消えた。
抜く。
考えるより先に、身体がそう決めていた。鞘鳴りが一つ。冷たい重みが手の中で確かな線に変わった瞬間、喉の奥で何かがぐわりと沸き立つ感触があった。まずい、と頭のどこかが警告する。だが今は、それに従っている余裕はない。
俺は地を蹴った。
一歩目で溝の泥を踏み、二歩目で獣の視界の端へ回り込む。重い図体がこちらへ向き直るより先に、間合いへ入る。狙うのは肉じゃない。勢いだ。踏み込みざま、剣先で前足の腱を薄く撫でる。
悲鳴。巨体が横へ流れ、子どもたちの頭上を外れて地面へ叩きつけられた。
止まるな。
俺はそのまま踏み込みを継ぎ、二の太刀を返す。骨に当たる嫌な感触。獣が牙を剥いて振り向くが、遅い。三の太刀で、首筋を浅く裂く。血が噴き、黒い巨体が大きくよろめいた。
喉が熱い。指先が痺れる。視界の端で、松明の炎の輪郭が滲んで二重に見えた。
――ここまでだ。
もう一太刀続ければ、決着はつく。だが同じだけ、俺の身体もまた決着してしまう。喉の奥で、境目が軋む音を、俺ははっきり聞いた。
私は剣を引いた。
踏み込みを止めた瞬間、視界が一段狭くなる。呼吸が喉に絡み、声を出そうとした瞬間、掠れて言葉にならなかった。それでも、獣はすでに大きく体勢を崩している。あとひと押しで、誰の一撃でも十分に届くはずだった。
「今だ!」
誰かが叫ぶ。
だが槍は間に合わない。傷を負った大きい個体が、それでも柵ごと跳ねるように身を起こした、その時だった。
森の縁から、鋭い一条の影が飛ぶ。
矢だ。
火に照らされた横顔のすぐ下、獣の目と耳のあいだへ深々と突き立つ。黒い巨体がぐらりと傾き、柵へ半身を預けるようにして止まった。誰もが一瞬、何が起きたかわからず動きを止める。
次の矢が、喉へ入る。
獣は短く、ひどく人間じみた呻きを漏らし、そのまま泥へ崩れた。
剣についた血を払う手が、まだ小さく震えている。私は鞘へ刃を収めながら、自分がどこまで踏み込んでしまったのかを、少し遅れて実感していた。
沈黙は、ほんの一拍だった。
次の瞬間、村じゅうの視線が同じ方向を向く。森の暗がりと、柵の上の隙間、そのさらに向こう。だが、そこに立っていたはずの射手は、もう影しか残していなかった。
それでも私は見た。
高い木立のあいだ、白い髪が一瞬だけ火を拾い、すぐに闇へ溶けるのを。
山の人だ。
老英雄は、帰れと言いながら、それでも来た。
胸の奥で、何かが強く打った。救われたのは村だけではない。私が見たかったもの――口伝の向こうにある現在の行為が、たった今、目の前で形になったからだ。
けれど安堵している暇はない。黒い獣は倒れたが、山犬の群れはまだ周囲を回っている。私は震える喉を押さえ込み、もう一度声を張った。
「今のうちに柵を支えて!追うな!溝の外へ出るな!」
今度の声は、さらに高かった。
何人かがはっとした顔を向ける。だが見張りの男が先に怒鳴り、皆の意識を柵へ戻した。助かった、と思う余裕すらなかった。喉の奥の熱は限界へ近い。私は唇を閉ざし、それ以上の指示を手振りで補った。
長いようで短い攻防のあと、山犬たちは次第に距離を取り始めた。大きい個体を失った群れの動きは、目に見えて鈍る。火と泥と人の気配を嫌い、やがて枝を鳴らしながら闇へ退いていった。
最後の唸り声が森の奥へ吸われて消えた時、私はようやくその場へ膝をついた。
息が続かない。
左腕の傷が疼く。
それ以上に、身体の輪郭そのものが、内側から薄くほどけかけている感覚があった。まずい。ここで座り込むのは危険だとわかっているのに、脚がすぐには言うことを聞かなかった。
「リュード!」
ホーナの声がして、私は反射的に顔を上げた。その拍子に喉がきゅっと締まり、出かけた返事が妙に高く掠れる。私は慌てて咳払いで潰した。
「大丈夫」
自分でも怪しい声だった。
ホーナは何か言いかけて、だが周囲の目を気にしたのか、そこでは深く追及しなかった。代わりに、水の入った椀を押しつけてくる。私は礼も言わずに受け取り、冷たい水で喉を鎮めた。
村人たちは、倒れた獣と、遠ざかった森と、壊れかけた柵とを順に見比べている。誰もすぐには声を出さない。今しがた何に助けられたのか、皆が言葉にし損ねているのだ。
見張りの男が、ゆっくり森を見たまま呟く。
「……やっぱり、まだいたか」
その一言で、村の空気が変わった。
畏れと、安堵と、長いこと口にしなかった名前のない感情が、同時に息を吹き返すのがわかった。
私は椀を握ったまま、森の暗がりを見つめた。そこにはもう何もいない。ただ、夜の入口のような濃い影が、木々のあいだへ沈んでいるだけだ。
それでも、あの二本の矢が残したものは大きかった。
老英雄はまだ終わっていない。
そして村もまた、あの人をただ昔話の中へ追いやりきれていない。
歌にするなら、ここから先だ。
私はそう思いながら、ようやく立ち上がった。足元の泥は冷たく、火に炙られた柵はまだ軋み、空には夜の青がじわじわと満ちてくる。村は助かった。だが、物語はまだほどけたままだ。
そのほどけた糸を結び直す役が、今夜の私には残っている気がした。




