第六話 敗者の言い分
それからしばらく、私は朝ごとに岩棚へ通った。
山の冷え方も、その頃には少し変わっていた。頬を刺すようだった朝夕の寒気がわずかにゆるみ、陽の差す時間が長くなる。沢水は相変わらず骨へ染みるほど冷たいが、岩棚の石肌には昼のあいだだけ薄いぬくもりが残るようになった。寒い土地なりに、季節がひとつ先へ進んだのだとわかる。
毎回、歓迎されたわけではない。むしろ、半分以上は無視された。小屋の前へ立っても返事がない日もあれば、姿は見えているのに「今日は帰れ」の一言だけで終わる日もあった。けれど、完全に追い払われたわけでもない。薪を運ぶ手伝いくらいは許される時もあり、沢で水を汲む背を黙って追っているうちに、男――山の人とでも呼ぶしかないあの人――の暮らしの癖が、少しずつわかってきた。
朝のうちは弓を手入れする。
昼が近づけば、薬草を刻むか、獣皮を干す。
風が強い日は、岩棚の縁へ出て、谷の下をじっと眺める。
どの動きにも無駄は少ない。だが、そのぶん、無駄のなさで誤魔化しきれない衰えもはっきり見えた。左脚は朝ほど重い。指の強張りは冷えると増す。長く立ちっぱなしでいると、肩が呼吸に合わせてわずかに落ちる。技は残っているのに、身体の器だけが少しずつそれに追いつけなくなっている――そんな印象だった。
私は、そういうところをじろじろ見るまいと気をつけていた。見ていると悟られれば、たぶん二度と岩棚へ上げてもらえない。けれど歌を探す身にとって、人の衰えや黙り方ほど、物語の輪郭をよく語るものもない。だからこそ、見ないふりをしながら見てしまう。
その日の空は、朝から薄く曇っていた。雲は高く、山の稜線に沿って細く裂けている。風は冷たいのに、谷底の沢音は妙に柔らかく聞こえた。私は岩棚の端で乾ききった薪を束ねながら、男が弓の弦を張り替えるのを横目で見ていた。
古い弦を外し、新しい撚り糸へ替えていく指先は、震えているようでいて、肝心なところでは決して揺れない。結び目を締める瞬間だけ、若い頃の体へ戻ったみたいな鋭さがあった。
「弓のほうが、お好きなんですか」
何でもない調子を装ってそう訊くと、男は顔を上げもせずに答えた。
「剣より静かだ」
「静かなほうが、山向きだと」
「山向きかどうかは知らん。獣は、こちらの事情に合わせてくれん」
答えは素っ気ないが、今日はまだ追い返されていない。これなら少しは踏み込めるかもしれない、と思った自分を、すぐに諫める。欲を出すと失敗するのは、相手が村人でも、この男でも同じだ。
それでも、私は口を開かずにいられなかった。
「村の人たちが、あなたのことを話す時だけ、声の出し方が変わります」
弦を引く手が止まる。
「怖がっているのでも、ただ敬っているのでもない。触れたいのに、触れ方がわからない顔をする」
男はしばらく黙っていた。弓の片端を膝へ押し当てたまま、遠くの雲を見るような目になる。
「……お前は、人の顔ばかり見てるな」
「歌にするなら、そこがいちばん嘘をつきませんから」
「因果な商売だ」
吐き捨てるような言い方だった。けれど完全な拒絶ではなかったので、私はもう一歩だけ踏み込んだ。
「それでも皆、あなたに助けられたことは知っている」
「知ってる、だと」
男の声が、少しだけ低く沈んだ。
私は薪束を置き、手についた木屑を払った。谷を渡る風が、乾いた匂いを運んでいく。岩棚の片隅で干されている薬草の葉が、その風に擦れてかすかな音を立てた。草どうしが触れ合うその響きは、遠い昔の誰かの囁きみたいに弱かった。
「あなたがいなければ、ヴァーンは今の形で残っていなかった。そう思っています」
「思うのは勝手だ」
「勝手でも、事実は事実です」
「事実?」
そこで男は、ようやくまっすぐこちらを見た。
視線は鋭い。けれど怒りだけではない。もっと底の深い、古い傷がその奥で湿っている気がした。
「お前、何を見てそう言ってる」
「村です。傷跡です。山犬の群れです。井戸端の話も、鍛冶場の話も」
「それで全部わかったつもりか」
「全部はわかりません」
私は首を振った。
「だから、聞きに来ています」
その言葉で、空気が変わった。
風が一段冷たくなったように感じる。実際に冷えたのかもしれないし、ただそう思っただけかもしれない。だが男の肩の線が、先ほどまでより明らかに硬くなったのは確かだった。弓を持つ指が、わずかに食い込む。
「聞いて、何になる」
「歌になります」
「歌にしたところで、腹は膨れん」
「膨れなくても、残ります」
その瞬間、男は笑った。
笑った、といっても愉快そうなものではない。乾いた石がひび割れる時のような、短く荒い息だった。
「残る、だと」
彼は弓を脇へ置いた。ゆっくり立ち上がる。立ち上がるだけで一瞬、左脚に重みが集まるのが見えた。だが次の瞬間には、その揺れは消える。怒りが痛みを押し退けたのだと、こちらにまでわかるほどだった。
「残してどうする。誰が読めば気が済む。村の連中か。王都の暇人か。勇者譚を肴に酒を飲む連中か」
声が大きくなったわけではない。むしろ低いままだった。だが低いぶんだけ、底に沈んだものがそのまま響く。
「聞いておきますけど、私は――」
「お前は、歌うんだろうが」
男は一歩、こちらへ寄った。
「誰かの一生を、節をつけて、聞きやすくして、人に渡す。そうして飯を食ってる」
言い返しかけた言葉が、喉で止まる。
否定しきれない。事実だからだ。
私は吟じ手だ。聞いたものを物語にし、歌にして渡す。そこに誇りはある。けれど今、彼の口から言われると、その営みが急に他人の人生へ手を入れる暴力にも思えてくる。
「……だからこそ、急いで決めつけたくないんです」
男の視線から逃げないようにしながら、私は続けた。
「王都で歌われる有名な話も、村で口伝えされる話も、どちらも本当の一部に過ぎない。だったら、あなたが何を見て、何を選んだのかを聞かなければ、歌う資格はありません」
「資格、ね」
男は鼻で笑った。
「そんなもの、あったら俺が知りたい」
そう言ってから、不意に彼は谷の向こうを見た。雲の切れ目から、ひどく薄い光が一筋だけ斜面へ落ちている。乾いた岩肌が鈍く白んで、その下を風が滑っていく。山のどこを見ているのか、私にはわからない。けれどその眼差しが、今ここではなく、もっと遠い、もっと古い場所を見ていることだけはわかった。
「あの夜、俺はヴァーンから見て、日が昇る方の開けたほうへ、延々と走った」
唐突に、彼は言った。
私は息を潜めた。促すこともしない。ただ、その続きを待つ。
「最近は少し開墾したんだったか、あのひらけた土地の先だ。今じゃ魔王城なんて大仰な名で呼ばれてる、あの古い遺跡だ。下じゃ、村が泣いてた。子どもも、女も、男も。あっちの空から変な唸りが落ちてきて、獣の声までおかしくしてた。皆、俺を見てた。行け、とも、助けてくれ、とも、口にしたわけじゃない。だがそういう目だった」
声はまだ低い。けれど先ほどまでの怒りとは違う、ひどく平らな調子になっている。長く触れていない傷へ、指先だけで触れるみたいな話し方だった。
「俺は上がった。斬れば終わると思ってた。今までそうしてきたからだ。人を襲う獣も、道を塞ぐ岩も、国境を越えてきた兵も、目の前にあるものは斬れば先へ進めた」
彼は拳を握り、すぐに開いた。節くれだった指が、白くこわばる。
「なのに、あの城だけは終わらなかった」
風が吹く。薬草の匂いが、急に強くなる。
「斬っても、止まらねえ。届いたと思っても、次の瞬間には違う塔の奥が唸る。獣は湧く。石壁は割れる。耳の奥まで変な音が入り込んで、頭の芯がふらついた。俺は――」
そこで男は、初めて言葉を詰まらせた。
喉が動く。飲み込んだものは、たぶん唾ではない。
「俺は、届かなかった」
その一言は、怒鳴り声よりも重かった。
「上まで行った。そこにいた。剣も振った。血も吐いた。だが終わらせられなかった。村へ戻った時に残っていたのは、助けた命じゃねえ。助けきれなかった数のほうだ」
私は何も言えなかった。
男は再びこちらを向く。その目には怒りがある。けれど怒りの向かう先は、私ではない。あの夜に取り残された自分自身へ、いまだ刃を向け続けている目だった。
「それを、英雄譚にでもする気か」
「私は――」
「村に獣が来るたび、仕留めに下りた。そうしなきゃ、あの夜の続きがまた来る気がしたからだ。来るたび斬って、来るたび射て、それで何だ。年を取って、脚は腐りかけ、指は痺れ、息は短くなった。そんなものを、守っただの残しただのと、勝手に綺麗にするな」
最後の言葉だけ、抑えきれずに鋭くなった。
私はそこでようやく、彼が怒っている本当の理由を少しだけ掴んだ気がした。
この人は、敗北そのものよりも、その敗北を他人の都合のいい形へ整えられることに耐えられないのだ。
王都の勇者譚のように。
村人たちの口伝のように。
そして、おそらく私の歌もまた、その危険をはらんでいる。
私は慎重に息を吸った。ここで正しさを説けば、完全に終わる。だから正しさの形をした言葉を飲み込み、代わりに自分の恥のほうを差し出すことにした。
「……あなたの気持ちを、わかったつもりはありません」
男の表情は変わらない。
「でも、私はたぶん、聞かなければ勝手に歌ってしまう人間です」
自分で言って、ひどく嫌な言い方だと思った。だが嘘ではない。
「だからこそ、聞きたい。間違えたくないんです」
「間違えるさ」
即答だった。
「お前みたいな若いのは、だいたい間違える。俺も間違えた」
私は唇を噛みそうになるのを堪えた。若い、と言われて腹が立たなかったわけではない。けれどそれ以上に、そこに含まれた諦めが胸に残る。
「……では、どうすれば」
「帰れ」
短い一言だった。
私は目を瞬いた。怒鳴られたわけではない。けれどそれ以上の余地を削ぎ落とす響きだった。
「山を下りろ。村にも戻るな。歌が欲しいなら、別の土地へ行け」
「でも」
「聞こえなかったか」
男の声が、今度こそ冷えた。
「俺は魔王を倒せなかった。魔王城の唸りを止められなかった。村を守りきれなかった。今だって、来る獣を間引いてるだけだ。そんな敗者をほじくり返して何になる」
敗者。
その語だけが、岩棚の空気から切り離されて、ひどくはっきり耳へ届いた。
同時に、王都で幾度も耳にした古い勇者譚の節が、頭の中で不意にひとつへ繋がった。ヴァーンから日の昇るほうへ延々と行った先の古代遺跡。魔王城。魔王へ至る最後の踏み込みで、生きて戻ったのに勝者の歌から半歩零れ落ちた勇者の影。まさか、目の前の山の人が、その戦いをくぐり抜けた当人だというのか。私は息を呑んだまま、返す言葉どころか、瞬き一つできなかった。
私は返す言葉を失う。
老英雄は踵を返し、小屋のほうへ歩き出した。左脚が引きずるほどではない。だが速くもない。背中は広いのに、どこか痩せて見えた。あの背へ、これ以上何かを投げつけることはできない。
それでも、足はすぐには動かなかった。
岩棚の端から見下ろす谷は、相変わらず深い。風は細く鳴り、沢は白く走り、遠くの木々の上を薄い雲の影が渡っていく。こんなにも広い景色の中で、「敗者」という言葉だけが、不釣り合いなほど狭く、重かった。
「帰れ」
小屋の前で、老英雄はもう一度だけ言った。
今度は振り返らない。
私はようやく、頭を下げた。礼ではない。応じる以外にやりようがなかっただけだ。
岩棚を下りる時、指先へ力が入らなかった。山道は来る時と同じはずなのに、足場の石がやけに不安定に感じる。途中で一度、左腕の傷がずきりと痛み、つられて喉の奥が熱くなった。私は岩へ手をつき、しばらくその場で息を殺した。
負傷と苛立ちと悔しさは、ろくな組み合わせではない。熱がもう一段上がれば、また声や手首から崩れ始めるかもしれない。こんな山腹で、あの人に「だから足手まといだ」と言われるような真似だけはごめんだった。
私は沢水で顔を洗い、冷たさで無理やり頭を鎮めた。流れる水は容赦なく冷たく、額から頬へ落ちた雫が、そのまま首筋まで走る。風が吹くと、それだけで皮膚が粟立った。
下りきった頃には、陽はもう傾き始めていた。山裾の空気は岩棚より温いはずなのに、胸の中だけがひどく冷えている。
帰れ、と言われた。
しかも村へも戻るな、と。
あれが本気なのか、試しているのか、それともただ触れてほしくないだけなのか、私にはまだわからない。だが一つだけ確かなのは、老英雄自身が自分の過去を「守った話」ではなく「届かなかった話」として抱え続けていることだった。
それを知らずに歌えば、たしかに間違える。
山裾の岩陰へ戻り、私は火を起こしかけて手を止めた。乾いた枝を組み、火打ち石を持ち上げたところで、ふと、遠くから複数の鳥が一斉に飛び立つ気配がした。山の上ではない。もっと下、村へ続くほう角からだ。
続いて、風に混じって、かすかな音が届く。
金気。
鍋か、鐘か、何かを強く打ち鳴らす音だった。
私は顔を上げた。
ヴァーンだ。
胸の中の冷えが、一瞬で別のものへ変わる。火も起こさず、私は荷を掴んだ。帰るなと言われたばかりだ。けれど、あの音が村から来ているのなら、足を向けないわけにはいかない。
暮れかけた山の色は、あっという間に濃くなる。私は沢筋から外れ、村へ戻る最短の斜面を選んで駆け下りた。左腕が痛む。喉も熱い。それでも足は止まらない。
山の泣き声ではない。
今聞こえるのは、人が危険を知らせるために鳴らす、生きた音だ。
そして、それは間違いなく、歌になる前の叫びだった。




