第五話 岩棚の男
その夜、私は山裾の岩陰で火を小さくして過ごした。
左腕の傷は浅いはずだったが、熱を持つのは傷口よりむしろ身体の内側だった。山犬の牙を受け、あの場で無理に踏み込んだ反動が、遅れて骨の節々へ染み出してくる。喉の位置はまだ少し高い。指先も、焚き火にかざすと見慣れたより細く見えた。
完全に崩れる前に下がれたのは、運が良かったのだろう。
私は外套をきつく合わせ、背を丸めた。今さら恥じる相手もいない。だがこの姿で、明日の朝いきなりあの岩棚の下へ立つのは避けたかった。助けられたうえに、山の主らしき相手へ弱みまで晒すのは、どうにも据わりが悪い。
眠りは浅かった。風が鳴るたび、谷のどこかで誰かがこちらを見下ろしている気がした。夜半に一度、遠くで獣の遠吠えが響き、その後しばらく山は妙に静かだった。まるで、こちらが起きているかどうかを確かめてから、次の音を出す順番を決めているみたいだった。
空が白み始める頃には、熱はひとまず引いていた。声も、まだ少し掠れるが、山道で誰かに聞かれて困るほどではない。私は傷口を洗い直し、昨夜の場所を頭の中で辿ってから、沢沿いの道を引き返し始めた。
夜露を吸った草は足首へ冷たくまとわりつき、岩の表面には薄い苔が光っていた。昨日は必死に駆け下りただけの斜面も、朝の光の下で見ると細かな段差や人の踏み癖が見える。誰かが何年もかけて、自分だけの出入り道へ削ってきたのだろう。山に隠れるとは、ただ姿を消すことではない。山そのものへ、自分の生き方を染み込ませることなのかもしれなかった。
* * *
昨日、矢が飛んできた岩壁の下に着いた時、朝の光はまだ谷底まで落ちきっていなかった。
沢音は同じように流れている。風の抜ける音も、昨夜と変わらない。けれど、気配は違った。誰かがこちらを見ているという確信だけが、最初からあった。
「昨夜は助かりました」
岩棚へ向かって声をかける。
「礼だけでも言わせてください」
返事はない。
私は少し待ち、それから慎重に斜面を登った。昨日見えた木桶と薬草のあたりを目印に、岩の出っ張りへ手をかける。人一人がようやく通れる幅の足場が続き、その先で急に視界が開けた。
岩棚の上には、思っていたより広い平地があった。
粗末な小屋が一つ。脇に積まれた薪。干した薬草の束。雨除けの布の下に、毛皮と干し肉。小さな畑めいた土の区画に、痩せた葉物が並んでいる。水を逃がすための浅い溝まできちんと掘られ、石は歩きやすい向きに据え直されていた。人がひっそり生きるために必要なものが、過不足なくそこにあった。豪勢さはどこにもないのに、放り出した暮らしではない。長く居るつもりで整えられた場所だと、一目でわかる。
そして、その真ん中に、一人の男がいた。
最初に目へ入ったのは、白かった髪だ。肩のあたりで無造作に切り揃えられ、日に灼けた首筋へばらばらに落ちている。背は高いが、まっすぐには立っていない。左脚をかばうような癖があり、片方の肩はわずかに下がっていた。着古した上衣の袖から覗く前腕は痩せている。だが薪を割る斧の軌道だけは、異様なほど無駄がなかった。
斧が下りる。
乾いた音とともに、薪が真二つに割れた。
男はそこで初めて、こちらを見た。
思っていたよりも、ずっと老いていた。
村人たちの口から断片だけを集めているうちは、どこかで勝手に、昔日のままの英雄を想像していたのかもしれない。山の中で獣を射落とし、今も魔物を退ける剣士。傷はあっても、なお峻烈な人間を。
だが目の前の男は、どう見ても、山で独り生き延びてきた年寄りだった。
頬は痩け、片目の下には古い裂傷が白く走っている。呼吸は静かだが深くはない。斧をもう一度振り上げる前に、ほんのわずか、肩の力を抜いて息を継ぐのがわかった。その一つひとつが、かつてどれほど強かったとしても、もう無尽蔵には動けない身体だと告げていた。
それでも、視線だけは鋭い。
「……勝手に上がってきたな」
掠れた声だった。低いが、石を擦るようなざらつきがある。
「昨日、助けていただいたので」
「礼なら聞いた」
男はそれだけ言って、割れた薪を脇へ寄せた。動きは遅くない。だが近くで見ると、左手の指がわずかに強張っている。斧を置いたあと、一度握り開きしてからでないと、次の動きへ移れないらしい。
その手で、昨日あれだけの射を放ったのか。
私は言葉を探した。
「山犬の群れも、岩の傷も見ました。村の人たちが話していた剣士は、あなたですか」
男の眉が、わずかに動いた。
「村の連中は、まだそんな昔話をしてるのか」
「昔話だけではありません。今も、あなたが山を守っている」
「守っちゃいねえよ」
返ってきたのは、あまりにも素っ気ない否定だった。
男は小屋の壁に立てかけてあった弓を手に取った。長弓ではない。山で取り回しのいい、実用一点張りの弓だ。指で弦を弾いて確かめ、それから、私を見もせずに矢筒の口を改める。矢羽は擦り切れているが、一本一本よく手入れされていた。
「昨日の山犬は、たまたま射程に入っただけだ。お前も、たまたまそこにいた」
「それでも、見捨てはしなかった」
「見殺しにした死体が、岩の下に転がってると面倒なんだよ」
言い草はひどい。だが、そのひどさが却って少しだけ本気に見えた。人に礼を言われ慣れていないのかもしれないし、礼を受け取る筋合いがないと思い込んでいるのかもしれない。
男は木桶を持ち上げ、沢の方へ向かおうとした。私が半歩ずれて道を空ける。すれ違いざま、その足運びが思った以上に危ういことに気づいた。左脚だけではない。岩棚の端へ重心をかける時、ほんの一瞬、身体全体が揺れるのだ。
私は反射的に口を開いた。
「持ちます」
男は振り向きもしなかった。
「いらん」
短く切り捨てられる。それでも次の一歩で、木桶の縁が岩へ軽く当たった。音は小さかったが、老いはそういうところで正直だった。
私は黙って後をついていった。
沢から水を汲み上げるだけで、男は二度息を継いだ。鍛えのない年寄りの動きではない。だが、全盛から遠いことを隠しようもない。胸の奥で、何かがずしりと沈んだ。
この人が、村の口伝の正体なのか。
山から現れて、魔物を退け、名も告げず消えた剣士。
その像と、目の前で水桶を持ち直す老人の姿が、うまく重ならない。
けれど昨夜の矢は本物だった。今朝、薪を割る一撃も。衰えきっただけの老人なら、あの二つは両立しない。
私は沢べりでしゃがみ込み、流れに指先を浸した。冷たさが気持ちよかった。傷口を洗い流していると、頭上から低い声が降ってきた。
「その腕」
顔を上げると、男がこちらを見ていた。
「山犬か」
「ええ。浅いです」
「浅手を浅手のまま済ませる顔じゃねえな」
思わず、息が止まる。
男の視線は、傷口そのものではなく、私の喉と手首のあたりを順に掠めていた。昨日の変調に気づいていたのかもしれない。私はとっさに袖を引き、何でもない顔を作る。
「少し、疲れているだけです」
「……そうかよ」
それ以上、男は追及しなかった。
だが完全に受け流したわけでもないらしい。小屋へ戻ると、干してあった薬草の束から二、三本抜き取り、無造作にこちらへ放ってよこす。
「煮ろ。腫れは引く」
受け取った草から、青い匂いが立った。
「ありがとうございます」
「礼はもういい」
男は苛立ったように言い、弓を壁へ立てかけた。次いで、小屋の前の平たい石へ腰を下ろす。座るというより、力を抜いた途端にそこで止まったような座り方だった。目を閉じた横顔には、疲労がありありと浮いている。
私はしばらく黙っていた。
聞きたいことは山ほどある。名前。村を守った夜のこと。岩肌の傷。山の唄。なぜ今もここにいるのか。
けれど、それらを一息に浴びせれば、この男はたぶん口を閉ざす。村でそうしてきたように、相手がどこまで話せるかを見なければならない。
私は、いちばん浅いところから手を入れることにした。
「ここで、ずっと暮らしているんですか」
「……さあな」
「村へは下りない」
「用があれば下りる」
「用、とは」
「獣が増えた時だ」
その一言だけで、十分だった。
やはり、この人が。
私は胸の内で確信を固める。男はその沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ目を開けた。
「吟じ手」
初めて、私の立場を名で呼んだ。
「お前、昨日の場所へ戻ってきた時点で、少しは賢いと思ったんだがな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「馬鹿だって言ってる」
そう言いながらも、男の声には、かすかな棘しかなかった。
完全な拒絶ではない。
それだけで、昨日よりずっと前へ進んでいる。
私は岩棚の上の空を見上げた。ここでは風の音が、下より近い。耳を澄ませば、たしかに旋律の端のようなものが混じっている気がする。
男は、私の視線の先を追わなかった。
ただ、低く言う。
「夕方までには下りろ。ここいらの獣は、暗くなると洒落にならん」
「また来ても?」
少し間があった。
男は目を閉じたまま、答える。
「足手まといにならんならな」
私は思わず笑いそうになった。それが許可に近いことくらい、村で人の機嫌を読んできた身にはわかる。
「わかりました」
男はそれきり黙った。
それ以上の会話は続かなかったが、不思議と追い返された気はしなかった。私は薬草を懐へしまい、岩棚の景色と、小屋の位置と、男の座る石の形を目に焼きつけた。
山の上でようやく見つけたのは、長年静かに村を支え続けた守護者だった。
矢はなお鋭い。だが息は長く続かず、脚には癖があり、指は強張る。村人たちが覚えている「山の人」は、たしかにここにいる。けれど、それは物語の中で時を止めた剣士ではなく、今なお何かの衝動にき動かされる英傑。
その事実のほうが、私には、よほど歌になる気がした。




