第四話 山に残るもの
見張りの男に教わった目印は、思っていたよりも早く役に立たなくなった。
沢に沿って登れ、という言葉までは確かだったが、獣道よりも細い踏み跡は、少し進めばすぐ岩と藪に呑まれて消える。戻ろうと思えば戻れる。だが、村を出るときに背へ受けた視線を思い出すたび、それだけはしたくなかった。私は沢音を右手に聞きながら、濡れた岩へ足を置く順を慎重に選んでいった。
朝のうちは、まだ山も人を拒んではいなかった。木の根は確かに地面を掴んでおり、細い枝を払えば、その先にわずかな通り道が現れる。だが標高が上がるにつれ、風景は少しずつ人の手の届く形をやめていった。岩肌は剥き出しになり、木々の背は低く捩れ、風は谷の底から吹き上がってくる。下から見上げた時には一つの山並みに過ぎなかったものが、中へ入るとまるで幾重にも折り重なった迷路だった。
途中、湿った土の上に、見慣れたものを見つけた。
山犬の足跡だ。
ヴァーンの畜舎に入り込んだ個体よりも、ひと回りは大きい。しかも一頭分ではない。古いものと新しいものが折り重なり、同じ獣道を何度も行き来しているらしいことがわかる。村の男が言っていたとおり、この山では「一度来た獣は戻る」のだろう。
私はしゃがみ込み、指先で土の縁を撫でた。乾ききっていない。そう遠くない時間に通った跡だった。
足跡の周りには、踏み荒らされた下草が小さく円を描いていた。獣同士で揉み合ったのか、あるいはここで何かを待っていたのか。鼻を寄せると、湿った獣臭の奥に、鉄錆びに似た薄い匂いが混じっている。血だ。新しくはないが、昨夜の雨露だけで消えるほど古くもない。山そのものが肉を喰っているような、生ぬるい匂いだった。
息を潜めて立ち上がり、腰の剣へ手を添える。抜ける。だが、できれば抜きたくはなかった。昨日までの村での暮らしでもそうだったが、山へ入ってからはいっそう、身体の内側にある熱を無駄に起こしたくない。踏み込み、魔力を通し、息を深く繋げたその先で、声や骨の線がずれる感覚を、この場で迎えるわけにはいかなかった。
沢を離れ、足跡の向きに沿って斜面を横切る。やがて木立の向こうに、大きな岩壁が現れた。
思わず、足を止める。
岩肌に、巨大な傷が走っていた。
近づいて見れば、それは風雨で削れた亀裂ではない。斜めに、深く、何本も刻まれた痕だ。縁は丸く摩耗していたが、もとはもっと鋭く抉れていたのだとわかる。剣でつけたにしては大きすぎる。爪で裂いたにしては、線があまりに真っ直ぐすぎた。
村で聞いた話がよみがえる。剣で切りつけたにしちゃあ、馬鹿でかい傷だった。
私はそっと岩へ触れた。冷たさの奥に、妙なざらつきが残っている。魔導石の焼け跡を指でなぞった時に似た感触だったが、もっと古く、もっと乾いていた。
岩の割れ目には、風に吹き寄せられた枯葉が薄く溜まっている。その下へ指先を差し込むと、白く風化した何かの欠片が転がり出た。骨かと思って拾い上げたが、そうではなかった。焼けた木片だ。人が火を焚いた跡かもしれないし、雷に打たれた名残かもしれない。だが、こんな岩陰で自然に木片だけが残るだろうか、と考えると、急に景色の見え方が変わる。ここはただの山肌ではない。誰かが立ち、何かをぶつけ、何かを燃やした場所なのだ。
その時、頭上で羽音が弾けた。
反射的に身を低くする。黒い鳥が二羽、岩棚から飛び立ち、ぎゃあと耳障りな声をあげて谷の向こうへ消えていった。胸の奥で跳ねた鼓動が、遅れて熱に変わる。私は岩陰に背を預け、呼吸を浅く整えた。
大丈夫だ。まだ、ただの動悸に過ぎない。
唇を閉ざしたまま数度、息を吐く。喉を撫でる熱が引くまで待ってから、もう一度周囲へ目を向けた。
すると、少し離れた藪の根元に、不自然に切られた枝が積まれているのに気づいた。
獣が折ったのではない。刃物で払った切り口だ。しかも古いものばかりではなかった。白い木肌が、まだ新しい。
誰かが、ここを通っている。
それが山菜採りや狩人でないことは、ここまでの道を思えば明らかだった。ヴァーンの村人は、山へ入ること自体を忌んでいた。ならば残る答えは限られる。
あの剣士は、今もこの近くにいるのかもしれない。
そう思った途端、山が一段深くなったような気がした。恐れより先に、胸の奥で何かが高鳴る。まだ歌になっていない話へ、手が届きかけている時の感覚だった。
* * *
昼を過ぎた頃から、空気は目に見えて変わった。
沢音は近いのに、鳥の声が減っている。代わりに、風が岩の隙間を抜ける時の、細く長い音が耳に残るようになった。昨夜ホーナの隣で聞いた、あの「山の唄」によく似ている。だが今こうして間近で聞くと、それは単なる風の偶然ではなく、谷の形そのものがどこか不自然に思えた。音が集まりすぎるのだ。まるで、誰かが狭い器へ息を吹き込んでいるみたいに。
足を止め、私は耳を澄ませた。
風。
沢。
枝葉の擦れる音。
その下に、もう一つ。
石を打ったような、ごく小さな響き。
私は反射的に身を翻し、脇の倒木へ滑り込んだ。
次の瞬間、さっきまで立っていた場所へ、灰褐色の影が飛び込んでくる。山犬だ。それも一頭ではなかった。横手の藪から、もう一つ。低く唸りながら、回り込むように位置を変えている。
しまった。
足跡を追ううち、逆に追わせていたのかもしれない。
正面の一頭が飛びかかる。私は倒木を蹴って跳ね上がり、牙の軌道を外した。着地と同時に二頭目の影が脇腹を狙う。浅い。だが避けきれず、外套の裾を裂かれた。
ここで長引かせるのが一番まずい。
そう判断した時には、すでに身体が前へ出ていた。低い姿勢から一歩、二歩。踏み込みの三歩目で、私ははっとする。深い。これ以上は、熱が来る。
それでも止まれず、一頭目の顎先を鞘で跳ね上げ、返す手でこめかみを打つ。骨に響いた感触。獣がよろめく。だが同時に、喉の奥まで熱いものが駆け上がってきた。指先の力の入り方が、一瞬だけ変わる。まずい。
私は追撃を諦め、身を捻って距離を取った。
二頭目がその隙を逃さず迫る。牙が閃く。咄嗟に左腕を差し出して角度を殺したが、布越しに鈍い痛みが走った。浅手だ。けれど、痛みはいつも、それだけでは終わらない。
熱と痛みが重なった瞬間、背筋が粟立つ。胸を内側から押し広げられるような、あの嫌な前触れ。
私は奥歯を噛んだ。
ここで変わるな。
そんな祈りが通じる相手ではないと、もうよく知っている。それでも、そう念じるより他にない。
山犬が再び飛ぶ。
次は、避けきれない。
――そのはずだった。
弦を弾くような乾いた音が一つ、谷へ弾けた。
飛びかかった山犬の身体が、空中で横へ流れる。何が起きたのかわからず目を見開いた次の瞬間、獣は岩へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。首の根元に、矢が深々と突き立っている。
残る一頭が怯んだところへ、今度は別の方向からもう一矢が飛んだ。正確に鼻先を裂かれた山犬は悲鳴をあげ、身を翻して藪へ逃げ込む。追う気配はない。ただ、しばらく向こうで枝の折れる音が続き、やがてそれも遠ざかっていった。
静かになった山中で、私だけが息を荒げていた。
助かった。
だが、その事実より先に、別のことが胸を打つ。
今の射は、村人の腕ではない。少なくとも、私がヴァーンで見た誰よりも、はるかに迷いがなかった。
私は痛む左腕を押さえながら、周囲へ目を走らせた。
「――誰か、いるんですか」
返事はない。
あるのは、沢音と、風の長い息だけだ。
ただ、視線だけは感じた。谷のどこか、高い場所から、こちらの一挙手一投足を測るような眼差し。
私は剣の柄から手を離し、代わりに空いた右手をゆっくり見える位置まで上げた。
「助けていただいたのなら、礼を」
そこまで言って、言葉を切る。
声が、少し高い。
自分でもわかるくらい、喉の位置がずれていた。やはり来ている。遅れて、左手首のあたりが細くなっているのに気づき、私は外套の袖を握り込んだ。幸い、誰も姿は見せない。
代わりに、岩壁の上から、小さく石が転がり落ちてきた。
私は反射的にそちらを見る。
岩棚の縁に、何かがあった。
粗末な木桶。乾かした薬草。獣皮。人が使っているとしか思えないものが、ほんの一瞬だけ見える。
次の瞬間には、風に揺れた枝葉がそれを隠した。
胸の奥で、確信が形になる。
過去の痕跡だけではない。現在の魔物被害も、山の唄も、そのどこかに、今を生きている誰かが繋がっている。
そして、その誰かは、たった今この場で、私を見逃した。
敵と判断するなら、山犬ごと始末していたはずだ。
ならば、まだ道はある。
私は左腕の傷へ布を巻きつけ、もう一度だけ岩棚を見上げた。
「……明日、もう一度来ます」
返事はない。
だが、拒絶もない。
それだけで、今は十分だった。
日が傾き始めている。今から無理に追えば、足場の悪い山で夜を迎えるだけだろう。私は助けられた場所を頭に刻み込み、山裾の岩陰までいったん下がって夜を明かし、夜明けとともにここへ戻るつもりで、沢の音を頼りに慎重に斜面を下り始めた。
下りながら何度か振り返ったが、岩棚はすぐに木立と影の奥へ溶けた。ほんの少し前まで、そこに人の暮らしが見えていたとは思えない。山は人の痕跡を隠すのがうまい。見つけたと思った次の瞬間には、最初から何もなかった顔をする。だからこそ、あの矢も、木桶も、薬草も、私の中でかえって重みを増していた。見間違いではないと確かめるために、私は指へ残る矢羽の音と、岩のざらつきと、左腕の痛みを何度も思い返しながら斜面を下った。
背後で、風がまた長く鳴る。
今度のそれは、ただの自然音というより、誰かがこちらの返答を保留した時の沈黙に近く聞こえた。
山は、まだ口を閉ざしたままだ。
けれど確かに、その向こう側に、人の気配がある。
それだけで、この山へ入った意味はあった。




