第三話 根付くつもりはないのに
もう少し、この村に留まることにした。
証言の断片は集まったが、まだ像を結ばない。何より、あの噂話をした男たちの態度――話したがらない父親、目を逸らす見張り――が引っかかっていた。土地に馴染めば、口も軽くなるかもしれない。そう考えて、私はしばらく手を動かすことにした。
畜舎の牧草を運べば、老爺に「若いのに力があるな」と笑われた。壊れかけた水汲みの魔道具――魔導石の目詰まりだった――を直してやると、女たちの間で妙な評判が立った。できるだけ少ない力で魔導石を撫でるように整えたつもりだったが、終わったあとには指先が熱を持ち、井戸端にしゃがんで息を整えねばならなかった。「あんた、そういう細かい仕事は男衆よりよっぽど向いてるね」と、笑いながら水桶を差し出してくれたのはホーナの母親――インネーだった。壊れた道具はそれ一つでは済まず、次は鍬の柄、その次は井戸の滑車と、頼まれ事が途切れなくなっていった。子どもたちに七響琴の音を聞かせてやれば、あっという間に懐かれ、川辺まで引っ張っていかれる羽目になった。手習いの合間、木の実の見分け方や、罠の仕掛け方まで教わることもあった。
滞在が長引くにつれ、村外れの空き家が、いつの間にか私にあてがわれていた。誰の持ち物でもなかったというその小屋は、掃除をすれば十分に住める程度には整っていた。
「旅の衆をいつまでも人様の家に居候させとくのも、な」
見張りの男はそう理由をつけたが、家を与えるということの意味くらい、私にもわかった。長く留まってほしいという、村なりの下心が、そこにはにじんでいた。
ホーナが夜ごと、その小屋を訪れるようになったのも、その頃からだった。誰に言われたわけでもなく、彼女は決まって日が落ちてからやってきて、夜明け前には自分の家へ戻っていく。表向きは誰も何も言わなかったが、村の狭さを思えば、気づかれていないはずもない。ただ、親の耳に直接届かせるほど、彼女も、私も無粋ではなかった。長居をして帰ったあとの静けさの中で、私はときおり喉の奥に残る熱を持て余した。人肌の近さは、どうもあの呪いに良くない。
山羊の出産に立ち会わされたこともあった。生まれたての仔山羊に名をつけろとせがまれ、とっさに口をついて出た名を、ホーナの弟のマニがひどく気に入ってくれた。刈り入れの手伝いに駆り出された日には、村総出の食事に呼ばれた。誰かにせがまれるまま、七響琴を鳴らして軽く一曲歌うと、酔った男たちが声を揃えて手拍子を打った。長くは弾かない。祝いの席で熱が上がりすぎれば、後が面倒だからだ。大した歌ではない、ただの余興だったが、それでも、誰の隣に座るかで密かな駆け引きが起きているらしいことにも気づいた。気づかないふりをしておいた。
鍛冶場の手伝いを申し出た日は、思いのほか歓迎された。腕力よりも、火加減を見る目を買われたらしい。鍛冶師の老人は無口だったが、仕事の合間にぽつりぽつりと昔話をした。若い頃、王都まで品を納めに上がったことがあり、そこで名高い「勇者」の得物を打つ職人の下について働いた、という誇らしげな話だった。あの大聖堂に祀られる一節――私が幾度となく歌ってきた、あの勇者譚に連なる話だ。村で集めている剣士の話とは関係ない、他愛のない思い出話だったが、私はその一つひとつを丁寧に聞いた。誰かの人生の断片を集めることは、結局のところ、本題を探すのと同じ作業だった。子どもたちには七響琴の弾き方を少しだけ教えてやったが、指の位置を合わせるだけで音が鳴る仕組みに、皆が目を輝かせていたのを覚えている。村の男たちからは武勇の断片が、女たちからは暮らしの綻びが、子どもたちからは今の村の癖がこぼれる。どこに座るかで、拾える歌は違った。
日を追うごとに、私を見る目つきが変わっていくのがわかった。最初の頃のよそよそしさは薄れ、すれ違いざまに軽口を叩かれることが増えた。畑の緑が少しずつ色を深め、朝晩の風に冷たさが混じり始めた頃には、村の誰もが私の顔と名前を知っていた。
暇を持て余した若い衆に木剣での手合わせをせがまれたのも、そんな頃だ。一本目、二本目は危なげなく取れた。だが三本目、息の合った連携で左右から同時に打ち込まれると、捌ききれずに一度体勢を崩し、辛うじて相打ちに持ち込むのがやっとだった。踏み込みきれば勝てた場面だった。だが、地面を強く踏みしめ、全身を一本の線みたいに繋いだ瞬間、喉元がぞわりと熱を持った。あそこで深追いしていたら、村人たちの目の前で何が起きたかわからない。剣一本で押し通す腕は、正直なところ、パーティーを組んでいた頃より鈍っている。その代わりに、周囲の気配を読む勘や、魔導石をわずかに操る小技は、独り旅を続けるうちにいくらか鋭くなった気がする。何でもそこそこにこなせるが、突き詰めた強さはどこにもない。そういう体になっていた。
そうして手を動かしながら話を聞いて回るうち、ひと月ほどが過ぎていた。
「あんた、本当にただの旅の衆かい」
水を汲みに来た年配の女が、からかうように言う。
「腕もいい、力仕事もこなす、子どもにも好かれる。うちの村に居着いてくれりゃ、ありがたいんだけどねぇ」
冗談めかした口調の奥に、わずかな本気が滲んでいた。私は曖昧に笑って、それ以上は答えなかった。井戸端でこうして声をかけてくるのは、大抵、年寄りか女たちだった。力仕事の腕より、話を途中で遮らず聞くことや、子どもの名を覚えていることのほうが、彼女たちには効くらしい。もし本当にこの村へ溶け込むつもりなら、その輪にもっと自然な形で入るやり方も、きっとあるのだろうと思った。
* * *
その視線に気づいたのは、そんな折の、ある朝のことだった。
井戸端の陰、腰の曲がった老婆が一人、じっとこちらを見ていた。値踏みするような、それでいて何かを確かめるような目だった。他の村人たちのように、微笑ましいものを見る目ではない。
私が会釈すると、老婆は小さく手招きをした。周りにいた女たちは、あからさまに口を挟まず、けれど耳だけはこちらへ向けている。男たちの前で閉じた話でも、井戸端では少し蓋が緩む。その感覚が、ようやく肌でわかり始めていた。
「あんた、山の人の話を聞いて回ってるんだろう」
声を落として、老婆は言った。
「セイ、と呼ばれてる。この村じゃ、あの人のことを知ってる数少ない生き残りさ」
心臓が跳ねた。ようやく、断片ではない何かに触れられる。
「教えていただけますか」
「教えるも何も……知ってることは、大して多くないよ。あたしがまだ小さい頃、山の麓まで食べ物を届けに行かされたことがある。顔なんぞ、とうに忘れちまったけどね」
セイは目を細め、遠くを見るような顔をした。
「ただ、覚えてることが一つだけある。あの人の周りだけ、やけに静かだった。鳥の声も、風の音さえも、遠慮してるみたいにね」
その言葉に、私は思わず息を止めた。ただの気配ではなく、静寂そのものが人の形をしていたような――そんな情景が浮かんだ。
「ただ」
その一言で、声の調子が変わった。
「本当に知りたいなら、聞くだけじゃ足りない。山に、行くしかないね」
* * *
「――おい、婆さん。またその話かい」
割って入ってきたのは、水汲みの女だった。笑っていた顔から、笑みが消えている。
「旅の人に、余計なことを吹き込むもんじゃないよ」
「余計、ねぇ」
セイは取り合わず、杖を突いて立ち上がった。
「あんたたちだって、本当は知りたいくせに」
その一言に、居合わせた誰もが押し黙った。誰かが気まずそうに視線を逸らし、別の誰かは聞かなかったふりで水桶を担ぎ直した。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……やっぱり、この人はただ通り過ぎるだけの人か」
落胆というほど強くはないが、確かに肩を落とすような響きだった。手合わせをした若い衆の一人は、気まずそうに目を逸らす。少し前まで、居着いてくれるかもしれないと本気で期待していた顔だった。畜舎の老爺までもが、渋い顔で頷いている。ひと月の間に積み重ねた何気ないやり取りの一つひとつが、急に違う意味を持ち始めたようだった。
「――すみません。私は、歌を探しているだけなので」
私がそう言うと、水汲みの女は寂しげに、けれどどこか納得したように頷いた。
「ま……そういう手合いだって、最初からわかってたけどね」
残念そうな響きの中に、責める色はなかった。むしろ、引き止めても仕方ないと、とうに諦めていたような口ぶりだった。ひと月も同じ屋根の下で暮らせば、情が湧かないわけがない。それでも誰も、無理に引き留めようとはしなかった。
* * *
その晩、私は荷物の傍らで、これまで集めた断片を頭の中で並べ直した。村に入った最初の頃より、今はずっと多くの声が手元にある。力仕事を手伝って拾えた話、囲炉裏端で女たちが零した話、子どもが無邪気に繰り返した言い回し。聞く相手が違えば、同じ出来事でも残り方が違う。それは旅の初めから知っていたつもりだったが、この村ではそれがひどく露骨だった。
証言の食い違い。若い男だったという者、白髪の老人だったという者、片腕だったという者、五体満足だったという者。岩肌に残る、剣によるものとは思えない爪痕。夜ごと響く、風にしては規則正しすぎる音。子どもたちが子守唄代わりに聞いて育つほど、日常に溶け込んでしまった異音。村人たちの、触れたがらない空気。そして、セイの「あの人の周りだけ静かだった」という一言と、「山に行くしかない」という言葉。
どれも単体では、ただの与太話だ。だが重ね合わせると、輪郭の代わりに、ある種の禁忌の形が見えてくる気がした。まるで、誰も見たことのない一枚の絵を、皆が違う角に立って触っているような。ひと月かけて集めたものが、ようやく一本の道筋になろうとしている。
* * *
翌朝、旅支度を整える私のもとに、何人かが入れ替わり立ち替わり顔を出した。誰かは干し肉を、誰かは油紙にくるんだ焼き菓子を、誰かは自分で編んだという細紐を、押しつけるように渡してくる。鍛冶場の老人は、何も言わずに小さな砥石を一つ、私の手に握らせた。ひと月分の礼のつもりなのか、それとも見送りの口実が欲しいだけなのか、私にもよくわからなかった。荷が少しずつ重くなっていくのを、悪い気分ではなく感じている自分がいた。
「山に入るって、本当?」
最後に駆け寄ってきたのは、ホーナだった。いつもの快活さが、鳴りを潜めていた。
「歌を、確かめに行くだけです」
「そうじゃなくて」
彼女は私の袖を軽く掴んだ。
「このまま、ここにいたっていいじゃない。あんたなら、この村でだって十分やっていける。畑だって、鍛冶だって、みんなあんたを気に入ってる。家だって、もう用意されてるようなものでしょう。あたしだって……」
言いかけて、ホーナは一度言葉を呑み込んだが、それでも続けた。
「あたしだって、このままでいいと思ってる。だから、行かないで」
率直な言葉だった。ここに残れば、居場所も、役割も、きっと手に入る。ひと月の間に積み重ねたものを思えば、決して悪い話ではない。
それでも、私は首を横に振った。
「――ごめんなさい。私はまだ、歌を探している途中なので」
短く、けれどはっきりと告げた。掴まれた袖を、そっとほどく。
ホーナは唇を噛み、それから小さく笑った。無理に作った笑顔だとわかった。
「……そう、だよね。分かってた、つもりだったんだけどな」
その声には、悔しさも寂しさも、隠しきれていなかった。
見張りの男が、手短に登り道の目印を教えてくれた。危ないところには近づくな、迷ったら沢の音を頼りに戻れ――その注意は、意外にも丁寧だった。ひと月分の暮らしが、いつの間にかそれだけの信用に変わっていたらしい。
私は礼を言って、村を後にした。
柵の外に出た途端、空気が変わる。歓迎とも拒絶ともつかない、あの独特の重さから解き放たれた気がした。
道はすぐに、獣道よりも心許ないものになった。




