第二話 宿のない村で
最初の数日は、なだらかな丘陵が続いた。広葉樹の林はまだ人の手が入った形跡を残し、罠にかかった野兎や、水辺に群れる鴨を狩るのにさほど苦労はしなかった。焚き火を囲んで捌く肉は柔らかく、脅威と呼べるものにも出会わなかった。
途中、街道筋の小さな農村に行き当たった。宿の帳場では徴税の役人らしい男が書類を広げ、隣の卓では行商人が茶を啜っている。ごく普通の、どこにでもある村だった。私は一晩の宿代を歌で稼ぎ、余ったおひねりで干し肉と油紙を買い足した。宿の主人に道の先を尋ねると、
「ヴァーンねぇ……」
と、あまり良い顔をされなかった。
「年に1,2回ぐらいはやりとりあるけど、あそこは……変わり者の村だから」
それだけ言って、主人はそれ以上語らなかった。理由を尋ねても、話をはぐらかされるだけだった。
農村で歌ったあとのしばらくは、喉の高さが微妙に定まらなかった。声を出せばすぐ誤魔化せる程度の揺らぎでも、山道で独り身の時には妙に気に障る。私は七響琴に触れる時さえ余計な魔力を通さないよう気をつけ、歩幅まで意識して整えながら進んだ。
様子が変わり始めたのは、その農村を出て、山の気配がはっきりと濃くなってきた頃だった。
広葉樹は少しずつ針葉樹に取って代わられ、道は目に見えて狭まり、上りが増えていく。空気は日ごとに薄く、冷たくなった。獲物の気配も変わった。兎の代わりに、爪痕の残る木の幹や、明らかに大型の獣の足跡を見かけるようになる。一度など、仕留めたはずの山鳥を、闇の中で何かに丸ごとさらわれたこともあった。私はそれ以来、火を絶やさず眠るようにしていた。
それから先は、狩りそのものが命がけの駆け引きになっていった。獲物を追うつもりが、逆に何かに追われている気配を感じ、途中で切り上げることも一度や二度ではない。ある谷筋には、明らかに一頭の獣のものとは思えない数の足跡が重なっていて、私はそこを迂回することにした。荷の乾飯を惜しみながら嚙み締める夜が増えた。
またある晩には、焚き火の外側の闇を、何か大きなものがゆっくりと横切っていく気配があった。息を殺し、剣の柄に手をかけたまま、私はただそれが通り過ぎるのを待った。幸い、向こうもこちらに興味はなかったらしい。足音が遠ざかってから、ようやく詰めていた息を吐いた。剣を抜かずに済んだことに、心底ほっとした。深く踏み込み、身体の内側へ火を通す羽目にならずに済んだからだ。
この道は、決して安全な道ではない。山の奥へ向かうほど、土地そのものが刃を持ち始めている――そう思わずにはいられなかった。
旅立ってからかなりの日が経った。木々の間隔が狭まり、空の面積が減っていくのを感じながら、私は七響琴の紐を締め直し、腰の剣の鞘を軽く指で確かめた。歌うための旅でも、道中まで歌えるわけではない。まして今は、歌も剣も、使えば使うほど身体のほうが余計なことを思い出しかねなかった。
周囲の気配を探りながら、次の歌の構想を練りつつ歩みを進めていく。やがて、木々の隙間から柵が見えた。ヴァーンだ。
* * *
その村は、思っていたよりは小さく、そして思っていた以上に堅そうだった。
周囲を囲む柵は新しく組み直された跡があり、丸太の先端は槍のように尖らせてある。見張り台には男が一人、退屈そうに、しかし目だけは絶えず森の方へ向けていた。村の入り口に立って見渡した限り、旅籠らしい看板はどこにも見当たらなかった。酒場の一つもない。ここでは、よそ者を泊める商売そのものが成立していないのだろう。柵の内側には、井戸を囲むように小さな家々が身を寄せ合うように並んでいる。守りやすさを優先して作られた村、という印象だった。
「――何の用だい」
見張りの男が、槍を軽く構えたまま声をかけてきた。歓迎という言葉とは程遠い響きだった。
「旅の吟じ手です。歌になりそうな話を探して、方々を歩いています」
「歌、だと?」
男の眉が寄る。よそ者への警戒と、意味のわからない来訪目的への戸惑いが、半々といったところだ。
「この村に伝わる話を、少し聞かせていただけたらと」
男は何か言いかけて、言葉を呑み込んだ。触れてはいけない話題に触れた、という顔だった。
その沈黙を破ったのは、柵の外れから上がった悲鳴じみた声だった。
「畜舎だ!デカめのが入った!」
「チィッ!目を離すと!」
男が槍を握り直して駆け出す。私も反射的に腰の剣に手を伸ばし、その後を追った。
建屋の間から、灰褐色の大きな影が躍り出る。犬にしては大きすぎ、狼にしては胴が太い。魔力に当てられて肥え太った獣――この一帯では、"山犬"と呼ばれている類のものだろう。涎を滴らせた牙が、腰を抜かした男性に向かって突き立てられようとしていた。
道中で気配だけを避け続けてきたものたちに比べれば、造作もない相手だった。抜いて斬れば早い。だが、一息で仕留めるには踏み込みの深さも、身体に通す力も要る。
私は男性と獣の間に体を割り込ませ、噛みつきにきた牙を鞘で滑らせるように受け流した。ともすれば重量差で押し込まれそうになるが、ここで押し返しすぎるわけにはいかない。腕に余計な力を込めれば、別の熱が喉の奥まで駆け上がってくる。獣が体勢を崩した一瞬、私は剣を抜かずに山犬の首の付け根へ打ち込んだ。
獣は短く鳴いて、地に伏した。まだ息はあるか。鞘を握る指先がじんと痺れ、息を吐いた途端、声が少しだけ上ずりそうになる。私は咳払いひとつでそれを押し込み、外套の襟元をさりげなく直した。
辺りが、静まり返っていた。
* * *
真っ先に駆け寄ってきたのは、あの見張りの男だった。倒れた獣を見下ろし、私を睨みつける。
「――殺さなかったか」
少しだけ問い詰めるような声だった。
「抜き切るより、止めるのを優先しました。……ああ、平気そうです」
「そうか」
そして男は、倒れた獣の喉元へ目掛けて槍を通した。躊躇のない熟達した技量に、私は言葉を失った。
「一度村に牙を立てた獣は、味を覚えて必ず戻ってくる。仕留めそこねれば、次はもっと悪い時に、もっと悪い数で来る。俺たちは、そうやって痛い目を見てきたんだ」
見抜かれていたようだ。旅の途中で獣を退けるのと、そこに住み続ける者が獣と向き合うのとでは、重みが違う。私にとっての「必要な分だけ」は、彼らにとっては「甘さ」でしかないのかもしれなかった。
「……失礼しました。次からは、心得ておきます」
男はしばらく私を睨んでいたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
「――お前さん、腕が立つんだな」
決まり悪そうに、話を変えるように言った。周りに集まってきた村人たちの間からも、ざわめきが漏れる。誰かが「あの構え、只者じゃねえぞ」と囁き、年嵩の女が一人、値踏みするような目でこちらをじっと見ていた。何かを思い出そうとしている顔だった。
男性を助け起こしていた娘が、こちらを振り返る。陽に焼けた頬に、驚きと安堵の入り混じった表情が浮かんでいた。
「旅人さん、今夜うちに泊まってってよ!宿なんて洒落たものはここにはないので、おとっちゃんを助けてくれたお礼に!」
「それは助かります。歌は……獣を呼びよせるから今日の出番はなしですかね」
「あはっ、歌わない吟じ手さんだ!私はホーナ、よろしくね!」
娘はそう言って、小さく笑った。
* * *
夕餉の席には、干した川魚と、山の恵みだという茸の煮物が並んだ。ホーナの母親が、遠慮なく食べてと椀を差し出してくる。旅の間の乾飯続きの舌には、ひどく贅沢な味に感じられた。父親が慎重にこちらを測るのに対して、母親とホーナは驚くほど自然に言葉を継いでくる。囲炉裏端では、男の警戒と女たちの気安さは、案外はっきり分かれるものらしい。
父親が酒を勧めてきた。私は礼を言って杯を受けながら、それとなく話を向けた。
「昔、この村を守った剣士がいた、と聞きました」
父親の箸が、一瞬止まった。
「ああ……年寄りたちがよく話す。もっとも、聞く相手によって話が違ってな。俺の親父は『若い男だった』と言うし、隣の婆さんは『白髪の老人だった』と言う。片腕だったという者もいれば、五体満足だったという者もいる」
「同じ人物の話には、思えませんね」
「かもな。それとも、皆が違う時に、違う誰かを見ていたのか。俺にはわからん」
ホーナが横から口を挟んだ。
「お祖母ちゃんは、その人のこと『山の人』って呼んでたわ。名前を知らないから、としか」
証言は増えるほど、輪郭がぼやけていく。奇妙な話だった。
「爺さまたちは強かったとかでかかったとか、そういう話ばっかりさね」
椀を下げに立った母親が、肩をすくめて笑った。
「昔のことを細かく覚えてるのは、むしろ婆さまたちだよ。誰がいつ怪我したとか、誰が何日寝込んだとかね。男はすぐ見栄を混ぜるから」
なるほど、と私は頷いた。囲炉裏端で拾える話と、酒の席で転がる話は違う。同じ村でも、誰の前にどう座るかで零れてくる記憶の形が変わる。もし最初から別の姿で戸を叩いていたら、今日よりするすると聞けた話もあったかもしれない――そんな考えが一瞬だけよぎり、私は杯の縁でそれを押し戻した。
「爪痕みたいな傷が、山の岩肌に残ってるって話も聞いたことがあるぞ。剣で切りつけたにしちゃあ、馬鹿でかい傷だったって」
父親がふと思い出したように付け加える。誰の目撃談かも定かでない、又聞きの又聞きのような話だった。それでも、こうした断片が積み重なることで、初めて土地の輪郭が見えてくる。
「それで、その剣士はその後どうなったんですか?」
「あとは俺が聞いてる限りだと――」
父親は杯を置き、少し声を落とした。
「ある年を境に、ぱたりと姿を見せなくなったそうだ。死んだという者もいれば、山を降りたという者もいる。本当のところは、誰も知らねぇ。知ろうとする者も、あまりいなかったしな」
その物言いには、どこか後ろめたさが滲んでいた。助けられた恩を、忘れたわけではないだろうに。
* * *
夜が更け、家の中に静けさが満ちる頃――私とホーナは、二人きりになっていた。
外から来た男が、閉じた村でどう見られるか。歓迎と好奇心と、少しの寂しさが入り混じったその視線の意味を、すこし厚めの寝具の中で教わることになった。
多くを語る必要はないだろう。
ただ、肌の触れ合う熱が長引くにつれて、胸の奥にあの嫌な火種が戻りかけたのは確かだった。私は呼吸を深く整え、余計な力を流さないよう意識した。こんなところで声や骨の線まで変わり始めたら、言い訳のしようがない。
どれくらい経った頃だろうか。隣で寝息を立てていたホーナの温もりの中、私はふと、遠く山の方から届く低い唸りのような音に気づいた。獣の声とも、風の音とも違う。長く尾を引いて、やがて夜の中に溶けて消える。
「――今の、音は」
半ば独り言のつもりだったが、ホーナがうっすらと目を開けた。
「ん……ああ、あれね。たまにあるんにょ……」
あくびまじりに、気にも留めない調子で言う。
「小さい頃から、時々聞こえるの。婆ちゃんは『山が唄ってる』なんて言ってたわ。谷間に強い風が吹くと、音みたいに聞こえるんだって。ヴァーンの子どもは、あれを子守唄にして寝るの」
そう言って、彼女はまた眠りに落ちていった。
私は、しばらく闇の中で目を開けたままでいた。
風の音、か。だとしたら、なぜこんなにも規則正しく、旋律めいて聞こえるのだろう。誰かに聞かせるつもりのない歌を、無理に聞いている気分だった。
慣れる、という言葉が、やけに耳に残っていた。
翌朝、村の男たちの視線が、心なしか刺々しい気がした。




