第一話 山が泣いた、という噂
夏休み短期集中連載です。よろしくお願いします。
最後の一音を、私は少しだけ長く引いた。
七響琴――と、いつからか人はそう呼ぶようになった、私の弦のない楽器。魔導石に流し込む力をほんのわずかに緩めると、音は伸びながら痩せていき、消える寸前でふっと止む。合図はいつもそこだ。歌い終わったのではなく、音が自分から立ち去っていく、その瞬間を待つ。
酒場は、静かだった。
薪の爆ぜる音と、誰かの息を呑む気配だけが残っている。壁際の老爺は杯を持ったまま止まり、奥の卓では若い夫婦らしい二人が手を握り合っていた。十数人が息を止められる歌など、そう多くはない。まして題材は使い古された勇者譚――王都の大聖堂に飾られた、あの有名な一節だ。何百人もの吟じ手が歌い、何百通りの節がついてきた歌を、今夜もう一度、私は歌った。手垢のついた物語でも、伝え方次第で人の呼吸を止められる。それが、この仕事の面白いところだった。
静寂が破れたのは、それから三つ数えるくらい経ってからだった。
「――勇者様に、乾杯だ!」
誰かが叫び、それに応えるように木製のジョッキが打ち鳴らされる。歓声が波のように広がり、私は椅子から立ち上がって一礼した。手のひらに汗が滲んでいる。何百回歌っても、静寂が破れる瞬間だけは慣れない。
――その汗の半分は、別の理由だった。
七響琴に長く魔力を流した夜は、決まって喉の奥が熱を持つ。今夜も、拍手に紛れて息を整えるあいだに、指先の骨がかすかに軋んだ。袖口の中で手首がわずかに細くなる。外套の留め紐を締め直し、胸元の布が浮いていないかを指先だけで確かめる。まだ人前で困るほどではない。今夜のところは、保ったらしい。
* * *
拍手が引いていくと、待っていたとばかりに何人かが席を立ち、私のところへ寄ってきた。祝儀を渡す者、注文を口にする者、ただ肩を叩いて去っていく者。相手の懐具合と、次に何を求めているかを、私は言葉より先に手の動きと目線から読む。これも仕事のうちだ。
「兄さん、いい喉してるな。あの節回し、王都の吟じ手とはまた違う」
声をかけてきたのは、恰幅のいい商人風の男だった。旅装のわりに靴の泥は乾いて久しい。何日か、この宿場に留まっている口ぶりだ。
「お褒めにあずかり光栄です」
少し高くなりかけた声を、喉の奥で押しとどめる。私は笑って応じながら、革袋に祝儀の小銭を収めていく。数えるまでもなく、重さで大体の額はわかる。男の視線が一瞬だけ、私の背後――酒場の入り口の方へ流れたのに気づいた。誰かを待っているのか、それとも誰かから逃げているのか。どちらとも決めつけられるほどの手がかりはない。ただ、その視線の動きを、頭の片隅に置いておく。
「今夜はどちらまで?」
「さあな。行き先は、風が決める」
男はそう言って笑い、それ以上は聞かれたくないというように酒を呷った。私はそれ以上踏み込まなかった。話したくないことがある人間は、話したいことも同じくらい持っている。今夜それを聞き出す義理は、私にはない。
「なあ、次は何か景気のいい奴を頼めるか。魔王討伐の、あの……」
入れ替わりに寄ってきた若い男が、覚えたてらしい題名を口にしかけて詰まる。私は先回りして曲名を挙げ、うなずいた。弦を持たない楽器の腹に指を這わせ、次の音を探る。今夜はまだ、仕事が残っている。
こうして請われるままに歌い、頼まれるままに笑い、勘定を数える。剣は、今も腰にある。だが、あのダンジョンで罠を踏んでから、全力で魔力を流したり、深く踏み込んだりすると、身体が勝手に別の形を思い出すようになった。旅の道中、身を守るために抜くことはあっても、誰かの物語の主役として振るうことは、もう長らくしていない。明日まで同じ声、同じ腕の長さでいられる保証もない身で、前に立って誰かを守るなど、笑い話にもならない。ただ、歌う。それだけの、客商売だ。
* * *
客がまばらになった頃、私は隅の席で残りの酒を舐めながら、ぼんやりと考えていた。卓の下でそっと手を開閉すると、さっき細くなった指はまだ完全には戻っていない。胸骨のあたりに残る鈍いむず痒さが、今夜の呪いはこれで終わりではないと告げていた。
勇者様、か。
私も一度は、そちら側になりたいと思っていた。剣を握り、名を上げ、誰かの寝物語に登場する側に。だがダンジョンの底であの呪いを受けてから、私は戦うたびに自分の身体すら信用できなくなった。重い一撃を受ければ骨格が軋み、魔力を流しすぎれば喉も腰つきも別人めいていく。仲間の隣で剣を構えながら、次の瞬間にも自分の間合いが変わるかもしれない――そんな恐怖を抱えたまま前衛に立ち続けることはできなかった。今の私がしているのは、その正反対のことだ。すでに歌われ尽くした英雄の歌を、今夜のように客のリクエストで歌うことはある。けれど本当に探しているのは、そうではない歌だ。
誰にも知られていない、まだ一度も歌われたことのない英雄譚。
なぜそんなものを探すのか、と聞かれたら、私はうまく答えられない。強いて言うなら、こうなる。
――誰かが命を懸けてやったことが、誰にも知られないまま消えていくのが、私には耐えられない。
それだけだ。立派な使命感というほどのものではない。ただ、放っておけない。それだけで、もう四年か五年、こうして各地を渡り歩いている。
* * *
考え込んでいた私の耳に、離れた席の会話が引っかかった。
「――だからよ、あの村じゃ今でも言うんだ。山から下りてきた剣士がいたってな」
振り向かず、耳だけを傾ける。三人組の男たちだ。一人は若く、二人は年嵩。声からして、顔なじみらしい気安さがある。
「山から?どこの村だ」
「山あいの道を、ずっと上がった先だよ。ヴァーンってところさ。近頃はどうも魔物が出やすいって噂でな」
「ああ、聞いたことがある。何年か前、群れが押し寄せたときの話だろう」
「そう、それだ。どこからともなく現れて、村を守ったっていう剣士がいたらしい。名前も、顔も、誰も覚えちゃいねえ」
「作り話だろ、そんなの。若い、爺さん、片腕だった――村ごとに話が違うって、この前も誰かが言ってたぞ」
私は片手で杯を持ったまま、動きを止めた。証言が食い違う。それ自体は、噂話にはよくあることだ。だが、食い違い方には、その噂がどれだけの人の口を通ってきたかが表れる。何十年も語り継がれた話特有の、擦り切れ方だった。
「かもな。だが婆さんたちは今でも言うぜ。あの晩、山が泣いたって」
「山が泣いた?」
若い男が茶化すように笑ったが、年嵩の一人がそれを制した。
「笑うな。俺の婆さんも同じことを言ってた。妙な唸り声が、一晩中響いてたとかなんとか。あの剣士も、結局は何かをやり損なって、山に籠っちまったって話だ」
「やり損なった、って何にだよ」
「知るかよ。誰も見ちゃいねえんだから」
気づけば、私は杯を片手に一歩近づいていた。
「――それで、その方は、今も?」
三人が初めてこちらに気づいたように振り返った。見知らぬ吟じ手にまっすぐ聞かれ、年嵩の男は少し居心地悪そうに肩をすくめる。
「さあな。生きてるとも死んだとも、聞かねえよ。あんた、その話に興味でも?」
「ええ、少し。いい歌になりそうなので」
当たり障りのない答えを返すと、男は納得したように笑い、それ以上は語らなかった。話を続けさせるにはまだ早い。今夜は、種を拾っておくだけでいい。
男たちはそこで話を変えた。酒場ではよくあることだ。真剣に語られたかと思えば、次の瞬間には笑い話に紛れて消えていく。
だが私は、聞き逃さなかった。
村を守った、名も知られぬ剣士。証言のばらつき。誰も覚えていない顔。そして――山の泣き声。
どこにでもある与太話のようでいて、どこか引っかかる。特に最後の一言が、耳の奥に小さな棘のように残った。私は音を、意味より先に聴き取る癖がある。今のその一言には、何か普通の唸り声とは違う響きが混じっていた気がした。
気のせいかもしれない。だが、確かめずに通り過ぎるには、少し惜しい気がした。
* * *
翌朝、私は宿の主人に礼を言って、旅支度を整えた。夜の熱は引き、喉の高さも腕の重さも、ひとまず見慣れた位置に戻っている。鏡などなくても、そのくらいはわかった。
外に出ると、宿場町はまだ半分眠っていた。パン屋の焼く匂いが漂い、荷馬車を引く男が眠そうに手綱を握っている。昨夜の歓声が嘘のように、通りは静かだった。
「もう発つのかい。次はどこへ?」
見送りに出てきた主人が、パンの包みを一つ、私の手に押しつけながら聞いた。
「山あいの道の先、ヴァーンってところに」
「あそこか?あんな辺鄙な村に、何の用が」
「歌を、探しに」
主人は怪訝な顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。慣れているのだろう、この手の吟じ手の物好きには。
「まあ、気をつけていきな。近頃はあっちの方、物騒だっていうし」
その一言に、昨夜の噂話が重なった。近頃はどうも魔物が出やすい、と男たちも言っていた。単なる社交辞令の忠告か、それとも本当に、この宿場町にまで届くほどの噂になっているのか。判断するには、まだ情報が足りない。
背負った七響琴の重みを確かめながら、私は街道の先を見た。山並みの稜線の上に、まだ低い朝日が昇り始めている。道はそこから緩やかに上り、やがて霞んだ山あいへと吸い込まれていた。
誰も知らない英雄が、そこにいるかもしれない。
あるいは、ただの噂話で終わるかもしれない。
それでも構わなかった。確かめに行くこと自体が、私の仕事なのだから。
私は一歩、街道へ踏み出した。
世間は夏休みらしいですね。




