第18話 波動
女王が迫る気配が背中に張り付き、距離が一気に詰まってくる――
ウェンティはわずかに息を整えながら片手を前に差し出す。
指をまっすぐ前に向けると、後ろから吹きつけていた風がふっと流れを変え、髪が前へと流れ込む感触に包まれながら静かに目を閉じた。
「風よ…我が名はウェンティ……我が名を糧とし、その力……この世界に降臨せよ……。」
言葉が空気に溶けた瞬間、周囲を流れていた風が一斉に引き寄せられ、指先へと吸い込まれていく圧が空間そのものを歪めるように重くなる。
「この詠唱…聞いたことがない……。」
その異様な気配に、マーベリックは息を詰めたまま視線を外せない。
さらに言葉が重なるごとに、風は密度を増し、渦を巻きながらウェンティへと集まり続ける。
――ハーベイ外壁上。
頬を撫でていた風の流れがふいに逆転し、肌を撫でる方向が変わる違和感にダンゲルは眉をひそめる。
「なんだ?」
「風向きが変わった……。」
足元から吹き上げていた空気が一斉に一点へ引かれていくのを感じながら、荒野に広がっていた霧までもが引きずられるように動き出す。
リアはその動きを目で追い、息を呑んだ。
(霧が……吸い寄せられてる……。)
――馬車。
頭上の空気が揺らぎ、視界の端で光が集まり始める。
「我を通じて、開放せよ――」
言葉と同時に、ウェンティの指先に風と光が絡み合いながら渦を巻き、その中心が脈打つように膨れ上がる。
(これは……なんだ……?)
その圧に押し込まれるように、マーベリックは目を逸らすこともできず見続ける。
ウェンティの表情は強張り、呼吸は浅く速くなり、額に滲んだ汗が頬を伝う。
その背後で、女王が地を抉る勢いで迫り、影が覆いかぶさる。
グガアァァァ――!
咆哮とともに跳びかかってくる気配が目前まで迫った瞬間、ウェンティの瞼が開く。
目前に迫る女王の顔を真正面に捉えたまま、
「力を借りるぞ!ボレアス!」
キィィ―ン――
耳を裂くような高音が空気を震わせた直後、指先から解き放たれた風が一気に吹き出し、
ドオォォォ――ン!
衝撃波となって空間を押し潰す。
光に呑み込まれた女王の輪郭は一瞬で掻き消え、次の瞬間には何も残っていなかった。
そして、風が散る――
耳に残るのは、馬車の車輪が地面を軋ませる音だけ。
「エディ……馬車を止めても大丈夫だ。」
そう言いながら、ウェンティはゆっくりと手を下げ、そのまま肩で息をし始める。
「はぁ……はぁ……」
膝から力が抜け、そのまま崩れ落ちかけた身体をマーベリックが咄嗟に支え、肩を抱き寄せる。
「ウェンティ!」
「案ずるな……大丈夫じゃ……」
言葉とは裏腹に呼吸は荒く、胸が大きく上下している。
「少し…慣れない力を使ったからな……。」
(やはり制御は難しいか……。)
その様子を見ながら、マーベリックの胸の奥にわずかな重さが残る。
やがて馬車が止まり、軋む音が消える。
「ウェンティ!大丈夫か!?」
エディが勢いよく荷台へ飛び移る。
「ああ。呼吸は荒いが命に別条はない。」
マーベリックの声を聞き、エディの肩から力が抜ける。
「ならよかった。」
「すまないな。助かった。」
ウェンティは目を閉じたまま、小さくうなづいた。
――ハーベイ外壁上。
風の余韻が肌に残る中、ダンゲルは目を細める。
「風の波動……あれは魔法ではない。」
リアがその横顔を見上げる。
「波動……ですか?」
「詳しくは俺もわからんが魔法とは別の力だ。」
その言葉を胸の内で反芻する。
(魔法とは別の……。)
「エディに状況を確認する。拾った人間にも聞きたいことがあるからな。行くぞ。」
「はい。」
外壁から降りようと足を動かした、そのとき。
オォォォォォォ――ン……
腹の奥に響く低い音が、空気を震わせながら流れ込んでくる。
「!?」
反射的に振り返り、再び外壁へ戻る。
オォォォォォォ――ン……
今度ははっきりと、遠くから響く遠吠え。
視線を荒野へ走らせるが、黒影の姿はどこにも見えない。
「女王は…一体じゃない……」
リアの声がわずかに震える。
「そうみたいだな……。リア、このことは皆には伏せておけ。」
「……はい…。」
オォォ―ン……
オォォ―ン……
一つだったはずの声に、周囲から応えるように重なり始める。
見えないまま、確実に数が増えていく気配。
外壁にかけた手に、無意識に力がこもる――




