第9話 王宮商業報告会、答え合わせのお時間です
「では、答え合わせをいたしましょう」
私、ハロルド・ランスロ王太子がそう告げた瞬間、王宮の大広間の空気は、確かに一度、静まった。
年次商業報告会、初夏の午後三時。
高窓から斜めに差す光が、敷き詰められた石の床に、長い格子の影を落としていた。
列席者は、王国各地の主要貴族家当主と、その代理。
それと、商業ギルド登録の、主だった商会主、数十名。
父王は、ご静養の予定が入ったとの理由で、この席を私にお任せくださった。
実際のご静養の予定は、私のほうから、念のため、三月前に勧めた。
この場の主語は、国王ではなく王太子である、ということを明確にしたかったからだ。
◇
壇下、向かって左の最前列に、ヴィスコンティ公爵家のアルフレッド・ヴィスコンティ令息が座っていた。
公爵ご本人は、ご欠席だった。
「当主、体調不良につき、次期当主をもって代行いたさせていただきたい」。
そういう早馬が、二日前に王宮に届いていた。
——お察しする。
とても、公爵お一人では、この席にいらっしゃれなかったろう。
けれど、ご病気、というのは少しばかり、信じがたい。
書面に添えられていた筆跡は、いつもの公爵の剛直な字だった。
ご病気の方に、あの筆圧は出ない。
——代わりに、息子を出された。
それは公爵のご意思ではなく、——次男セドリックを領地に置いておくための、公爵のお選びだったのかもしれない。
そう見ている。
もう一つ、向かって右の貴族席の端に、ブランハルト辺境伯ウィルが座っていた。
いつもの大型犬のような顔ではなく、きちんと軍礼の正装で。
こちらの視線に気づくと、軽く会釈を寄越してきた。
横の席は、空いていた。
本来そこに座るべき人は、辺境領で桃のパイを焼いている、と、昨夜の早馬で届いていた。
◇
年次報告は、商業ギルド長、グレゴリー老が開始した。
穏やかな、少ししわがれた声で、各地の四半期の商況が、粛々と読み上げられていった。
北部穀物、回復基調。
南部葡萄、三年ぶりの豊作。
東方海運、貿易量、微増。
列席者の、筆記役の羽ペンの音だけが、大広間に低く響いていた。
ギルド長の声が、ヴィスコンティ領の項目に差しかかった時、ペンの音が一斉に止まった。
「——ヴィスコンティ公爵領。今期四半期、税収、昨期比、四割減」
大広間の空気が、しん、と沈んだ。
「同公爵家、ギルド内商取引登録、信用ランクを三階級、降格。主要取引契約三十一件、すべて、登録拠点をブランハルト辺境伯領に移管済」
羽ペンの一本が、机にかたん、と置かれる音がした。
誰かが小さく息を呑んだ。
壇下、最前列のアルフレッド・ヴィスコンティの肩が、目に見えて硬直した。
彼は、書類の束を膝の上でめくっていた。
紙をめくる指が、止まっていた。
◇
「ご報告の通りだ、ギルド長」
私は、玉座の肘に手を軽く置いた。
「では、ヴィスコンティ家、代理としてご列席の、アルフレッド・ヴィスコンティ令息」
「——は、はい」
「令息のご承知の範囲で構わぬ。貴家の商取引登録が『個人名義』でなされていた件について、確認させていただきたい」
「……」
「先月末の、婚約解消の手続き書類を、王宮顧問官のほうで拝見した」
隣の席の王宮顧問官が、羊皮紙を一束、掲げた。
「貴家の公的商取引契約、三十一件。すべて、締結者欄の筆頭はリリアーナ・クレイドル嬢の個人登録印である」
「それは、——承知しております、殿下」
アルフレッドの声は、上ずっていた。
「承知の上で、貴殿は先月末、同嬢との婚約を解消された。——そう受け取ってよろしいか」
「そ、それは、」
「婚約解消の事実を前提に、ギルド登録の個人名義の帰属も、同嬢の側に一本化された。——これも、事実でよろしいか」
「……」
「お返事を」
アルフレッドは、数秒、動けなかった。
唇が、二度、開いて閉じた。
「……事実、です」
かすれた声だった。
私はゆっくり、頷いた。
◇
「——つまり、貴家の公的商取引の権限は、すでにリリアーナ嬢個人に帰属している。その事実を知りつつ、婚約を解消された」
「はい」
「それが、今期四半期の税収四割減の主因と、見てよろしいか」
アルフレッドの背中に、小さく痙攣のようなものが走った。
「——主因、は」
「いかに」
「……婚約解消後の商取引の事務的混乱が、主因であり」
「事務的、混乱」
私は静かに、その言葉を繰り返した。
「三十一件の取引相手が揃って、ブランハルト領に契約拠点を移したのは、『事務的混乱』であろうか」
「……」
「むしろ、商会各社の積極的な判断であった、とギルドからは報告を受けている」
大広間の貴族席のどこかで、小さな咳払いが一つ、聞こえた。
◇
——さて、ここで気の毒ではある。
心の中で、少し呟いた。
けれど、王太子として、この場を穏便に流すわけにはいかない。
王国の商業ギルド登録制度というものは、家名ではなく、個人の登録印で成立している。
これは建国期、女性貴族が家業の実務を担うために、初代王妃のご発案で定められた制度だった。
「家紋で、契約を縛らない」。——百年動かない、王国の根のひとつだった。
その制度を軽んじた、というなら。
制度の、建国期からの意味を、あらためて、この場で確認する以外に、道はなかった。
◇
大広間の左側の扉が、きい、と小さく開いた。
無音に近い足音で、一人の女性が入ってきた。
モランド男爵令嬢、セシリア。
婚約解消の場で、アルフレッドの隣に立っていた、あの令嬢である。
いらしているのは、知っていた。
年次報告会は、主要貴族家の当主もしくは次期当主に限って、公的に列席が認められる。彼女の位では、本来、ここには入れない。
けれど、彼女は「ヴィスコンティ令息の婚約者」としての特例の許可を取って、来ていた。
その許可は、この場で彼女自身が返すために、——たぶん、ここに来ていた。
◇
セシリア嬢は、広間の中央まで歩いてきた。
壇上の私と、目が合った。
彼女は、深く礼を執った。
「——殿下、ご無礼をお許しくださいませ」
「モランド男爵令嬢、発言をお認めになる」
「ありがとうございます」
彼女は、顔を上げた。
目が、少し赤かった。
泣いていたのではない、と思う。夜を越えた赤さだった。
「私、セシリア・モランド、此度のヴィスコンティ公爵令息様との婚約話を、——この場にてお返し申し上げます」
広間の空気が、また一つ、ずれた。
アルフレッドが、振り向いた。
「……セシリア」
「私が今、アルフレッド様のお隣に立つのは、筋ではないと存じます」
彼女の声は、震えていなかった。
「婚約解消の日、私は涙を流しました」
「……」
「あの涙は、——本物ではございませんでした。ごめんなさい」
アルフレッドの顔から、血の気が引いていった。
「私は、家の借財の整理のために、アルフレッド様のお気持ちを受けました。それは紛れもない事実です」
「セシリア、何を」
「リリアーナ様には、殿下を通じて、——いえ、直接に、手紙でお詫びいたします」
セシリア嬢は、アルフレッドのほうを見た。
少しの、間。
「——私は、別の方と暮らして参ります」
広間の奥の扉の陰に、一人の若い男性が立っていた。
絵の具の染みのついた、粗末な上着だった。
彼女は、その男性のほうへ向かって、歩き出した。
◇
大広間を出ていく、セシリア嬢と画家の青年の影を、アルフレッドは壇下の席から振り向いたまま、見送っていた。
その背中に、声をかけるでもなく。
立ち上がりもしなかった。
「——ご静粛に」
私は、軽く手を挙げた。
「ヴィスコンティ令息」
「……はい」
「先ほどの事柄は、本日の商業報告とは別の事柄として扱う。よろしいか」
「……はい」
「では、本題、続けてよろしいか」
返事はなかった。
私は、咳払いを一つ落とした。
◇
商業ギルド長、グレゴリー老が、二通目の書面を読み上げた。
「本日付、ヴィスコンティ公爵家より、王宮宛、公式書簡の代読を預かっております」
「伺う」
老ギルド長が、咳払いをした。
「『当家、家督を次男セドリック・ヴィスコンティに譲り渡す旨、王家にご報告申し上げる』」
「——預かった」
「『本件、当主、公爵家当主ヴィスコンティ・レオハルト本人の意思である』」
私は、頷いた。
大広間の貴族席から、ごく静かなため息が、あちこちで漏れた。
敵意、ではなかった。
ただ、長い貴族付き合いの、その長い重さだけが、その息に含まれていた。
壇下、最前列で、アルフレッドは、——頭を垂れていた。
垂れた頭の後ろに、誰かの呟きが聞こえた。
貴族席の、二列目の老伯爵だった。
「——ヴィスコンティ家は、リリアーナ嬢を手放したときに終わったな」
その呟きは、隣の席の侯爵へ、静かに伝えられた。
侯爵は、短く頷いた。
頷いた人が、他にも何人もいた。
◇
辺境領、ブランハルト城、厨房。
同じ頃。
私、リリアーナ・クレイドルは、エプロンに粉をこぼしていた。
「お義姉さま、お義姉さま、桃、もう並べました」
「はい、ミア様。じゃあ、この生地、上に、——」
厨房の古い竈の前で、ミア嬢が、桃の甘い匂いに、鼻をくすくすしていた。
桃畑は、まだ花の季節のすこしあと。早生種の一部だけが、小さな、まだ酸味の残る実をつけていた。
それを、ミア嬢が「パイにします」と言って、朝から聞かなかった。
私は、言われた通り、生地を伸ばした。
「——王都、今頃、ですかね」
「……そうですね」
竈の中で、火がじじ、と静かに鳴っていた。
厨房の、窓の外、遠くの鍛冶場のふいごの音が、規則的に聞こえていた。
その音が、妙に胸に近かった。
◇
同じ頃。王宮、大広間。
報告会の閉会が告げられ、列席者が、ざわ、と席を立ちはじめた頃。
アルフレッド・ヴィスコンティは、最前列の自分の椅子に、座ったまま動けずにいた。
足元に、報告書の束が落ちていた。
拾う気配も、ない。
壇上から、私はその姿を見ていた。
——弟、セドリックを頼れる家だ。
気の毒では、ある。
けれど、気の毒、という感情は、王太子のこの場の最終判断には、関わらない。
判断の材料は、先ほどギルド長の口から、公的に読み上げられた通りだった。
私は、席を立ち、壇を降りた。




