第10話 桃畑で、商会共同経営契約書と、もう一枚
桃が、咲いていた。
辺境領、西側の斜面。早朝の薄い靄の向こうに、淡い桃色が一面に広がっていた。
春の早い、辺境領の桃。
一月前、花のほとんどは散り、早生種の小さな実が、枝先にようやく膨らみかけた頃だった。
王都から、報告会の事後処理のため、ウィル様が城に戻られたのは、三日前。
その翌日、早馬で、残りの詳細の書面が届いた。
昨日、私はずっと、その書面を読んでいた。
今朝、ウィル様に「桃畑に行きませんか」と誘われた。
書面を肘掛けに置いたまま、私は上着を取りに立った。
◇
斜面の下のほうから、遠く、鐘の音が一つ聞こえた。
辺境領の朝は、王都のそれよりも、光の差し込む角度が少し斜めだった。山の向こうから、陽が回り込んでくる時間が長いせいだった。
ウィル様は、斜面の中ほどの、古い切り株のところで足を止めた。
二人分の腰を下ろせるくらいの大きさの、切り株だった。
並んで、座った。
ウィル様は、私の手の中の書面の束を一度、見た。
「ご覧になれました?」
「はい」
「——どう、思われましたか」
少し、考えた。
風が、斜面の下から吹き上げてきた。
桃の甘い匂いに、まだ咲き残った花の、少し冷たい香りが混ざっていた。
◇
書面には、王宮の簡潔な事後報告が並んでいた。
ヴィスコンティ公爵家、家督、次男セドリック・ヴィスコンティに正式譲渡。
アルフレッド・ヴィスコンティ元令息、王宮、文芸顧問職に任命。
モランド男爵令嬢セシリア、婚約辞退、正式受理。
それから、最後の一枚に、個人名義の走り書きが添えられていた。
王太子ハロルドの筆跡だった。
『一連の件、ご心労、労いたい。
王宮の、建国期からの登録制度が、正しく機能したこと、礼を申し上げる。
貴女の八年の実務が、王国の根を支えていた。
——王太子として、改めて感謝する』
八年、とその一文に書いてあった。
数字にすれば、短い。
書いてある一文も、短い。
けれど昨夜、私はその紙を、しばらく胸の前で持っていた。
——気づいてくださっていた人が、もう一人、いた。
そう思っただけで、嗚咽とも笑いともつかない、細い息が、喉の奥から漏れた。
それは、昨夜のうちに済ませてあった。
今朝は、もう、泣かずに済んだ。
◇
「——お疲れさまでした、アルフレッド様」
ぽつり、と声に出た。
ウィル様が、少しだけこちらを見た。
「ご夫妻にも、この一言で終わらせます」
「……はい」
「それ以上は、私が言うことではないので」
風が、もう一度、斜面を駆け上がった。
遠く、山の雪が、陽を受けて、端のほうだけ眩しかった。
ウィル様は、頷きもしなかった。
ただ黙って、私の膝の上の書面を手に取った。
「——よろしければ、これ、預からせて」
「どうぞ」
彼は書面を、ご自身の外套の内側のポケットに、丁寧にしまった。
それから、別の内ポケットから、別の紙の束を取り出した。
◇
「さて、——本題です」
声の温度が、今朝、初めて少し変わった。
ウィル様は、膝の上で紙の束を、きちんと揃えた。
「一枚、目」
差し出された。
『ブランハルト辺境伯領商会、共同経営契約書』
一番下の、共同経営者の欄に、すでにウィル様の署名が入っていた。
ただし、私の欄は空白だった。
「——いつの、書式ですか、これ」
「半月前です。王都に行く前に、用意しておきました」
「……半月」
「はい」
「半月、——前」
「それより前から書きたかったんですが、——一応、告白が先のほうが、順番として正しい気がして」
私の頬の熱さを、彼は見ていないふりをしていた。
(……見ていない、と仰るなら、それでいいです)
自分の内心に、自分で返事をした。
◇
「二枚、目」
差し出された。
差し出したウィル様の指先が、ほんの少し震えていた。
昨夜まで、私の手がずっと震えていたように。
——今朝、先に震えていたのは、彼のほうだった。
『婚姻誓約書』
右下の、男方の欄に、ウィル・ブランハルトの署名が入っていた。
「——僕の正式な取引相手に、ようやくなれます」
ぼそり、と仰った。
少しだけ、はにかんだ顔で。
三年前、ギルドで私の字をはじめて見たという、あの日から、たぶんずっと抱えていた、祈りのような一言だった。
◇
私はペンを受け取った。
指が、思った以上に震えた。
隣で、ウィル様の指も震えていた。
「——どうぞ」
「——はい」
一枚目に、私は自分の名前を書いた。
「リリアーナ・クレイドル」
個人登録印を、その右隣に押した。
二枚目の女方の欄に、もう一度、同じ名前を書いた。
そちらには、印は押さなかった。
代わりに、ウィル様の署名のすぐ下に、名前だけ並べた。
公爵家紋のない、家名のない、ただ、私の字の名前だった。
——嫁ぐ、という言い方は、今朝はしなかった。
並ぶ、と思った。
手に、震えが残っていた。
その震えの手を、ウィル様が自分の片方の手のひらで、上からそっと覆った。
重ねた、というより、——受け止めた、というほうが近かった。
◇
「——お義姉さまああああ!」
斜面の下のほうから、張り上げた声が届いた。
振り向くと、ミア嬢が両手を大きく振っていた。
城の厨房のエプロンを、まだつけたままだった。
「桃のパイ、焼けたよ! 焦げそう!」
「あ、は、はい、今、参ります」
「お兄様、お義姉さまを連れてきてーっ」
ミア嬢は、それだけ言うと、また城のほうへ駆け戻っていった。
ウィル様が、ふっ、と息を吐いた。
「——妹、若干、空気、読まないんですよね」
「……はい」
「でも、大事な場面で、必ず、こうなんです」
「……それは、わかります」
思わず、笑ってしまった。
ウィル様も、肩を揺らして笑った。
斜面の、桃の枝の間から、朝の光が、私たちの座った切り株のところに、斜めにこぼれていた。
◇
城の厨房の扉をくぐると、バターと、桃の甘い匂いが、一気に肩に降りてきた。
食卓の真ん中に、大きな、焼き上がったばかりの桃のパイが置かれていた。
表面の、格子の生地の焦げ目が、綺麗に色づいていた。
ミア嬢が、自慢げに腰に手を当てている。
「お義姉さまに教わった通りに、焼きました!」
「本当に、綺麗」
「焦げる寸前まで、気づかなかっただけですけど」
小さな笑いが、三人の間に落ちた。
ウィル様が、皿を取りに棚のほうへ歩いていった。
私はミア嬢の隣に立って、パイの熱気を頬に受けていた。
◇
その皿の向こう側に。
窓から差し込む朝の光の、その奥に。
八年の記憶が、薄く重なった。
十五歳の春、公爵邸の応接間で、はじめてアルフレッド様とお会いした日。
十九歳の冬、北部穀物商会に三往復、馬車で通った日。
二十三歳の初夏、はじめて自分の登録印を持って、ギルドに歩いていった日。
そして、八年のあとの初夏。
応接間で紅茶がぬるくなっていた、あの日。
「他に、好きな人ができた」と言われた、その日の自分の笑顔が、遠く、他人の顔のように浮かんだ。
——あの日、私は八年の私自身に向かって、呟いたのだった。
お気遣いなく、もう他人ですので、と。
今朝、私は同じ自分に、違う一言を贈れる気がした。
◇
ミア嬢が、パイを切り分けた。
ウィル様が、皿を並べた。
私は、小さいフォークを手に取った。
切り分けられた桃が、湯気を立てていた。
——八年前、婚約した日も、桃の季節だった。
あの日の私は、誰かに愛されたいと願っていた。
今の私は、誰かを愛している。
それだけで、——もう、十分でした。




