第8話 『君の数字の書き方が、好きだ』
翌朝は、雨だった。
辺境領の、初夏の、細くて長い雨だった。
窓硝子を縦に、すじが何本も流れていた。
私は朝食の席に遅れて降りた。
昨夜、結局、ほとんど眠れなかった。
封の切られていない招待状を、机の端から動かせないまま、夜を明かしてしまった。
食堂には、ウィル様がすでにいらした。
隣の席では、ミア嬢が、大きめのカップでミルクティーをすすっていた。
「お義姉さま、おはようございます」
「——おはよう、ミア様」
「目、赤い」
「少し、夜更かしを」
ミア嬢は、こちらを見て、ほんの少しだけ首を傾げた。
それから、ふわりと笑った。
「お兄様、頑張ってください」
「……ミア、食事中」
ウィル様は、パンをちぎった。
耳の縁が、ほんのり赤かった。
◇
朝食のあと、ウィル様に執務室のほうで、と呼ばれた。
「お話があるので」
「はい」
短い遣り取りだった。
廊下を歩いている間、雨音が窓の外から、絶えず響いていた。
私は昨夜、自分が口にした言葉のことを、繰り返し思い出していた。
——貴族令嬢としては、もう半ば、傷物。
言葉にした瞬間、それが自分の本音の半分でしかないことに、気づいてしまった。
本音のもう半分は、もっと単純で、みっともないものだった。
(——この人の邪魔になりたくない)
廊下の絨毯を踏む、自分の靴の音が、妙にはっきり聞こえていた。
◇
執務室の机の上には、大きな木の箱が一つ、置かれていた。
ウィル様が、無言で蓋を開けた。
——帳簿が何冊も。
それから紙束が、数束。全部写しで、全部古かった。
端の、角の擦れ方で分かった。
私が十七の頃から、十八、十九、二十、と歳を重ねるごとに書き溜めてきた、領地の改善案と、交易路の提言と、北部穀物商会の契約記録の、その原本の、——写し。
「これ、は」
「三年前から、少しずつ、ギルドの写本係に頼んで、集めてもらったものです」
ウィル様は、机の脇に立ったまま仰った。
「買っていました、全部」
雨の音が、窓の外で細く続いていた。
私は一冊、手に取った。
表紙の端に、薄いインクの染みがあった。十七の春、初めて会議で担当した時、父に「持って行きなさい」と頂いた、自分のインクの染みだった。
——こんなものまで。
指の先が、じん、と痺れた。
◇
「三年前、僕は商業ギルドの集会室で、たまたま、この写しの一部を見ました」
ウィル様の声は、静かだった。
「北部穀物商会との、三回目の会談記録、でした」
「……」
「その書類の右の余白に、細かい字で『この提案は、商会側の職人に、冬の手当てを厚く回すための譲歩である』と、——書いてありました」
「……」
「僕は、貴族の名で、国境の兵を何百人も動かす、仕事をしている人間です」
「はい」
「兵の冬の手当てを、書類の余白に気にかけて書く貴族を、一人も知らなかった」
指で、帳簿を押さえていた。
自分の指が震えているのが、わかった。
「それから、少しずつ書類を集めるようになりました。気がつけば、三年、集めていました」
「——お仕事の、資料として」
「いえ」
ウィル様は、少し笑った。
「言い訳です、それ」
「……」
「本当は、——あなたがどういう人なのか、知りたかったんです」
◇
雨の音が、一度、大きくなった。
次の一言が来るまでの数秒のあいだ、私はたぶん、息をしていなかった。
ウィル様が、机の縁に軽く手を置いた。
私の隣の、ぎりぎり触れない距離で立っていた。
「——君の、数字の書き方が、好きだ」
声は低くなっていなかった。
むしろ、いつも通り穏やかだった。
それが、余計に効いた。
「丁寧で、余白が余らないくらい細かくて、書類の中に、関わる人間の生活がちゃんと入っている、——そういう数字の書き方をする人を」
一呼吸。
「——僕は、好きです」
——、
——。
耳の奥で、何かの音が消えた。
雨の音も、窓の外の遠い鍛冶場のふいごの音も、一瞬、全部聞こえなくなった。
◇
胸の奥で、昨夜から沈んでいた重たいものが、ぐらり、と揺れた。
「——私、」
声が、出そうで出なかった。
「私、——」
「はい」
「……七年、誰にも、見てもらえないと思っていたのです」
「はい」
「八年、——」
言いかけて、もう一度、言い直した。
「八年、見てもらえなかったのを、正確に申しますと、前世と合わせると、もう少し長い気がします」
ウィル様が、目をほんの少し見開いた。
私は慌てて、口を塞ぎかけた。
前世の話をした覚えはなかった。でも、この方なら、なぜか、言ってもいい気がした。
ウィル様は、少しの間、考えた。
それから、穏やかに仰った。
「——僕は三年、見ていました。けれど、あなた自身が気づく前から、ずっと見ていたとは申せません。そこは正直に言います」
「……はい」
「ただ、三年前から今日まで、ずっと見ています。これから先も、見ます」
「……」
「身分とか、家とかの話を、昨夜、君はしてくれましたが」
ウィル様は、手を机から離した。
私のほうへ、一歩踏み出した。
「——僕は、そういう理由で人を選びません」
「——」
「僕が選ぶのは、君です」
一歩。
もう一歩。
気づいたら、ウィル様の外套の、いつもの革と焚き木と、鞣した皮の匂いが、頬の近くにあった。
◇
抱き寄せられた、という言い方は違っていた。
——抱きしめられた、とも、少し違った。
ウィル様は、私の肩のあたりに、そっと両腕を回した。
力は、こもっていなかった。
ただ、そこに重みがあった。
——五時間、馬車の中で外套を私の肩にかけたまま、動かなかった、あの重みだった。
顔を見られたくなくて、私は彼の胸元に、額をつけた。
衣擦れの音だけが、静かに耳元に落ちた。
涙は、出なかった。
出る代わりに、喉の奥で、笑いのような、息のような、小さな音が漏れた。
(……ああ、——見つかってしまった)
前世でも今世でも、——ずっと、誰にも見つけてもらえないと思っていた、私の、仕事の、字のことが。
見つけてくれた人の外套の下に、今、いた。
胸の鐘は、鳴らなかった。
代わりに、何かもっと柔らかい、湯のようなものが、胸のところに、ただ満ちていた。
◇
どのくらいの時間そうしていたか、覚えていない。
窓の外の雨が少し弱まる頃、私はゆっくり身を起こした。
ウィル様も、ちょうど同じ間合いで、腕を解いた。
何度も練習してきたような、自然な離れ方だった。
目を合わせられなかった。
合わせられないまま、私は呟いた。
「——招待状、受けます」
「はい」
「ただ、王宮には私、伺いません」
「——え」
ウィル様が、珍しく驚いた顔をした。
「私が壇上に出ると、アルフレッド様もセシリア様も、ご両親様も、逃げ道のない吊るし上げになります。私はそれはしたくないのです」
「……」
「けれど、逃げ道がない、ということそのものは、王太子殿下とギルド長様が公式の場でお作りになるべきです」
「……」
「私は、当事者ではもう、ない。共同経営者の一人として、辺境領で仕事をします。殿下のご指名にお応えするのは、ウィル様お一人で十分です」
ウィル様は、しばらく私を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「——承知しました」
「よろしくお願いします」
「一つ、条件を」
「はい」
「僕が王宮から戻ってきたら、桃畑を一緒に歩いてください」
「……桃畑、ですか」
「春のほうの、桃畑の話です。辺境領の西側の斜面にあるのです」
ウィル様は、少しだけまた、耳の縁を赤くしていた。
「お願いがあるので、——その時に」
◇
執務室を出て、廊下の、雨の窓のそばで、私はしばらく足を止めていた。
硝子の、細い雨のすじを、眺めていた。
指の先が、また少し震えていた。
——桃畑で、お願いがある。
その意味を、私はたぶん、もう半分わかってしまっていた。
わかっていて、喉の奥で、勝手に笑ってしまった。
窓硝子に映った、自分の顔を見た。
目の下が、少しだけ赤かった。
夜更かしのせいか、別の何かのせいか、自分でも区別がつかなかった。
◇
その夜、執務机の上で、私は招待状の封を初めて切った。
中から出てきた文面は、形式通りだった。
王宮、年次商業報告会、出席要請。
同封の、小さな別紙、一枚。
そこに、王太子ハロルドの筆跡で、ただ一文、こう書かれていた。
『欠席の由、承った。答え合わせは、こちらで引き受けよう』
——答え合わせ。
私は別紙を、ランプの光にかざした。
王太子殿下の字は、丁寧で、少し短気な跳ねがあった。
——殿下は、ご存知だったのだ。
たぶん、随分、前から。




