第7話 公爵夫妻、辺境城の門前にて
「開門せよ! ヴィスコンティ公爵が参られた!」
朝霧の残る大門の外で、公爵家の従者の張り上げた声が、石壁に反響した。
ブランハルト城の見張り塔の鐘が、一度だけ短く鳴った。
三日後、と書かれた書簡の通りの、三日後の朝だった。
書簡には、到着予定の時刻も、同行人数も、面会を希望する用件も、一切書かれていなかった。ただ、「訪問予定」とだけ。
公爵家の流儀で言えば、それは、断られることを最初から想定していない、という意味だった。
◇
私は、城の内門の、さらに内側の、中庭の回廊にいた。
眠れなかったわけではない。ただ朝の早い時間に、自然と目が覚めてしまった。
ウィル様はすでに大門のほうへ向かわれていた。
「リリアーナ嬢は、ここに」
「私も、ご一緒します」
「——いえ」
ウィル様は、普段通りの穏やかな声で、首を横に振った。
「まず、僕が受けます。呼ばれてから来てください」
迷いながら、頷いた。
頷いてから、私はずっと、中庭の回廊の柱に手のひらを当てていた。
石の柱の、朝の冷たさだけが、指のあいだに残っていた。
◇
大門の前に、ヴィスコンティ公爵ご夫妻と、随員数名が立っていた。
馬車はさらに後方。あえて、馬車から降りて、大門の前まで歩いてこられたらしい。
「ブランハルト辺境伯。朝の早い時刻に、失礼する」
公爵の声は、貴族会議の席で聞いていた時と変わらない、重く落ち着いた声だった。
「ヴィスコンティ公爵、ご機嫌うるわしゅう。急なご訪問と承っております」
ウィル様の声も、穏やかだった。
けれど、大門の扉は開かれていなかった。
開かれているのは、扉の中の小さなくぐり戸の、さらに小さな格子窓だけだった。
「城内にて、話を」
「僭越ながら、ご用件を伺ってから、ご案内の手順をお決めいたしたく」
ウィル様の声が、わずかに格子窓のほうへ寄った。
「——息子の非礼を、詫びに来た」
公爵が、静かに仰った。
「その上で、リリアーナ嬢を、どうか、我が家に返していただきたい」
◇
その言葉を、回廊の柱の陰で、私は確かに聞いた。
——返していただきたい。
十五で、公爵家に婚約者として迎え入れられた日、公爵は確か、私に穏やかに仰った。
「貴殿の一族の支えを、我が家にお貸しいただきたい」
同じ、貸し借りの語彙だった。
違うのは、主語だった。
あの日「貸していただく」と仰った公爵が、今日「返していただきたい」と仰っている。
私は、物ではないはずだった。
◇
「——公爵、ひとつ、確認させてくださいませ」
ウィル様の声が、格子の向こうに通った。
「返す、とは、どういう意味でございますか」
「そのままの意味だ」
「彼女は、我が辺境領商会の共同経営者でございます」
「それは存じている」
「ですが、彼女は物でも、預かり品でもございません」
ウィル様の声は、変わらず低かった。
ただ、そこには、先日セシリア嬢を見送った時と同じ、辺境伯の重さが乗っていた。
「——戻すか、戻さないかは、彼女お一人がお決めになることと存じます」
公爵は、しばらく沈黙した。
その隣で、公爵夫人のため息が、格子越しに届いた。
◇
「——商売女の、娘ごときが」
呟くような、低い声だった。
公爵夫人は、多分、ウィル様にだけ聞こえる程度の声量で仰ったのだと思う。
けれど、公爵夫人の声は、もともと朗々と響く声質だった。歌の得意な方だった。夜会の舞踏の合間に、即興の歌を披露されることも、よくあった。
八年の間、私はその声を、無数に聞いてきた。
「我が家を、よくも——」
「——黙りなさい」
公爵の声が、低く割って入った。
今度は、格子の向こうのウィル様ではなく、夫人に向けられた声だった。
朝の大門の前の空気が、一拍、止まった。
「夫人、我が家を八年支えてこられたのは、あの娘だ」
「あなた」
「——支えていた事実を知っていて、お前を黙認してきた、私の罪も、今日、詫びに来たのだ」
「……」
「お黙りを」
公爵夫人は、目を見張った。
その目が微かに震えていた。
格子の向こうで、ウィル様が短く礼を執った。
◇
「——リリアーナ嬢を、お呼びいたします」
ウィル様が、従卒に合図を送った。
回廊の柱から、私は身を起こした。
柱の冷たさを、指からゆっくりと離した。
——歩みを止めないことだけ、自分に言い聞かせた。
◇
大門の前の、内側の、小さな通用口から、私は一歩、出た。
砂利を踏む音が、思ったより、乾いて大きかった。
公爵が、私を見た。
公爵夫人も、見た。
「リリアーナ嬢」
「——お義父、様」
つい、昨日までの呼び方が出た。
すぐに、口の中で言葉を改めた。
「ヴィスコンティ公爵。ご機嫌うるわしゅう」
公爵は、ほんの少し目を伏せた。
そうして、言った。
「済まなかった」
私は返事をしなかった。
返事をすべきではない、と、とっさに思ったのだった。
「許してほしい、とは申さぬ。ただ、八年の礼を、今日は伝えに参った」
「——ありがたく、頂戴いたします」
夫人は、私の顔を一瞬見たあと、視線を逸らした。
「私は、辺境領に残ります」
公爵は、一度、頷いた。
「そうか」
「お義父様——いえ、公爵。どうか、お帰りのご道中、お気をつけて」
公爵夫妻は、もう何も言わなかった。
随員に支えられるように、公爵夫人が先に馬車のほうへ戻っていった。
公爵は、最後に一度だけ、ウィル様に深く頭を下げた。
その頭が、ほんの少しの間、上がらなかった。
公爵、というより、娘を託しに来た、一人の老いた父親の頭だった。
◇
馬車が大門の外の道を、ゆっくり下っていく。
砂利の音が、遠ざかる。
ウィル様が、私の隣に戻ってきた。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
遠くで、城の見張り塔の上の鐘が、小さく一度、鳴った。
◇
その後、王都、ヴィスコンティ公爵邸の執務室。
僕は、扉の前の廊下に、立ったまま動けずにいた。
執務室の中から、弟の声が聞こえていた。
「父上。この帳簿の、北部穀物商会の項目ですが——余白に小さく、義姉上の改善案が書いてあります。採用してよろしいですか」
「そのまま採用せよ」
「は」
弟セドリックは、僕より七つ年下の、まだ線の細い少年だった。
この一月ほど、父上は、領地の差配について、セドリックを直接、執務室に呼ばれるようになった。僕には、何も仰らずに。
扉の隙間から、紙をめくる音だけが聞こえていた。
——義姉上、と。
弟は、彼女をそう呼んでいた。
僕の婚約者としてではなく、ただ、帳簿の余白に字を残した、この家の恩人として。
廊下の絨毯の、細かい模様の上に、僕の視線は、落ちたまま動かなかった。
◇
辺境領。
その夜、私は一人で、執務室にいた。
机の上には、昼過ぎに、王都から届いたばかりの、一通の封書が置いてあった。
——『王宮、年次商業報告会、ご招待』
王太子ハロルド殿下、直々の、署名入りの招待状。
商業ギルドと、王宮が、年に一度だけ合同で開く、全貴族、全主要商会が参集する、公の場への招待だった。
ウィル様には、すでに数日前に、同じ封書が届いていた。
私の分は、今日、遅れて届いた。
つまり、——私は名指しで呼ばれていた。
窓の外を、風が渡っていく。
私は、招待状の封を、まだ切らずにいた。
◇
コツ、とノックが鳴った。
ウィル様だった。
今夜は、紅茶は運ばれていなかった。
「……お邪魔しても」
「はい、どうぞ」
入ってきて、机の向かい、いつもの椅子に腰を下ろした。
「招待状のこと、聞きました」
「はい」
「——受けますか」
私は、指を机の端に置いた。
爪の先が、白くなっていた。
「ウィル様」
「はい」
「私、今日、公爵夫妻の前で、立っていたのです」
「はい」
「お義父様、いえ、公爵に、『済まなかった』と仰っていただきました」
「はい」
「——私、いらない人間になりたくなくて、頑張っていたのだと気づきました」
言葉が、うまく出なかった。
息を、短く吸った。
「私、貴族令嬢としては、たぶん、もう半ば、傷物です。八年婚約していて、最後に、相手に『好きな人ができた』と言われた女です」
「……」
「辺境伯領の共同経営者として、ウィル様のお仕事のお邪魔にならなければ、よいのですが」
顔を、上げられなかった。
自分で喋りながら、声が妙に硬くなっていくのがわかった。
——そうしないと、たぶん、別のものが口から出そうだった。
机の向かいで、ウィル様はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「それは、——君が決めることじゃない」
顔を、上げた。
ウィル様は、笑ってはいなかった。
いつもの、穏やかな、軽い笑顔ではなかった。
ただ、こちらを見ていた。
「続きは、明日、お話しさせてください」
そう言うと、彼は立ち上がり、入ってきた時と同じ静けさで、執務室を出ていった。
◇
扉が閉まった。
ランプの火が、ちり、と小さく鳴った。
机の上の、封の切られていない招待状が、影を長く落としていた。
——君が決めることじゃない。
胸の奥の鐘の音は、鳴らなかった。
代わりに、何かもっと静かで、重たいものが、ゆっくりと沈んでいった。
窓の外は、深い夜だった。
私はランプの火芯を落とさずに、ただ、机の前に座っていた。




