第6話 セシリアが涙を流しながら『戻ってきて』と言った日
『リリアーナ様
お目にかかって、直接、お話しさせていただきたいことがございます。
突然で、本当に、ご無礼かとは存じますが。
私一人で、参ります。
一刻でも、構いません。
セシリア』
筆圧の弱い、繊細な字だった。
行間が、微妙に、震えていた。
辺境領の片田舎まで、男爵令嬢が一人で馬車を飛ばしてくる。
本来なら、アルフレッド様の側仕えが、ひとりや二人、同行する案件である。
(お一人、ねえ)
私は返書の一枚に、短く承諾の旨を書いて、翌日の午後を指定した。
◇
翌日の午後、セシリア嬢は、約束の刻限より半時ほど早く到着した。
案内された応接間に入ってきた彼女は、王都で最後に会った時より、少し瘦せていた。
着ているものは、地味目の茶系の外出着だった。婚約解消の日、アルフレッド様の隣に立っていた時の、薄紅の繊細な意匠のドレスとは雰囲気がずいぶん違っていた。
「お忙しいところ、お時間をありがとうございます、リリアーナ様」
深く、頭を下げた。
私は紅茶を勧め、ご自身の前のソファに座るよう促した。
最初の数口、お互い、天気と旅路の話をした。
それから、セシリア嬢はカップをそっと置いた。
◇
「リリアーナ様。単刀直入に、申し上げます」
「はい」
「——戻っていただけませんか。公爵邸に」
カップを包んでいた指先を、私はそっと膝の上に戻した。
「戻る、とは」
「商業顧問として、で構いません。元の婚約関係ではなく、別の契約で」
「アルフレッド様のご意向ですか」
「——いえ」
セシリア嬢は、視線を一度落とした。
「私の、お願いです」
喉のあたりで、乾いた音が鳴った気がした。
「アルフレッド様が、毎日、苛立っていらっしゃるのです。ヴィスコンティ領の商会のことで。侍従長様は呼ばれても答えられず、領地差配官様も、頭を抱えられていて」
「それは」
「『使えない人間ばかりだ』と、アルフレッド様は仰るのです」
セシリア嬢の睫毛が、少し震えた。
「——私にも、仰います」
(……ああ)
私はカップに残った紅茶の水面を見ていた。
表面に、窓から差す午後の光が、ゆっくり揺れていた。
セシリア嬢の「私にも仰います」の意味は、言葉の通りだった。
「経営が分からない、何もできない人間は、家の恥だ」。そういうことを、あの方は仰るのだ。たぶん、婚約者だった私が、毎朝、早朝から書類を見ていたのが、あの方の中での「普通」だったから。
普通が消えた時、あの方は普通を作り直すより、周りを「使えない」と呼ぶ方を選ばれる。
(——知っていました)
八年、見ていたのだった。
そのやり方を、私は知っていた。
「セシリア様」
「はい」
「私は、戻りません」
紅茶を一口、ゆっくりと飲んだ。
「申し訳ございませんが」
「——それは」
「ヴィスコンティ公爵家の商会運営は、もう、私の担当する仕事ではございません」
セシリア嬢の目が、ほんの少し揺れた。
「あなた様なら、お優しい方ですから、きっと」
「優しさとは、また別のお話です」
「でも」
「セシリア様」
私はもう一度、穏やかに繰り返した。
「私は、戻りません」
◇
応接間の扉が、勢いよく開いた。
「失礼」
入ってきたのは、ウィル様だった。
いつもの朝の大型犬のような顔ではなかった。かと言って、戦場の指揮官のような顔でもない。
ただ、はっきりとした、辺境伯の顔だった。
「ブランハルト辺境伯でいらっしゃいますか」
セシリア嬢が素早く立ち上がり、礼を執った。
「モランド男爵令嬢、セシリア様」
ウィル様は、彼女に淡い礼を返した。
それから、私のほうを一度見た。
目で、「続けていいですか」と聞かれた気がして、私は首をわずかに縦に振った。
ウィル様は、セシリア嬢と私とのちょうど真ん中に立った。
正確には、私のほうに半歩寄った位置だった。
肩ではなく、背中が、そこにあった。
◇
「セシリア様のご用件は、拝聴しておりました。扉の外で、ご無礼ながら」
「……辺境伯様」
「リリアーナ・クレイドル嬢は、我が辺境領商会の、共同経営者です」
「それは、存じ上げております」
「でしたら、話はこう続きます」
ウィル様の声は、高くはなかった。
けれど、応接間の空気の温度が、すっと一度、変わった。
「彼女が領外へ——とくに、かつての婚約者のご領地へ、長期に出向くかどうかは、辺境領商会の経営判断に関わります。従って、ご交渉は、まず、私のほうにお話しいただく筋と思われます」
「それは」
「もっとも」
ウィル様は、一度、言葉を切った。
「彼女自身の意思が、最優先です。彼女がすでに『戻らない』と仰ったのでしたら、それは、辺境伯領の結論ではなく、彼女個人の結論です」
セシリア嬢は、黙っていた。
「その結論を、ここで、重ねて覆そうとなさるのでしたら」
ウィル様の背中が、ほんの少しだけ、私のほうを庇う位置に動いた。
「お引取りを、お願い申し上げます」
——静かな声だった。
けれど、辺境伯、という肩書きの重さが、その静かさにきちんと乗っていた。
セシリア嬢は、息を一度、深く吸った。
それから、私の顔を見た。
「——リリアーナ様は、お優しい方だと、思っておりました」
「そう、でしょうか」
「ええ。きっと、お戻りになると、信じて」
「お戻りにならないことは、優しさと、矛盾しません」
セシリア嬢は、目を伏せた。
立ち上がり、もう一度、深く礼をした。
「——失礼、いたしました」
応接間を、彼女は静かに出ていった。
◇
扉が閉まった。
室内には、私と、ウィル様と、壁の時計の音だけが残った。
ウィル様が、大きく息を吐いた。
武門の顔がすっとほどけて、元の、少し頼りないような、穏やかな輪郭に戻った。
「——ご無礼、申しましたか」
「いえ」
「勝手に出てきたので」
「助かりました」
声を出してみたら、思ったより、自分の声が乾いていた。
ウィル様は、こちらを向き直った。
距離は、適切だった。
肩を抱くでも、手を取るでもなかった。
ただ、彼は私の目を見ていた。
「——僕が、君を守りたかっただけです」
顔の上半分が、ほんのり赤かった。
本人は、たぶん、平気な顔のつもりだった。
(……耳、また、真っ赤)
自分の胸の中で、何か小さな鐘のような音が鳴った。
軽い、けれど確かな、鐘の音だった。
◇
セシリア嬢の馬車が、辺境領の大門を出たあと、私は回廊の手すりに、一人で肘をついていた。
遠くの山が、薄い雲の影で、ゆっくり色を変えていく。
胸の中の小さな鐘が、鳴りやまなかった。
八年、公爵邸で、誰にも庇ってもらえなかった。
庇われる、という概念を、私はあまり知らなかった。
むしろ、私が他の誰かを庇うほうだった。
——庇われるというのは、こんなに胸の芯が熱くなるものなのか。
手すりの冷たさで指先を冷やしながら、私は自分の頬の熱に気づいていた。
◇
夕刻、ウィル様の従卒が、息を切らして回廊に駆けてきた。
「辺境伯様は、今、道場で」
「かしこまりました」
「それから、リリアーナ様、もう一件」
従卒は、封を受け取った使者から預かったばかりの、という体温の残る書簡を、私の手に渡した。
差出人の印を見て、私は指の動きを止めた。
ヴィスコンティ公爵、ご夫妻。
『三日後、ブランハルト辺境伯城を訪問予定』
手すりの向こう、薄雲の端が、一瞬だけ赤く染まって、それからすぐに暮れていった。




