第5話 公爵領税収二割減、夜更けの執務室に紅茶が運ばれて
辺境領に来て半月が過ぎた頃、王都から、匿名の早馬が届いた。
差出人は商業ギルドの老ギルド長、グレゴリー氏だった。
『ヴィスコンティ公爵家の今期四半期、税収二割減の公算。ギルド内にて非公式に報告済。貴公の件と関連があるかと思われ、念のため、お伝えいたします』
老人らしい、素っ気ない字だった。
机の上で、ひらりと一枚、風に煽られた。
——二割、減。
想定より早かった。
◇
昼食のあと、執務室の隣の作業室に、ミア嬢がお茶の盆を持って顔を出した。
「お義姉さま、ひと休みしませんか」
「あと、この書類だけ」
「お兄様もそう仰って、結局三時間出てこないんですよ」
「……ウィル様は、何をそんなに」
「お義姉さまの字の書類を、何度も読み返してます」
ミア嬢はけろっと言った。
湯気の立つ茶器を私の手元まで運ぶと、彼女は向かい側の椅子にちょこんと座った。
「お聞きしてもいいですか、お義姉さま」
「なんでしょう」
「ヴィスコンティのご令息様って、どういう方でした?」
ペンを止めた。
ミア嬢の目は、子供の好奇心の形ではなかった。十五歳の妹君の目は、思ったより、だいぶ大人だった。
「——詩と剣術のお上手な方でしたよ」
「あと」
「あと……」
少しだけ、考え込んだ。
「声が、綺麗でした」
「声」
「朗読の会で、吟じられると、会場中がしんと静まって」
ミア嬢は少し待った。それから、ゆっくりと頷いた。
「声、でしたか」
「ええ」
「……声だけ、だったんですね」
私は、答えられなかった。
妹君は茶器の縁を指でなぞり、一度だけ、そっと肩をすくめた。
◇
同じ頃。
王都、ヴィスコンティ公爵邸の執務室。
革張りの椅子に座った父、ヴィスコンティ公爵の指が、机の四分の一ほどを占領した帳簿の山の上で止まっていた。
帳簿を開いた父の目は、一点を見ている。
右の頁の下段、細かく書き込まれた改善案の、その字の端正さを。
「アルフレッド」
「……はい、父上」
執務室の扉の前で、私は父に呼び出されていた。
「この八年の領地報告書、お前が書いたものはいったいどれだ」
喉が、鳴った。
答えを用意していなかった。
「いえ、父上、それは」
「どれだ」
父の声が低くなると、昔から、風の止まる感じがした。
執務室の窓の外で、いつもさえずっているはずの雀が、今日は一羽も鳴いていない。
「……どれも、僕は監修を」
「監修」
「はい、監修を」
「筆跡は」
「——代筆を、頼んだことは、あります」
「誰に」
「そ、それは」
「誰に、頼んだ」
帳簿の右の頁の、余白の、細かな字。
父の目が、私の顔にゆっくりと戻ってくる。
わかっているのだ、父上は。
知っていて、見ないふりをしてきたのだ。それをやめる決心を、たぶん今日、なさったのだ。
僕は、口を動かそうとして、動かせなかった。
◇
執務室を辞したあと、長い廊下を歩きながら、僕はずっと右手を握り直していた。
婚約解消の日、セシリアの肩を抱いていたこの手が、なぜか妙に冷たかった。
あの日、リリアーナは笑って、お祝いの品を発注した。
「——お気遣いなく。もう他人ですので」
馬車に乗る前、廊下の角を曲がり際に、彼女が小さく呟いた声を、僕は確かに聞いていた。
他人。
当然のことを、当然に、あの人は口にしただけだった。
なのにその一言が、どうしてか、今頃になって、喉のあたりに引っかかっていた。
◇
夜もすっかり更けた頃。
ブランハルト城、東棟の執務室。
私はまだ、新規契約書の最終精査に追われていた。ランプの火芯の長さを、何度か、自分で整え直した。
——こつ、こつ。
控えめな、遠慮がちなノックだった。
「……リリアーナ嬢、まだ起きてますか」
「はい、どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、ウィル様だった。寝着の上に、羽織りを一枚だけ着ている。
両手に、お盆。湯気の立つティーポットと、カップが二つ。それから小さな紙袋。
「紅茶、淹れました」
「……え、ウィル様、ご自身で」
「僕、料理は苦手なんですが、紅茶を淹れるのは妹に教わっていて」
お盆を机の端に置いた。
「ただ、火加減を間違えました。——ぬるいです」
湯気はちゃんと立っていた。けれど、カップに注がれた紅茶の色は、確かに少し薄かった。
紙袋を差し出してきた。
「これは、領都の菓子店で買ってきたクッキーです」
「買って、こられたんですね」
「焼くのは、もう、無理です」
真顔だった。
噴き出しそうになって、私は慌てて口元を手で隠した。
◇
紅茶はぬるかった。
でも、美味しかった。
クッキーには、バターの甘い香りがしっかりあって、齧ると、小さな欠片が机の紙の端に落ちた。ウィル様はそれを几帳面に、指で一つひとつ拾った。
——この方、こういうところ繊細なのだ、と気づいた。
机の向かい、寝着姿のウィル様は、普段の武門の主の気配ではなかった。戦場の指揮官でもない。ただ、眠れなくて紅茶を淹れに来た、一人の二十八歳の男性だった。
「——ご無礼でしょうか」
ぽつりと、私は聞いた。
「なにが、です」
「なぜ、こんなに、私に、良くしてくださるのですか」
ウィル様は、一度、カップに目を落とした。
それから、顔を上げた。
「——君が頑張っているからです」
声の温度が、少し低かった。
「僕は、頑張る人が好きです」
机の上で、クッキーの欠片を拾っていた彼の指が、止まった。
(——耳、熱い)
自分の耳の熱さに気づいて、それから、その後で、胸の真ん中がどん、と鳴った。
ぬるい紅茶だったはずなのに、なぜか頬のあたりまで、熱が上がっていた。
口を動かそうとして、言葉が出てこなかった。
代わりに、私はカップを、両手で包んだ。
磁器のぬるくて穏やかな温度だけが、手の平に残っていた。
◇
ウィル様が執務室から出ていったあと、私はしばらく動けなかった。
ランプの火が、ちりっ、と小さく鳴った。
誰かに「頑張っている」と言われたのは、——いつぶりだろう。
前世の社畜時代、誰にも言われなかった。
今世の八年間、公爵家の誰にも、一度も、言われなかった。
そういえば、お父様だけは、「無理をするな」とは時々仰ってくださった。
でも、「頑張っている」とは少し違う。
椅子の背に、私はゆっくりと背中を預けた。
天井の梁の影が、ランプの揺れに合わせて、静かに動いていた。
——この人のそばで、働きたい。
辺境領を峠から見下ろした時の思いが、もう一段深いところに、沈んでいった。
◇
翌朝、私の机の上に、もう一通、手紙が届いていた。
見慣れない、繊細な筆跡だった。
差出人は、モランド男爵令嬢セシリア。
封を切る前に、私はランプの火をもう一度、短く整えた。




