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『好きな人ができた』──で、お祝いは何がお望み?  作者: 秋月 もみじ


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第2話 三年分の資料を携えた辺境伯が、朝からやって来ました


早朝の侯爵邸の玄関ホールに、よく通る声が響いた。


「おはようございます! ブランハルト辺境伯領より、ウィル・ブランハルトと申します!」


まだ朝食の片付けも終わっていない時間だった。


私は寝着の上からガウンを羽織ったまま、階段の踊り場で足を止めた。


昨夜執事から聞いた伝言を、正直まったく真に受けていなかった。——三年前からずっとお会いしたかった。そんな台詞は、変わり者の辺境伯の気まぐれか、あるいは何かの挨拶の比喩か、せいぜいその程度のものだろうと思っていた。


ところが玄関ホールに立っている男性は、どう見ても真面目に早朝から来ていた。しかも両腕に、抱えきれないほどの書類の束を。


「リリアーナ嬢! お会いできて光栄です。朝からお邪魔して本当に申し訳ないのですが」


踊り場から見下ろした私と、彼の視線が合った。


笑みを隠そうともしない顔だった。王国東端の武門の主というより、朝の散歩で飼い主に会えた大型犬みたいな顔だった。


(……軍犬かな、この方)


     ◇


応接間に通してから、私は自室で急いで着替えを済ませた。髪もきちんと結い上げたかったのだが、間に合わなかったので、後ろで一つに束ねただけで降りていった。


その間も彼は、書類を一枚も机から落とさないよう、両手で大事そうに抱えていたらしい。


湯気の立つ紅茶を前にして、ウィル様は書類を一つひとつ、ゆっくりと机に並べはじめた。


「これが、三年前から今年の春までの、公爵領商業ギルドの取引記録の写しです」


「……はい?」


「こちらが、同じ期間であなた個人の登録印で締結された契約の一覧」


「……はい?」


「そしてこれが、あなたと取引先商会三十一件との、過去の交渉記録の、私なりの分析書」


机に、紙が積まれていく。一枚一枚が、明らかに、私の筆跡を私の仕事を、誰かが執念深く追いかけた痕跡だった。


カップを包んだ指の先がふいに冷たくなった。


「——辺境伯様。これはいったい」


「ウィル、で結構です」


「……ウィル様。これは、どうして、こんなに」


彼は一瞬、照れたように後頭部をかいた。その仕草と屈強な肩幅の組み合わせが、どこか不釣り合いに見えた。


「商業ギルドで、あなたの登録印の書類をはじめて見たのが、三年前でした」


「……はい」


「書類の隅に、余白が余らないくらいの細かい字で、取引先の事情を考慮した改善案が書き添えてあって。——こんなに真面目に仕事をする人が貴族社会にいるのかと思ったんです」


顔を上げた。


その年の冬の記憶が、唐突によみがえった。北部で凶作があって、穀物商会がいくつか傾きかけていた頃だ。アルフレッド様は「商人のことは商人が何とかするだろう」と仰ったから、私が代わりに週二度、馬車で通った。粉引料の一時免除を、三回の会談で取りつけた。


あの時の書類を、この人は見ていた。


(……へえ)


心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。


遅れて、かすかなくやしさのようなものが湧いた。——私の仕事を見ていてくれた人が、これまでの八年間、公爵邸には一人もいなかったのだ、と気づいてしまったからだった。


     ◇


「単刀直入に申し上げます」


ウィル様の声が、少しだけ真剣な色になった。


「辺境伯領の商会に、来ていただけませんか」


予想していた提案だった。ただ、続きのほうが予想を超えていた。


「月給は五十万ゼル。成果に応じた歩合が別途。領都の中心部に住居を一軒ご用意します。——そして」


一番下にあった紙を、彼は取り出した。


「商会の共同経営権を、あなたに」


机に置かれた紙を、私はもう一度読み直した。


「……共同、経営」


「はい」


「雇用、ではなく」


「はい」


ウィル様がまた少し笑った。


「雇うんじゃない、と申し上げたでしょう。——僕は、あなたと組みたいんです」


応接間の時計の音が、急に大きく聞こえた。


(……え?)


頭の奥で、前世の私が混乱した声を上げていた。年収がいくら? 雇用ではなく? 共同経営者扱い?


前世、私は社畜だった。勤続十年で、最後の日にすら、誰からも「お疲れさま」の一言をもらえなかった。


今世でも、アルフレッド様から「ありがとう」と言われたことは、ただの一度もなかった。


なのにこの人は、会って半刻も経たない私に、こんな。


「父に、相談させていただいても」


「もちろんです」


声が、自分でも少し震えていた気がした。


     ◇


執務室から降りてきた父は、いつも通りの穏やかな顔でウィル様に挨拶をし、それから書類を手に取った。


ぱらぱらと紙をめくる音だけが、しばらく続いた。


父は読書家で、人の書いた字を一目で見抜く癖のある人だった。私の字も、十七歳の頃から、ほぼ毎晩、夜更けの執務室の机の上で見てきた人である。


紙をめくり終えると、父は私のほうを向いた。


「リリアーナ」


「はい、お父様」


「お前はどうしたい」


——私はどうしたいのか。


昨日まで、私は公爵家の次期夫人だった。

昨日から、私は公爵家と無関係の、二十三歳の独身令嬢になった。

そして今朝、私の仕事を三年追いかけてきた辺境伯が、私と組みたいと言っている。


口が勝手に動いた。


「——参ります。辺境伯領に」


父はそれ以上、何も聞かなかった。ただウィル様に向かって、ゆっくりと一礼した。


「娘をよろしくお願いいたします、ブランハルト卿」


ウィル様は、少しだけ驚いたような顔をした。それから勢いよく立ち上がり、父よりも深く頭を下げた。


「必ず、お守りいたします」


——守る、とまで仰るでしょうか、普通。


私は内心、もう一度冷や汗をかいていた。


     ◇


ウィル様が馬車で帰ったあと、私は応接間に一人で戻った。


机の上には、書類の山がそのまま残されていた。


「お持ち帰りを」と言ったら、彼は首を横に振ったのだった。


「これは、あなたの仕事の記録です。——あなたにお返しするのが筋でしょう」


私の、仕事の、記録。


その言葉を、胸の中で何度か繰り返した。


椅子に腰を下ろし、一枚、手に取った。


十九歳の春、ヴィスコンティ領北部穀物商会との、三回目の会談記録だった。


右上の小さな走り書きに、「雨、夕刻には晴れ」と自分の字で書いてあった。あの日の帰り道、馬車を降りたら靴の底が泥でぐしゃぐしゃだったことを、ふと思い出した。侍女に「また泥仕事ですか、お嬢様」と呆れた顔で出迎えられたことも。


目の奥がじわりと熱くなった。


泣きたいわけではなかった。

悲しいわけでもない。

ただ自分が書いた字が、こうして自分の手元に戻ってきているその一事が、どうしてもうまく飲み込めなかった。


——出立は、三日後。


書類の束を胸に抱えた。


紙は、思っていたより少し、あたたかかった。

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