第1話 好きな人ができた
「他に好きな人ができた」
初夏の応接間に、婚約者の声が落ちた。
白いテーブルクロスの上、紅茶の湯気がまっすぐに立ち上がっている。窓の外では、庭の桃の実が色づき始めていた。
——ああ。前世の退職祝いのベルって、こんな音だったかしら。
いや、落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け、私。
アルフレッド・ヴィスコンティ公爵令息様が、今、はっきりとそう仰った。八年前に王家の証人の前で指輪を交わしたあの方が。
「……もう一度、仰っていただけます?」
「僕には、他に、本当に愛する女性がいる」
ああ、聞き間違いじゃなかった。
アルフレッド様の背後、応接間の扉の陰から、ひっそりと小柄な影が進み出た。
モランド男爵令嬢セシリア様。最近、アルフレッド様が王都の詩作会で「才能を見出した」とやらの、あの令嬢である。
彼女は私の前まで来ると、ハンカチを目元に当て、顔を上げた。
「リリアーナ様……奪うような真似を、どうかお許しくださいませ」
涙の粒が、磨かれた大理石の床に、一滴、落ちた。
(タイミング、ちょっと出来すぎでは?)
でも、そんなことはもはやどうでもよかった。アルフレッド様の手が、当然のようにセシリア様の肩を抱き寄せている。八年間、ただの一度も私の肩には回されなかった、あの手が。
信じていた。
信じていたのだ。
——信じたかった、が正しい。
私はカップを持ち上げた。紅茶を一口、静かに飲む。
ぬるい。いつの間に冷めたのか。
「——おめでとうございます」
アルフレッド様が、虚を突かれた顔をした。
「リリアーナ……?」
「お二人の愛が実られましたこと、心よりお祝い申し上げます。婚約解消の書類は、後ほど正式に手続きいたしましょう」
セシリア様の涙が、不自然な角度で止まった。
(ご安心を。あなたの演技に免じて、私は嘆きも泣きも致しません)
「それで——お祝いには、何をお贈りいたしましょう?」
応接間の空気が、不意に凍った。アルフレッド様は「いや、しかし」と口ごもっている。こういうとき、この方、全然切り返せない。八年見てきたから知っている。
「折角ですもの、商会からお取り寄せいたしますわ」
呼び鈴を鳴らした。
執事が扉の向こうから、お抱え商人のハインツ商会主を連れてきた。ハインツ氏は私の顔を見た瞬間、状況を察したらしい。齢五十の老商人は、八年分の付き合いがある。
「ハインツさん。アルフレッド様とセシリア様のご婚約祝いに、最高級のエルフィン産ワインを一樽」
「かしこまりました、リリアーナ様」
「それと——」
私は机の引き出しから、細長い封筒を取り出した。朝、支度の合間に、念のため整えておいた書類である。
(そう。いつかこの日が来ると、どこかで思っていたのでしょうね、私)
「私個人の書類も、同じ馬車で商業ギルドまで届けていただけます?」
「……かしこまりました」
ハインツ氏の背後に立っていた若いアシスタントが、封筒の宛名書きを一瞬だけ目にした。
その顔から、さっと血の気が引いた。
(気づいた? そう、あなたは気づける人ね)
アルフレッド様は一瞥もしない。「個人的な書類」と聞いて、ドレスの発注か、実家への季節の便りか——その程度に思っている顔だ。
セシリア様は、まだハンカチを目に当てている。もう涙は出ていないようだった。
「では、失礼いたします」
私はカップを置いた。ソーサーと触れる音が、乾いて響いた。
◇
実家のクレイドル侯爵家までの馬車の中。
日没前の光が小窓を斜めに差している。車輪の音だけが規則正しく続いていた。
私は膝の上で、自分の両手を見下ろしていた。
ここで、前世の記憶がふっと戻ってきた。
正確には、ずっと思い出していたのに忘れたふりをしていたのが、もう隠せなくなった、という感じだった。
鳴り響く退勤チャイム。
誰もいないオフィス。
机の上の段ボール箱。
——そうだ。私、あの日、倒れたのだった。
商社経理部、勤続十年。誰にも褒められないまま、誰にも惜しまれないまま、夜の廊下で。
それから七歳でこの世界に目を覚まし、公爵家の婚約者に選ばれた。
「頑張らなきゃ」と思った。
十五歳で婚約が正式に成立してから、私は毎朝五時に起きて、公爵領の商取引書類に目を通してきた。アルフレッド様の代わりに。サインは公爵家紋ではなく、自分個人の登録印で。「仕事を回すため」と言って父公爵を説得した、あの日から、ずっと。
(今世こそ、誰かに愛されたいと思っていたのになあ)
馬車の揺れに合わせて、笑いが少しこぼれた。
「……お気遣いなく。もう他人ですので」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
アルフレッド様か。セシリア様か。それとも——誰にも見つけてもらえなかった、八年間の私自身に、か。
ハインツさんが、私の封筒を、今頃、商業ギルドに届けている。
宛名は、ヴィスコンティ公爵家が個人名義で締結してきた商取引契約、三十一件の——
**解除通知。**
◇
馬車が侯爵邸の門をくぐった。
玄関の段の上で、父の執事が待っていた。
「リリアーナ様。明日、ブランハルト辺境伯様がご来訪されるとのご伝言が届いております」
聞いたことのない名前だった。いえ、名前だけは知っている。王国東端の武門。王家の盾。会ったことはない。
「なんのご用件か、伺っておられます?」
「それが——」
執事が、少し困った顔をした。
「『三年前からずっと、お会いしたかった』と」
……は?




