第3話 辺境領へ五日間の馬車旅、外套の重みで気づいたこと
目覚めたら、肩の上に知らない重みがあった。
革の匂いと焚き木の煙と、鞣した皮の混ざった匂いがした。
自分のものではない外套だ、と気づくのに少し間が要った。
視界の端で、馬車の小窓の外を、朝の淡い光に染まった森が流れていく。輪郭の上に薄く霧がかかっている。——辺境領の、山の朝だった。
「起きられました?」
横から、抑えた声がした。
慌てて顔を上げると、ウィル様が向かいの席ではなく隣の席にいた。膝の上で書類を広げている。
外套の重みの意味が、遅れて頭に入ってきた。
「……これ、ウィル様の」
「ああ、はい。冷えるので」
彼は普通の顔のまま、書類をめくった。
普通ではないのは、私のほうだった。
(……なんで、隣の席?)
襟の内側に、古い繕いの痕が一つあった。誰かの丁寧な針目。城の侍女か、それとも妹君か。その縫い目をぼんやり見ていたら、胸のどこかが、また少しざらついた。
◇
五日前に王都を発ってから、私は準備の慌ただしさと旅の緊張で、ほとんど眠れずにいた。それが昨夜、宿場町を出てから、思いがけずうとうとしてしまったらしい。
「あの、私、どのくらい寝ていました?」
「五時間くらい、じゃないですか」
後ろの座席から、明るい声が答えた。
ウィル様の妹君、ミア・ブランハルト嬢。十五歳の小柄な少女で、ヴィスコンティ領の近くで合流してからずっと、私を「お義姉さま」と呼びたくて仕方がない顔をしていた。
「お兄様、ずうっとそこに座ってるんですよ、リリアーナ様」
「ミア」
「え、だって事実ですし」
ウィル様の耳の縁が、夕焼けのような赤さになった。武門の主の顔ではなかった。先日大型犬のようだと思ったけれど、今はなにか粗相を悟った子犬のほうがしっくりきた。
「五、時間……」
「はい、ずっと書類を見ていらしたんですけど」
「それは、あの、仕事が」
「余白に書き込みしていたのは最初だけで、途中からは同じ頁を開きっぱなしでした」
ミア嬢のご指摘は容赦がなかった。
ウィル様が咳払いを一つして、小窓のほうへ視線を逃がした。
(……人って、照れると本当に耳から赤くなるんだなあ)
知っていたつもりのことを、私は改めて観察していた。前世でも今世でも、そんなに真っ赤な耳を隣の席で見たことはなかった気がした。
◇
馬車が峠を越えた時、ミア嬢が「あ」と小さく声を上げた。
「お兄様、見えました」
ウィル様が小窓のほうに身を寄せた。私もつられて。
眼下に、広い盆地が開けていた。山に囲まれ、川が中央を横切り、その流れに寄り添うように、武骨な灰色の石の城が立っていた。城の南には碁盤目状の領都が広がっている。朝の湯気のようなものが、いくつもの場所から立ちのぼっていた。
「あの煙、鍛冶場です」
ミア嬢が小窓越しに指さす。
「辺境領は鍛冶が盛んなんですよ、国境の鎧はだいたいうちで打ってるので。朝は領都中、鉄の匂いが漂ってます」
私は膝の上の手を、そっと握り直した。
ここで働くのだ、と、初めて実感した。
五日前まで、公爵家から離れるという事実のほうが先に立っていて、行き先をちゃんと想像できていなかった。でも今、眼下の知らない街の、石の屋根の連なりを見ていると、妙に胸の奥が騒いだ。
(ここで、働きたい)
生まれて初めて、その順番で思った。
「頑張らなきゃ」でも、「やらねば」でもなく。
「公爵家の恥にならないように」でもなく。
——ここで、働きたい。
◇
城に着いてから荷を預けるまでの慌ただしさで、記憶は少しぼやけている。
ブランハルト城の侍女たちは、明るく気さくだった。「リリアーナ様、長旅おつかれさまでした!」と、まるで昔からの知り合いのように私の旅装を受け取っていく。ミア嬢はずっと私の袖の端を掴んだまま、東棟のどの部屋がどういう部屋かを端から説明していった。兄が通っている道場の剣術師のあだ名や、厨房の老犬の名前まで、ついでに。
「——で、ここが、お兄様の執務室」
「ミア」
「失礼、ノックしろって言ってますよね」
ウィル様は既に机の向こうで書類を広げていた。顔を上げて、困ったように笑う。
「妹が申し訳ない」
「いえ、ご案内、助かりました」
そう返しながら、私の視線は、机の奥の壁のほうへ逸れていた。
天井まで届く書棚があった。
見るつもりなどなかったのだ。ただ、部屋に入った拍子に、視線が棚の高さで止まってしまった。
背表紙が、見慣れていた。
「——あら」
見慣れすぎていた。
『ヴィスコンティ領北部農政改善私案』
『王都—辺境交易路における粉引料の一体化提言』
『商業ギルド登録制度と女性貴族の実務参加について』
どれも私が十七の頃から、公爵家の公務の合間に書き溜めた論文の写本だった。書いた当人が数えようとして、指が止まった。棚の一角に、ざっと十数冊。
(辺境伯様なら、当然、目を通されるのかしら)
交易路の提言は、実際、辺境領の関わる話だった。だから収集は筋が通る、と私は自分を納得させた。
背後で、ミア嬢がちょっと笑った気がした。
振り返った時には、彼女は壁際の絵の埃を小さく払っていた。
◇
その夜、領都一のご馳走だという猪肉の赤ワイン煮を囲んでいたところに、従卒が息を切らして食堂に飛び込んできた。
「辺境伯様、王都から急ぎの伝書が」
ウィル様が封を切る。目が文字を追う。
それから、私のほうを見た。
「リリアーナ嬢。——ヴィスコンティ家のほうで、商会取引に多少の問題が出ているようです」
匙が、私の手の中で止まった。
多少の、問題。
その婉曲な言い方が、胸の中で、思いがけず、甘く響いた。
赤ワインソースの匂いが、鼻の奥で、ぼんやりと霞んでいた。




