第7話「異変」
地震から数日が過ぎた。
町には、少しずつ明かりが戻り始めていた。
すべてではない。
夜になれば、まだ暗い通りの方が多い。それでも、昨日まで消えていた建物に明かりがつくだけで、人々は足を止めた。
「あそこ、電気戻ったんだって」
「じゃあ、こっちもそのうちだな」
そんな声が聞こえる。
水が出るようになった場所もあった。
動く車もある。
店に残っていた商品を並べ直す人もいる。
町は、元に戻ろうとしていた。
少なくとも、みんなそう思っていた。
レイと父は、その日も母を探していた。
ルカも一緒だった。
前日までに確認した避難所には、地図に印がついている。
その日は、まだ行けていなかった病院や臨時の安否確認所を回ることにした。
「次、ここだよね」
レイが地図を指さす。
父が頷く。
「ああ。そこを見たら、その先の病院にも寄る」
受付で写真を見せる。
名前を伝える。
「蒼宮香織という女性を探しています」
職員が記録を確認する。
少しして、首を横に振った。
「申し訳ありません。こちらでは確認できません」
「そうですか。ありがとうございます」
また一つ、地図に印が増えた。
見つからない。
けれど、何もしていないわけではない。
確認した場所は増えている。
まだ行けていない場所も分かってきた。
それでも、香織につながる手がかりはなかった。
レイは外へ出ると、地図を折りたたんだ。
「次、病院行こう」
父は一瞬レイを見て、それから頷いた。
「ああ」
ルカが足元で小さく鳴いた。
そのころ、前日に工場で起きた「修理の手順が出てこない」という異変は、一件だけではなくなり始めていた。
別の工場からも、同じように設備の前で作業員の手が止まったという報告が上がる。正常な機械は使える。けれど、壊れたものを直そうとすると、その先が分からない。
疲労や混乱だけでは説明できない事例が、少しずつ重なっていった。
病院では、もっと切実な形で異変が起きていた。
地震で崩れた建物から救助された男性が運び込まれていた。
腹部を強く打ち、出血が続いている。
医師は検査結果を確認した。
「このままじゃ危ない。緊急で手術する」
看護師たちが動き出す。
患者は手術室へ運ばれた。
手術灯が点く。
器具が並べられる。
麻酔の準備も進む。
そこまでは、いつも通りだった。
執刀医が手を差し出す。
「メス」
看護師が渡す。
医師はそれを握った。
そして。
手が止まった。
「……先生?」
医師は患者を見る。
状態は分かっている。
このままでは危険なことも分かっている。
手術が必要なことも分かる。
手の中にあるものがメスだということも分かる。
◇
なのに。
「……ここから、どうしてた?」
手術室が静まり返った。
「何を……どこから……」
何度もやってきたはずだった。
昨日までなら、考えるまでもなく身体が動いていた。
切開する位置。
その先の手順。
処置の方法。
思い出そうとすると、そこだけが霧の中へ入ったように掴めない。
「代わります」
別の医師が前へ出た。
患者を見る。
メスを見る。
そして、その医師の手も止まった。
「……なんでだ」
誰も答えられなかった。
必要な器具も。
手術室も。
記録も。
すべて目の前にある。
それでも、手術を始められる人間がいなかった。
最初は、どこでも同じ説明がされた。
疲労。
混乱。
強いストレス。
大地震の直後なのだから、不思議ではない。
だが。
同じような報告が増えていった。
工場。
病院。
通信設備。
電力設備。
昨日までできていた専門的な作業の、その先だけが出てこない。
そして人々は、当たり前のことを試した。
思い出せないなら、資料を見ればいい。
工場の事務所。
机の上に、何冊もの資料が積まれた。
設備を導入したときの資料。
過去の故障記録。
作業員たちが自分で書き残したメモ。
一人の作業員がページを開く。
「これだ」
見覚えのある文字だった。
余白には、自分の字で書いたメモまで残っている。
「これ、俺が書いたやつだ」
「なら分かるだろ」
作業員は黙った。
文字は読める。
書いてある単語も分かる。
けれど、その手順を実際の作業として頭の中につなげようとすると、意味がほどけていく。
「……分からない」
「自分で書いたんだぞ」
「分かってるよ」
男の声が強くなった。
「分かってるけど、分からないんだよ!」
部屋が静かになった。
男はすぐに俯いた。
「……悪い」
誰も責めなかった。
隣にいた作業員も、同じ資料を読んでいたからだ。
その男もまた、途中から先へ進めなかった。
文字が消えているわけではない。
資料が壊れているわけでもない。
必要な情報は、そこに残っている。
それなのに、人間の側が受け取れない。
別の工場では、パソコンに保存されていた図面が開かれていた。
ファイルは壊れていない。
寸法も見える。
部品の名前も読める。
矢印も、番号も残っている。
「この図面を作った人、呼べないのか?」
一人が聞いた。
「もういます」
部屋の奥にいた男が顔を上げる。
その図面を作った本人だった。
男は画面へ近づき、何度も拡大する。
線を追う。
寸法を見る。
自分で付けた注記を読む。
「……これ、俺が設計したんだよな」
「そうです」
「覚えてる。作ったことは覚えてる」
男は画面を指さした。
「でも、この線をなんでここに引いたのかが分からない」
誰も返事をできなかった。
◇
「この部品を、どう加工してた?」
別の作業員が聞く。
設計者は口を開きかけた。
けれど、言葉が出ない。
作った記憶はある。
働いていた記憶もある。
その知識だけが、途中から抜け落ちていた。
同じ訴えが、別々の場所で繰り返され始めていた。
前は分かっていた。
前はできた。
昨日まで知っていた。
失くしたことに気づくには、その知識を使おうとしなければならなかった。
だから地震が起きた瞬間、人類はまだ、自分たちが何を失ったのかさえ分かっていなかった。
病院でも同じだった。
医学書。
手術手順書。
過去の手術記録。
全部残っている。
若い医師がページをめくる。
「昨日まで知ってたはずなんです」
何度も同じ場所を読む。
「勉強した。試験も受けた。何度もやった」
それでも戻ってこない。
読める。
けれど理解できない。
理解できても、実際の処置へつなげられない。
記録を見ても。
映像を見ても。
失われたものは戻ってこなかった。
ニュース番組には、海外の大学や研究所から届いた映像も並び始めた。
設備の被害がほとんどない建物でも、人が資料の前で立ち尽くしている。
国も。
言葉も。
職業も違う。
それなのに、起きていることだけが似ていた。
夕方。
レイたちは、小さな病院の受付にいた。
香織の写真を見せる。
年齢。
髪型。
服装。
職員が記録を確認した。
「申し訳ありません。該当する方は確認できません」
「そうですか。ありがとうございます」
また同じ答えだった。
外へ出ると、レイは病院の建物を見上げた。
「母さん、怪我してないよね」
父は立ち止まった。
「分からない」
「……うん」
「でも、ここにもいなかった。それは分かった」
父は地図を開く。
「次に確認する場所を決めよう」
レイも地図を覗き込んだ。
一つずつ、分からない場所を減らしていく。
それしかできなかった。
その夜。
避難所のテレビから、異変についてのニュースが流れた。
『地震後、一部の専門職で、これまで行えていた作業ができなくなったとの報告が相次いでいます』
画面には止まった工場が映る。
次に病院。
さらに通信設備。
『当初は、強い疲労や睡眠不足、災害による心理的影響などが原因として考えられていました』
映像が切り替わった。
海外だった。
アメリカ。
ドイツ。
韓国。
国が変わっても、映っている光景は同じだった。
工具を持ったまま設備の前で止まる技術者。
資料を見つめたまま首を振る研究者。
医学書を開いたまま動けない医師。
『また、海外でも極めて類似した事例が確認されています』
レイが父を見る。
「……海外でも?」
父は画面から目を離さなかった。
「みたいだな」
「同じ地震だったから?」
「分からない」
少しして父が続ける。
「ただ、揺れがほとんどなかった地域でも報告が出てる」
レイはもう一度テレビを見る。
建物は立っている。
道路も壊れていない。
それでも、人だけが分からなくなっている。
「じゃあ……地震で頭打ったとかじゃないんだ」
「少なくとも、それだけじゃ説明できない」
テレビでは、専門家が自分で書いた資料を理解できなくなった事例まで紹介されていた。
避難所のあちこちから声が上がる。
「忘れただけなら、勉強し直せばいいだろ」
「資料があるんだろ?」
誰も、その疑問に答えられなかった。
レイも同じことを考えていた。
忘れたなら、もう一度覚えればいい。
学校の勉強ならそうしてきた。
けれど画面の中の人たちは、答えを目の前に置かれても戻ってこない。
「……変だよね」
「ああ」
父の返事は短かった。
そのとき、画面の下に速報が出た。
《政府 明朝9時、緊急記者会見へ》
避難所の空気が変わった。
「何か分かったのか?」
「原因が出るのか?」
人々がテレビへ視線を向ける。
レイも画面を見つめた。
父は画面に表示された「明朝9時」という会見時刻を確認する。
「それまでに、明日の捜索先を決めておこう」
レイは頷いた。
世界で何が起きているのか。
母はどこにいるのか。
答えのない二つの問題が、同じ夜の中に並んでいた。




