第6話「復旧作業」
翌朝。
レイが目を覚ますと、ルカはすぐ隣にいた。丸くなった黒い背中に、淡い青が静かに浮かんでいる。昨日までなら、それだけで安心できた。
けれど、母はまだ帰っていない。
父はすでに起きていた。
スマホを片手に、避難所でもらった地図を広げている。
「父さん」
「起きたか」
「今日も探そう」
父は頷いた。
「ああ。昨日行けなかったところを回る」
ルカが顔を上げた。
「ルカも行く?」
「にゃ」
レイは少しだけ笑った。
「だよな」
また町へ出た。
午前中、昨日より遠い場所まで歩いた。途中、道路脇で水を配っている人たちがいた。
レイたちも一本ずつ受け取る。
「ありがとうございます」
父が頭を下げる。
その隣では、何人かの大人が倒れた看板を起こしていた。別の場所では、店の前に散らばった商品を拾い集めている。
昨日より町は動いていた。
それがレイには少しだけ嬉しかった。
「みんな、戻そうとしてるんだね」
「ああ」
「家も直せるかな」
父は一瞬だけ答えに詰まった。
「まず安全に入れるようにしないとな」
「ルカの窓も」
「ルカの窓?」
「割れたところ。あそこから出たんだろ」
レイは足元のルカを見る。
「命の恩人の窓だから、塞ぐのちょっとかわいそう」
父が笑った。
「雨入るぞ」
「じゃあ猫用の扉つけよう」
「自分で開けられるだろ、こいつ」
「にゃ」
「ほら、欲しいって」
「今のどこがだよ」
地震のあと初めて、レイは少し長く笑った。その笑いが消えると、また母を探した。笑ったからといって、心配がなくなるわけではなかった。
昨日より人の動きが増えていた。道路の端では瓦礫をどかす人たちがいる。給水所には長い列ができ、避難所の入口では食料が配られていた。
信号は消えたままの場所もあった。けれど、少し先の通りでは店の看板に明かりがついていた。
「電気、戻ったんだ」
レイが言う。
父もそちらを見た。
「全部じゃないみたいだけどな」
それでも、その明かりを見ている人たちの顔は少し明るかった。
誰かが言った。
「少しずつ戻ってるな」
別の誰かが答える。
「早くもとの生活に戻りたいよな」
レイは早く母さんに会いたい、それだけだった。午前中は昨日より遠い避難所まで足を延ばし、名簿と受付の記録を確認した。
けれど、母の名前はなかった。
昼過ぎ、レイたちは家へ戻った。近所でも片づけが始まっていた。向かいの家の男性が、倒れた棚を外へ運んでいる。
少し先では、数人で瓦を集めていた。
「手伝いますか?」
父が声をかけると、男性は首を振った。
「そっちも大変でしょう。まず自分の家やってください」
「何かあったら呼んでください」
「そちらもね」
昨日までは挨拶を交わす程度だった人たちが、今日は互いの家を気にしていた。レイは玄関周りの小さな破片を集めた。
ルカはその横をうろうろする。
「危ないから中入ってろ」
「にゃ」
「肉球切るぞ」
ルカはレイを見る。
「分かった?」
「にゃ」
数歩だけ家の中へ入る。
レイが作業へ戻る。
少しすると、またルカが出てくる。
「おい」
父が吹き出した。
「言葉分かってても、言うこと聞くとは限らないんだな」
「そこは普通の猫なんだよ」
レイはルカを抱き上げ、比較的安全な場所へ移した。こんな時間が、妙にありがたかった。
壊れた家を片づけているのに。
母はまだ見つかっていないのに。
ルカが邪魔をして、父が笑う。
その瞬間だけは、昨日までの家族の時間に触れられた気がした。壊れた窓には、父が板を立てかけた。割れた食器を端へ寄せ、倒れたものを少しずつ片づける。
水道はまだ出なかった。
電気も来ていない。
それでも、昨日よりは家らしくなった。レイは床に座り、配給でもらったパンをちぎった。
ルカが隣から見上げている。
「これはダメ」
「にゃ」
「そんな顔してもダメ」
ルカはしばらくレイを見つめたあと、父の方へ向かった。
「父さんのとこ行っても同じだからな」
父が小さく笑った。
ほんの少しだけ。
昨日までなかった笑い声が、家の中に戻った。片づけを続けていると、レイは倒れた棚の下に写真立てを見つけた。
「父さん、これ」
拾い上げると、表面のガラスに大きなひびが入っていた。
中の写真は無事だった。
少し前に、四人で撮った家族写真。父と母。レイ。そして、レイに抱かれたルカ。
「写真は大丈夫そうだな」
父が覗き込む。
「うん」
レイは割れたガラスを慎重に外した。足元へ来たルカが、写真の匂いを嗅ぐ。
「ほら。お前もいるぞ」
写真を見せると、ルカは一度だけ鼻を近づけ、そのまま顔を背けた。
「興味なしかよ」
「自分の顔なんて分からないだろ」
「言葉は分かるくせに」
「にゃ」
父が笑った。
レイも笑ってから、もう一度写真を見る。
母も笑っていた。
レイは写真についた埃を指で払った。
「……母さん帰ってきたら、新しいの買おう」
「写真立て?」
「うん。今度は割れないやつ」
「そんなのあるのか?」
「知らない」
二人とも少し笑った。
レイは写真を机の上へ置いた。
捨てるものと残すもの。
壊れた家の中で、一つずつ分けていった。ルカはその横で、丸めた紙を前足で転がしていた。
「それゴミだから遊ぶなって」
レイが取り上げると、ルカはすぐ別の紙へ手を伸ばす。
「お前、片づける気ないだろ」
「にゃあ」
「絶対分かっててやってる」
父の笑い声が、また家の中に響いた。玄関の近くでは、父が倒れた靴箱を起こしていた。
レイも横から手を貸す。
「せーの」
二人で持ち上げると、下から片方だけのスリッパが出てきた。
「母さんのだ」
レイが拾う。
もう片方は少し離れた壁際に転がっていた。
二つを揃えて玄関へ置く。
父は何も言わなかった。
レイも言わなかった。
母が帰ってきたとき、いつもの場所にあった方がいい。
それだけだった。
隣の家から物を運ぶ音が聞こえた。外へ出ると、近所の男性が一人で倒れた棚を動かそうとしていた。
「手伝います」
父が声をかける。
レイも後ろを持った。
三人で棚を壁際へ寄せる。
「助かったよ。そっちも大変なのに」
「お互い様です」
男性はレイの足元のルカを見て、少し笑った。
「猫ちゃんも無事だったんだな」
「はい。昨日見つかりました」
「そりゃよかった」
その一言が、レイには嬉しかった。町にはまだ壊れたものが山ほどある。それでも、人が一人増えれば動かせるものもあった。
レイたちは家へ戻り、また片づけを続けた。片づけが一段落すると、父が水を差し出した。
「休め。朝から歩きっぱなしだろ」
「父さんもじゃん」
「俺は大人だからいい」
「意味分かんない」
レイは受け取り、壁にもたれて座った。ルカも隣へ来て、前足を揃えて座る。
「お前は何もしてないだろ」
「にゃ」
「見てただけじゃん」
ルカはレイの膝へ前足を乗せた。
「はいはい。手伝ったことにしとくよ」
父が向こうで笑った。
疲れていた。
母のことを考えれば胸は重い。
それでも、みんなでいると、ほんの短い時間だけ普通に話せた。その日の夕方、町の一部に明かりが戻った。遠くの建物の窓が一つ、また一つと光る。
歓声が聞こえた場所もあった。
「電気だ!」
誰かが叫ぶ。
レイも思わずそちらを見る。
暗くなりかけた町に灯る電気の光は、それだけで希望に見えた。
「すごい」
「復旧したところから送電してるんだろうな」
父が言う。
「じゃあ、もう少ししたら家も?」
「可能性はある」
レイは頷いた。
レイは明かりのついた建物をしばらく見ていた。昨日まで真っ暗だった町に、少しだけ夜の景色が戻っている。
「明日はもっと増えるかな」
「増えるといいな」
父の言葉に、レイは頷いた。
町外れの小さな工場でも、作業員たちが設備の確認をしていた。床には地震で落ちた部品や箱が散らばっている。一台ずつ、動くかどうかを確かめていく。
「こっちは動きます」
作業員が起動ボタンを押すと、機械が低い音を立てた。
「よし。次」
隣の設備へ移る。
同じように起動ボタンを押した。
何も起きない。
もう一度押す。
やはり動かなかった。
「駄目です。動きません」
責任者が機械を見る。
「復旧できるか?」
「はい」
作業員は反射的に答えた。
何度も扱ってきた設備だった。
止まったこともある。
そのたびに、自分たちで復旧させてきた。
作業員は工具を手に取った。
機械の前にしゃがむ。
そして――手が止まった。
◇
「……あれ」
責任者が振り返る。
「どうした?」
作業員は答えない。
目の前の機械を見つめたまま、工具を握り直す。
見慣れた機械だった。
起動の仕方は分かる。
停止の仕方も分かる。
どんな動きをする機械なのかも分かる。
なのに。
動かなかったとき、ここから何をしていたのか。
それが出てこない。
「……あれ?」
男はもう一度呟いた。
今度は、さっきより小さな声だった。
「俺……」
工具を持った手が、ゆっくり下がる。
夜。
レイたちは学校の避難所へ戻っていた。
体育館の隅で、父が懐中電灯を机代わりの箱に置き、避難所でもらった地図を広げる。
今日確認した場所。
明日向かう場所。
レイはその横でルカを撫でていた。
「ここ、まだ行ってないよね」
「ああ。明日はそこから行こう」
「そのあと、こっち」
「道路が通れればな」
二人で地図を見る。
母を探すための印が、少しずつ増えていた。
見つからなかった場所の数でもある。
けれど同時に、もう確認した場所の数でもあった。
レイはペン先を見つめた。
「父さん」
「ん?」
「見つかるよね」
父はペンを置いた。
「見つける」
大丈夫だ、とは言わなかった。
その代わり、迷わずそう言った。
レイは頷いた。
ルカが地図の上へ前足を乗せる。
「あ、そこ?」
レイが指さす。
「明日そこ行く?」
「にゃ」
父が笑った。
「じゃあルカ隊長の指示で決まりだな」
「隊長、地図踏んでるだけだけど」
「にゃあ」
周囲にはまだ人の話し声が残っている。
誰かが毛布を整える音。
子どもを寝かしつける声。
遠くで鳴るラジオ。
町は少しずつ動き始めていた。
けれど、まだ元には戻っていない。
レイはルカを抱き寄せた。
「電気、早く戻るといいな」
「にゃ」
少し間を置いて、もう一度言う。
「母さんも、早く見つかるといいな」
今度は返事がなかった。
ルカはただ、レイの腕に頭を預けた。
「明日はまだ行ってない場所を回ろう」
暗い体育館の中で、ルカの青い模様が小さく揺れた。




