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RE:LIGHT  作者: SORA
第1巻「失われた日」

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第5話「再会」


 レイは走った。


「ルカ!」


 瓦礫を避け、狭い隙間へ回り込む。青い光が、もう一度だけ揺れた。


「にゃ……」


 弱い声だった。

 けれど、間違いなかった。


 崩れた板とコンクリートの向こうから、黒い体がゆっくりと姿を現した。


 青い模様は埃でくすんでいた。


 足取りも、いつものルカよりずっと遅い。


「ルカ……!」


 レイがしゃがみ込む。

 ルカは一度だけ立ち止まった。


 そしてレイの顔を見ると、残った力を使うように駆け寄ってきた。レイはその小さな体を抱き上げた。


「よかった……」


 声が震えた。


「ほんとに……よかった……」


 ルカは何も言わず、レイの胸へ顔を押しつけた。いつもなら抱き上げられるとすぐに降りたがる。


 今日は動かなかった。


 淡い青い光だけが、レイの腕の中で静かに明滅している。


 少し遅れて、父が追いついた。


 レイはルカを抱いたまま、しばらく顔を上げられなかった。胸に触れている小さな身体が温かい。


 それだけでよかった。


「……ほんとに、お前」


 声にしようとすると、喉が詰まった。朝、玄関で交わした言葉が浮かぶ。


『帰ったら遊ぼう』


 たった昨日のことだった。

 いつものように言った。


 帰れば当たり前に会えると思っていた。


「ごめん」


 ルカの背中を撫でる。


「帰るの、遅くなった」


「にゃ……」


 弱い声。

 レイは唇を噛んだ。


「怖かったよな」


 ルカは答えない。


 ただ、レイの胸へ顔を押しつけたまま離れなかった。普段なら、抱き上げて数秒もすれば自分から降りようとする。気分じゃないときは前足でレイの胸を押すことさえある。


 今日は違った。


 レイが腕の力を少し緩めても、ルカはそのままだった。父は二人のすぐ横まで来ていたが、何も言わなかった。ただ、ルカの頭を一度だけ撫でた。


「……よく無事だったな」


 その声も少し掠れていた。


 ルカの青い模様が、ゆっくり明るくなる。


 いつもの光だった。

 暗い寝室を照らしてくれた光。

 玄関でレイを見送った光。


 瓦礫だらけの町の中で見ると、それは昨日までよりずっと綺麗に見えた。


「ルカ」


 レイが呼ぶ。

 青い目がこちらを見る。


「帰ろう」


 言ってから、レイは少しだけ笑った。


 家は壊れている。

 母もまだいない。


 それでも。


 ルカは帰ってきた。


「ルカ……無事だったか」


 父は息を吐き、ルカの頭をそっと撫でた。


 ルカが小さく鳴く。


 レイたちは、しばらくその場を動けなかった。


 ――けれど。


 レイは顔を上げた。


「……母さん」


 父の表情が戻る。

 ルカは見つかった。


 それでも、母はまだ見つかっていない。父はスマホを取り出し、もう一度電話をかけた。


 呼び出し音すら返ってこない。


「近くの避難所を回ろう」


 父はそう言ってから、レイの腕の中のルカを見た。


「その前に、一度家に戻ろう」


 父が言った。


「ルカに水とご飯もやらないとな」


「うん」


 レイたちは、もう一度家へ戻った。玄関は傾き、割れたガラスと細かな破片が床に散っている。壁には大きな亀裂が走り、奥では天井の一部が落ちていた。


 昨日まで暮らしていた家なのに、長くいる場所には見えなかった。それでも、入れる部屋は残っている。父が足元を確かめながら先に入り、レイもルカを抱いて続いた。


 まず、ルカに水を飲ませた。


 ルカは最初こそ勢いよく舌を動かしたが、途中で顔を上げた。


「もっと飲んでいいよ」


「にゃ」


 次に、倒れた棚の奥からルカのご飯を探し出した。袋の端は潰れていたが、中身は無事だった。皿の代わりになりそうなものを見つけて出してやると、ルカはゆっくり食べ始めた。


 レイはその場にしゃがんだまま、しばらく食べる様子を見ていた。父が近くにあった布を濡らし、ルカの足についた埃を拭く。


「ここ、痛くないか?」


 前足に触れると、ルカは嫌そうに足を引っ込めた。


「それはいつもの反応だね」


「じゃあ大丈夫そうだな」


「にゃ」


 ほんの少しだけ、壊れた家の中にいつもの空気が戻った。ルカが食べている間に、レイと父は使えそうなものを集めた。レイは制服を脱ぎ、動きやすい服に着替える。


 父もスーツから私服へ着替えた。それぞれのリュックに、水、食べ物、着替え、タオルを詰めていく。レイはルカのご飯も袋ごと入れた。


「それ、全部持っていくのか?」


「うん」


「重くなるぞ」


「ルカのだからいい」


 父は何も言わず、自分のリュックにも水を一本追加した。


 レイは部屋を見回した。


 倒れた家具。割れた窓。落ちた天井。余震が来るたび、どこかで小さく何かが崩れる音がする。


 父も同じ場所を見ていた。


「……ここで寝るのは、やめた方がいいな」


「うん」


 レイもすぐに頷いた。


「母さんを探しながら避難所を回ろう。夜は、そのどこかで寝よう」


「分かった」


 食べ終えたルカが立ち上がった。そのまま玄関へ向かうのかと思ったが、途中で足を止める。母がいつもいた場所へ顔を向けた。


 それから別の部屋を覗き、もう一度周囲を見回す。


「……ルカも母さん探してるの?」


 ルカはレイを見上げた。


「にゃ」


 レイは少しだけ笑って、リュックを背負った。


「じゃあ、一緒に探そう」


 レイたちは家を出た。


 最初に向かったのは、家から比較的近い公民館だった。入口の前には、毛布を肩にかけた人たちが座っていた。中には小さな子どもを抱く母親もいる。


 壁には、避難してきた人の名前を書いた紙が何枚も貼られていた。ルカはレイの足元に降りると、入口を行き交う人たちへ顔を向けた。毛布の間を覗き込み、人が通るたびに耳を立てる。


 レイには、ルカも同じ人を探しているように見えた。


 レイは一枚ずつ目で追った。

◇

 蒼宮香織。


 何度見ても、その名前はなかった。


 父が受付の男性に声をかける。


「すみません。蒼宮香織という女性、こちらに避難していませんか」


 男性は名簿をめくった。


「蒼宮……香織さん」


 指が何度か紙の上を往復する。

 やがて男性は首を横に振った。


「少なくとも、この名簿にはありません」


「そうですか……ありがとうございます」


 外へ出る。

 レイは何も言わなかった。


 父も、すぐには声をかけなかった。次は少し離れた中学校へ向かった。最初の避難所を出たころには、ルカはレイの腕の中で眠っていた。


 歩くたびに小さく揺れても起きない。


 レイは何度も顔を覗き込んだ。


「寝てるだけだ」


 父が言う。


「分かってる」


「さっきから何回確認してる」


「別にいいだろ」


 父は何も言わず、少し笑った。

 レイも自分で分かっていた。


 呼吸しているか確かめてしまう。見つけるまでの時間が、まだ身体に残っていた。次の避難所へ向かう途中、ルカが目を開けた。


「起きた?」


「にゃ」


「歩く?」


 ルカは腕の中から地面を見る。


 そして、レイの胸へ顔を戻した。


「今日は抱っこがいいらしい」


「珍しいな」


「な」


 レイは少し嬉しそうに笑った。


 その笑顔が消えるまで、それほど時間はかからなかった。


 次の避難所にも。

 その次にも。

 母の名前はなかったからだ。


 それでも今度は、腕の中にルカがいる。


 昨日の夜とは違う。


 失ったと思ったものが、一つ戻ってきた。だからこそレイは、母のことも諦めたくなかった。道路はところどころ塞がれ、何度も遠回りをした。


 ルカも歩いていたが、途中からまた足取りが遅くなった。


 レイは黙って抱き上げた。


「今日は特別だからな」


「にゃ」


 胸元で返事がする。


 中学校の体育館にも、大勢の人がいた。


 家族の名前を呼ぶ声。


 張り出された名簿を食い入るように見る人。


 無事を確認して抱き合う人。


 そのすぐ隣で、俯いたまま動かない人。レイは人の間を縫うように歩いた。


「母さん……」


 名前はない。

 父が職員にも確認した。

 やはり、母は来ていなかった。


「次、行こう」


 レイが先に言った。


 父は一瞬だけレイを見て、頷いた。


 三つ目。

 四つ目。


 近くで避難所になっている場所を、行ける限り回った。


 そのたびに同じ名前を探した。


「蒼宮香織です」


「三十八歳の女性です」


「地震が起きたとき、外に出ていました」


 けれど。


 どこにもいなかった。


 空が少しずつ赤くなっていった。


 レイの足は重かった。


 ルカを抱く腕にも力が入らなくなってくる。


 父も疲れているはずだった。


 それでもスマホを何度も確認していた。画面には、母からの着信もメッセージもない。


「父さん」


「ん?」


「母さん……どこ行ったんだよ」


 父はすぐに答えなかった。


 少し先では、避難所の入口に新しい名前が書き足されている。今も誰かが、誰かを探していた。


「分からない」


 父は言った。


「でも、まだ探してない場所もある」


 レイは俯いた。


「明日も探そう」


「もちろんだ」


 迷いのない返事だった。


「母さんが見つかるまで探す」


 レイは小さく頷いた。


 その腕の中で、ルカが顔を上げる。


 青い瞳が、レイを見ていた。


 レイはルカの額に自分の額を軽く当てた。


「……一緒に探そうな」


「にゃ」


 夕暮れの町に、小さな声が響いた。


 ルカは戻ってきた。


 けれど。


 夕方、最後の避難所を出たところで、レイは一度立ち止まった。


 腕の中のルカが身じろぎする。


「疲れた?」


「にゃ」


「僕も」


 父が振り返った。


「今日は戻ろう。明日また早く出る」


 レイは少し迷った。


 まだ探せる場所がある気がした。けれど、ルカの身体もまだ弱っている。


「……うん」


 帰り道。

 町は夕焼けに染まっていた。


 壊れた屋根も。

 割れた道路も。


 その色だけは昨日までと変わらない。


 ルカが腕の中から空を見る。


「母さんも、この空見てるかな」


 父が隣を歩きながら答える。


「見てるかもしれないな」


「じゃあ同じだね」


「ああ」


 レイは夕焼けを見る。


 母がどこにいるのかは分からない。


 それでも同じ空の下にいる。


 今日は、それを信じることにした。


 二人は、自宅ではなく学校の避難所へ戻った。余震はまだ続いている。壊れた家で夜を過ごすより、人のいる体育館の方が安全だった。


 体育館に入ると、レイは自分の上着を畳んでルカの寝床を作った。


「今日はここ」


 ルカは一度匂いを嗅ぎ、その上で丸くなる。


「僕の匂いするだろ」


「にゃ」


「安心する?」


 ルカは目を閉じた。

 レイはその隣へ座った。


 人の話し声や足音が絶えない体育館の中で、それでも昨日より一つだけ安心できる音があった。


 ルカの小さな寝息。


 レイはしばらく、その音を聞いていた。昨日の夜、何度名前を呼んでも返事はなかった。


 今は手を伸ばせば触れられる。


 レイはそっとルカの背中へ手を置いた。


 青い光が指の隙間から漏れる。


「もう勝手にいなくなるなよ」


 もちろん、ルカが好きでいなくなったわけではない。


 分かっていても言いたかった。


 ルカは目を閉じたまま、尻尾の先だけを動かした。


「返事した?」


 もう一度、尻尾が動く。

 レイは小さく笑った。


「じゃあ約束な」


 明日はまた母を探す。

 その次の日も。

 今度はルカも一緒だった。


 母は――まだ、どこにもいない。


 レイは眠る前、もう一度だけルカを撫でた。触れれば温かい。その当たり前が、今夜は何より嬉しかった。


「おやすみ、ルカ」


 小さく言うと、ルカの耳が動いた。


 レイはようやく目を閉じた。



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