第3話「避難所」
レイは毛布の中で目を開けた。
薄暗い体育館。
天井の非常灯が、ぼんやりと床を照らしている。眠ったのかどうか、自分でも分からなかった。目を閉じるたびに家のことを考えた。
母のこと。
そして、鍵のかかった家に残されたルカのこと。隣では父が壁にもたれて座っていた。
眠っているように見えた。
そのとき。
ミシ。
体育館の窓が小さく鳴った。
続いて、床がゆっくり揺れる。
「……っ」
レイは身体を起こした。
周囲でも何人かが目を覚ます。
「また地震……?」
小さな子どもの声。
揺れはすぐに収まった。
けれど体育館の中に、ざわめきが残った。
「大丈夫だ」
隣から父の声がした。
起きていた。
「寝てなかったの?」
「お前もだろ」
レイは答えなかった。
父も、それ以上は言わなかった。体育館には、夜になってからも人が増え続けていた。体育館の隅では、先生たちが避難してきた人の名前を紙に書き続けていた。
一枚の紙が埋まると、その隣へ新しい紙が貼られる。
レイはそのたびに目で追った。
もしかしたら。
次に書かれる名前が、母かもしれない。そんな期待を何度も抱いて、そのたびに違う名前が増えていった。
「父さん」
「ん?」
レイは入口を見た。
「母さん、もう家に帰ってるのかな」
父がレイを見る。
「ルカもいるし。家は無事で……道が通れないから、こっちに来られないだけかも」
父は少しだけ間を置いた。
「……そうかもしれないな」
レイは小さく頷いた。
そうだったらいい。
母とルカが家で待っている。
明るくなって帰れば、二人ともそこにいる。
今は、そう思いたかった。
もし母が家に戻れているなら、ルカも一人ではない。レイはそう考えると、少しだけ胸の苦しさが軽くなった。母なら、ルカを見つければきっと抱き上げる。
そして道が通れるようになるまで、家で待っているかもしれない。
「明日、帰ったら二人ともいるといいな」
「ああ」
父の返事を聞いて、レイはもう一度入口を見た。家の玄関を開けたら、母の「おかえり」とルカの声が一緒に聞こえる。レイはそんな光景を頭の中に作った。
今夜は、それを信じて待つしかなかった。入口が開くたびに冷たい空気が入り、避難してきた人たちの声が聞こえる。
「こっち、まだ空いてます!」
先生たちが毛布を運ぶ。
地域の人たちも手伝っていた。
誰かが持ってきた懐中電灯。
段ボール。
ペットボトルの水。
使えるものを少しずつ集めて、みんなで分けていた。レイは入口が開くたびに顔を上げた。
母かもしれない。
そう思ってしまう。
けれど、入ってくるのは知らない人ばかりだった。少し離れた場所で、女の人が泣いていた。
「まだ主人が戻ってなくて……」
その隣では、泥だらけの男が家族に囲まれている。
「よかった……ほんとによかった……」
抱き合う声。
泣く声。
誰かの名前を呼ぶ声。
同じ体育館の中に、再会できた人と、まだ待っている人がいた。体育館の壁際に、一人の男が座っていた。
痩せた頬。
少し長い黒髪。
目の下には、濃い隈ができていた。暗いジャケットのフードをかぶり、膝を抱えたまま床を見つめている。目の前には、配られたパンが置かれていた。
けれど、手をつける様子はない。誰かを待っているようにも見えなかった。ただ、何もかもを失ってしまったように、じっと床を見つめていた。
レイは一瞬だけ、その男を見る。
そして、すぐに視線を戻した。
レイはスマホを取り出した。
画面をつける。
母からの連絡はない。
アンテナの表示もほとんど変わらない。
もう一度、電話をかける。
繋がらない。
「……くそ」
レイはスマホを握りしめた。
父が横から画面を見る。
「俺もさっきやった」
「繋がった?」
父は首を振った。
「母さん、どこにいるんだろ」
「……分からない」
父はそれだけ言った。
変に大丈夫だとは言わなかった。
そのことが、逆に怖かった。
体育館の前方で、ラジオの音量が上げられた。
『――現在も各地で余震が続いています』
『倒壊した建物には近づかず、安全な場所で待機してください』
雑音が入る。
しばらくして、別の声。
『道路の寸断、火災、停電が多数発生しています』
『被害の全容は、まだ確認できていません』
誰かが小さく息を呑んだ。
レイは父を見る。
「明日の朝、本当に行ける?」
「行く」
父はすぐに答えた。
「道が塞がってても?」
「通れる道を探す」
「火事が残ってても?」
「危ないところには近づかない。それでも家の近くまでは行く」
レイは少し黙った。
「……ルカ、待ってるよね」
「ああ」
「母さんも、家に戻ってるかもしれない」
「そうだな」
父は前を向いたまま答えた。
その声には、願いが混じっていた。
夜が深くなる。
夜中。
レイは一度、体育館の外へ出た。
眠れなかった。
扉の近くにいた先生へ声をかけ、校舎脇の限られた場所までならと許可をもらった。
父も一緒についてきた。
外は思った以上に暗かった。
いつもなら見えるはずの店の看板も、住宅の窓も、ほとんど光っていない。
遠くで赤い光が揺れていた。
火なのか、緊急車両なのか、ここからでは分からない。
レイは自宅のある方角を見た。
「この暗さじゃ、ルカも怖いかな」
父はすぐには答えなかった。
「……あいつ、暗いところ平気だろ」
「そうだけど」
レイは空を見上げた。
「自分で光れるし」
口にしてから、少しだけ笑った。暗い部屋で「ルカ、お願い」と言えば、いつも青く光ってくれた。懐中電灯みたいに扱うと、ルカは時々不満そうな顔をした。
「今も光ってるかな」
「光ってるんじゃないか」
「そしたら見つけやすいのに」
父はレイの肩へ手を置いた。
「明るくなったら探そう」
レイは家の方角を見たまま頷いた。体育館へ戻る直前、もう一度だけ振り返った。町の暗闇のどこかに、小さな青い光があるような気がした。
もちろん、見えるはずはなかった。レイと父が体育館へ戻るころには、非常食が配られ始めていた。
小さなパンと、水。
レイは袋を開けた。
昼からほとんど何も食べていなかったのに、不思議と食欲がなかった。
父が自分のパンを半分に割る。
「いるか?」
「いらない」
「食っとけ」
「父さんが食べてよ」
「俺はいい」
「よくないだろ」
父が少しだけ笑った。
「じゃあ、自分の分だけでも食え」
レイはしばらくパンを見つめた。
それから、一口かじった。
味がほとんど分からなかった。
体育館の端で、小さな子どもが泣き出した。
「おうち帰りたい……」
母親らしい女性が、その子を抱きしめる。
「朝になったらね」
「ほんと?」
「うん」
レイは視線を落とした。
朝になったら。
自分も帰れるのだろうか。
帰った先に、いつもの家はあるのだろうか。
母はいるのだろうか。
ルカは。
考えるのをやめようとしても、頭の中に浮かんでくる。
「レイ」
父が呼んだ。
「ん?」
「少し寝ろ」
「寝れない」
「目閉じてるだけでもいい」
「父さんは?」
「俺もそうする」
レイは毛布へ横になった。
父も隣で身体を伸ばす。
少しして。
「父さん」
「ん?」
「家、壊れてるかな」
返事が来るまで、少し間があった。
「分からない」
「……そっか」
「でも、まだ見てもいないのに決めつけるな」
「うん」
「ルカだって、あいつ結構しぶといだろ」
レイはほんの少しだけ笑った。
「怒るよ、そんなこと言ったら」
「じゃあ内緒にしとけ」
「ルカ、父さんの言葉も分かるから」
「それは困ったな」
二人の声が少しだけ軽くなる。
ほんの数秒だった。
それでもレイは、さっきより少しだけ息がしやすくなった。
目を閉じる。
浮かんだのは、青い光だった。
暗い部屋で。
「ルカ、お願い」
そう言えば、ルカは少しだけ明るく光った。
いつも当たり前にそこにいた。
ベッドの上。
ソファの上。
玄関。
レイの隣。
「……待ってろよ」
誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「明日、絶対行くから」
何度目かの余震で目を覚ましたとき、体育館の窓が少し明るくなっていた。
朝だった。
眠っていた人たちが、少しずつ起き始める。
先生たちが動き出す。
入口の近くでは、外の様子を確認してきた人たちが話していた。
「あっちの道は無理だ」
「橋の手前が割れてる」
「火はだいぶ収まったみたいだけど……」
「まだ煙が出てるところもある」
父が立ち上がった。
「レイ」
レイもすぐに立つ。
「行ける?」
「まず外を見て、通れる道を探す」
父は荷物をまとめた。
レイも毛布を畳む。
体育館を出る前に、もう一度スマホを確認した。
母からの連絡はない。
レイは画面を消した。
二人は体育館を出て、校門へ向かった。
朝の空気は冷たかった。
レイは校門の向こうに広がる町を見た。昨日まで毎日歩いていたはずの道。その先に、母とルカがいるかもしれない。
「……行こう」
父の声に、レイは小さく頷いた。
待つだけだった夜は、ようやく終わった。




