第17話「刃」
翌朝。
体育館の窓から差し込む光は、昨日と何も変わらなかった。
けれど、そこにいる人たちの視線は変わっていた。
手を見ている人が多い。
何も起きていない自分の手を、何度も握ったり開いたりしている。
隣にいる家族の手を覗き込んでいる人もいた。
昨日、この体育館でも何人もの手が光った。
その後、テレビやラジオから流れてきた情報で、同じ現象がこの町だけではないことも分かった。
レイも目を覚ましてから、何度か自分の手を見ていた。
何もない。
昨日と同じ、自分の手だ。
ルカが布団の端から顔を出し、レイの指先を鼻先で軽くつついた。
「……何も出ないよ」
ルカは分かっているのかいないのか、小さく「ニャ」と鳴いた。
少し離れた場所では、父が一枚の紙を確認していた。
母の写真。
名前。
年齢。
服装。
最後に目撃された場所。
これまで聞き取ったことを、昨夜のうちにまとめたものだった。
「父さん、それ持っていくの?」
「ああ」
父は紙を折らずに、透明な袋へ入れた。
「今日は警察に行こう」
レイは一瞬だけ黙った。
これまで、母を探すために何度も町を歩いた。
避難所を回り、名簿を見て、写真を見せて話を聞いた。
公民館で、母が学校へ向かったところまでは分かった。
でも、その先がない。
同じ道を、何度歩いても。
母は見つからなかった。
「……うん」
父は地図を畳んだ。
「この近くに臨時の警察窓口ができてるらしい。本部まで行くのは今は難しいが、行方不明者の届け出は受け付けてる」
「見つけてくれるかな」
父はすぐには答えなかった。
「分からない。でも、俺たちだけで探すより、できることは増やした方がいい」
レイは母の写真を見た。
笑っている。
地震が起きる前に撮った、何でもない日の写真だった。
「行こう」
学校を出ると、ルカも当然のようについてきた。
臨時の警察窓口は、市の施設だった建物の一階に設けられていた。
入口には手書きの紙で、
『行方不明者・安否情報 受付』
と書かれている。
建物の前には、すでに列ができていた。
十数人。
老人も、子どもを連れた母親もいる。
手には写真やメモ、家族の名前を書いた紙を持っていた。
レイは、その列を見ただけで胸が重くなった。
母だけじゃない。
探している人は、こんなにもいる。
中へ入るまでに、かなり時間がかかった。
列は少しずつしか進まない。
前にいた女性は、何度も一枚の写真を見返していた。
写真の中では、小学生くらいの男の子がランドセルを背負って笑っている。
そのさらに前では、年配の男性が家族の名前を紙いっぱいに書いていた。
誰か一人がいなくなったわけじゃない。
家族ごと離れ離れになった人もいる。
地震の朝から、一度も会えていない人もいる。
レイは母の写真が入った袋を、無意識に強く握った。
受付は長机を並べただけの簡単なものだった。
制服姿の警察官が数人、紙の書類を一枚ずつ確認している。
壁際には段ボール箱が積まれ、その一つには太い字で『未照合』と書かれていた。
パソコンも置かれていたが、画面の横には「通信不安定」と書かれた紙が貼られている。
順番が来る。
「お待たせしました。行方不明の方ですか?」
父が母の写真を机の上に置いた。
「妻です。蒼宮香織。三十八歳」
警察官は写真を見て、用紙に書き込んでいく。
「最後に本人を確認できた場所は?」
父は、公民館で聞いた話を順番に説明した。
母が自宅へ戻っていたこと。
レイを探して学校へ向かったこと。
途中の公民館で手伝いをしていたこと。
そして、公民館を出る姿を見た人がいること。
「その後、学校には?」
「到着したという記録も、見たという証言もありません」
警察官のペンが止まった。
「公民館から学校までの間で、何か事故や搬送の記録は確認しましたか?」
「避難所と救護所は回りました。ただ、全部を確認できたわけじゃありません」
「分かりました。こちらでも、避難所、救護所、身元が確認できていない搬送者の情報と照合します」
その言葉に、レイは少しだけ顔を上げた。
「見つかったら、すぐ分かるんですか?」
警察官はレイを見る。
疲れた顔だった。
でも、声は穏やかだった。
「できるだけ早く知らせる。ただな、今は同じ届け出が本当に多いんだ」
机の端に置かれた書類の束へ目を向ける。
「ここで受けた情報は、まとめて上の署へ送ってる。ただ、回線が使えない時は人が持っていくこともある。すぐ全部と照合できるとは約束できない」
「……はい」
レイは小さく返事をした。
警察官が父の名前を書く。
「ご家族の連絡先を……蒼宮、蓮司さん」
そこで、警察官の手が止まった。
父の顔を見る。
もう一度、用紙を見る。
「……蒼宮蓮司さん?」
「はい」
「もしかして、創政党の蒼宮議員ですか?」
父は少しだけ間を置いて頷いた。
「そうです」
警察官の表情が変わる。
隣の机にいた警察官もこちらを見た。
「それでしたら、本部の方にも――」
「まずは妻の届け出をお願いします」
父の声は静かだった。
「今ここにいる人たちと同じです。家族を探しに来ました」
警察官は一瞬だけ父を見つめ、それから頷いた。
「分かりました。ただ、お名前については上にも報告させてください」
「構いません」
連絡先には、今いる学校の避難所名を書いた。
携帯電話の番号も書いたが、父は「つながらない可能性が高いです」と付け加えた。
最後に、警察官が母の写真をもう一度見た。
「こちらでも探します」
その言葉だけで、何かが急に解決するわけではない。
それでもレイは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
自分たち以外にも、母を探す人が増えた。
それだけだった。
でも今は、それでよかった。
建物の外へ出ると、レイは一度振り返った。
まだ列は続いている。
入口の横では、警察官が新しく来た人に用紙を配っていた。
「父さん」
「ん?」
「警察でも、すぐには分からないんだね」
「ああ」
父は歩き出しながら答えた。
「でも、これで病院や避難所の記録ともつながる。俺たちが一つずつ回るだけじゃ見つけられなかった情報に届くかもしれない」
「母さん、公民館を出てから学校には来てないんだよね」
父の足がほんの少しだけ緩んだ。
「ああ。だから、その間で何かあったはずだ」
レイは少し俯いてから、もう一度さっきの建物を振り返った。
「警察なら……途中で事故に遭ったとか、どこかに運ばれたとか、そういうのも分かるかもしれないよね」
「そのために届けを出した。俺たちだけじゃ拾えない情報もある」
建物を出た頃には、昼を過ぎていた。
「お腹すいた」
レイが言うと、父も苦笑する。
「俺もだ」
学校へ戻る途中、広場の前に人が集まっていた。
臨時の配給所だった。
テントの下に段ボール箱が並び、保存食と水が配られている。
入口には大きく、
『一人一食分』
と書かれていた。
「ここで受け取っていくか」
「うん」
列の最後尾に並ぶ。
ルカはレイの足元を歩き、時々、人の隙間から配給台の方を見ていた。
列はなかなか進まなかった。
前の方から、声が聞こえてくる。
「だから、もう一つだけでいいんです!」
男の声だった。
レイが少し横へずれて覗く。
三十代くらいの男性が、配給台の前に立っている。
片手には受け取ったばかりの小さな食料袋。
もう片方の手は強く握られていた。
「すみません。一人一つです」
係の男性が繰り返す。
「家に妻と子どもがいるんです。子ども、昨日からほとんど食べてなくて」
「ご家族も来てもらえれば、その分は渡せます」
「来られないんだよ!」
声が大きくなった。
周囲の視線が集まる。
「妻が足を怪我してる。子ども置いて二人で来いっていうのか?」
「事情は分かります。でも、ここで例外を作ると――」
「事情が分かるならくれよ!」
男が配給台を叩いた。
箱が揺れ、何人かが息を呑む。
後ろから声が飛んだ。
「みんな足りないんだよ!」
「こっちだって家族がいる!」
「列止めるな!」
男の顔が強張った。
手にした袋は軽そうだった。
中に入っているのは、クラッカーと小さな缶詰、それに水だけ。
家族三人で分ければ、どれほど持つのか。
レイにも想像できた。
「……分かってるよ」
男は俯いた。
「そんなこと、分かってるよ……!」
それでも、手にした袋を見れば足りないことだけは分かる。
家では、怪我をした妻と空腹の子どもが待っている。
後ろから、また声が飛んだ。
「早くしてくれよ!」
「こっちだって待ってるんだ!」
男の呼吸が荒くなった。
握り締めた右手が震えている。
配給係が困ったように息を吐き、残っている食料を奥へ戻そうとした。
その動きを見た瞬間、男の顔つきが変わった。
「待てよ!」
男が配給台へ身を乗り出す。
「それじゃ足りねえって言ってるだろ!」
配給係が一歩下がった。
「落ち着いてください」
「子どもがいるんだよ!」
男はもう、周囲の声が耳に入っていないようだった。
怒りなのか、焦りなのか、恐怖なのか。
自分でも分からないまま、目の前の食料だけを睨みつけている。
「家で待ってるんだ……これだけじゃ足りないんだよ!」
配給係が男を止めようと手を伸ばす。
男の身体が前へ出た。
今にも相手へ掴みかかりそうだった。
その瞬間だった。
男の右手が、赤く光った。
ざわめきが止まる。
昨日までなら、それだけで悲鳴が上がったかもしれない。
だが今は、誰もが一度は聞いている。
手が光る人間が現れていることを。
「……まただ」
誰かが呟いた。
男自身は気づいていなかった。
配給台を睨んだまま、荒い息を繰り返している。
赤い光が、握り締めた指の隙間から漏れた。
そして、その光が急激に強くなる。
レイは息を止めた。
父の手が、レイの肩を掴む。
「下がれ」
レイが一歩後ろへ下がる。
ルカも低く身を伏せ、青い目で男の手を見つめた。
指先からこぼれていた光が、散らずに一点へ集まり始める。
細く、長く。
握り込んだ手の先から、赤い光がまっすぐ伸びた。
最初は、ただの光の筋にしか見えなかった。
けれど、その両側に少しずつ厚みが生まれていく。
根元には、男の手に収まるほどの柄のような形。
その先には、鋭く尖った刃。
揺らいでいた光は次第に形を固めていき――
やがて、それは誰が見ても分かる姿になった。
ナイフだった。
確かに、男は何も持っていなかったはずだ。
この瞬間、あの手の光から――ナイフが現れたのだ。
その場にいた人たちが、一斉に息を呑んだ。
さっきまで男のすぐ後ろに並んでいた人たちが、反射的に距離を取る。
配給係も、もう一歩後ろへ下がった。
そこでようやく、男の目が自分の右手へ落ちた。
「……え?」
怒りに歪んでいた表情が消えた。
赤い光をまとったナイフが、男の手の中にある。
男は目を見開き、周囲を見回した。
自分から離れた人たち。
硬い表情でこちらを見る配給係。
その光景を見て、我に返ったように首を振る。
「違う……」
声から、さっきまでの怒気が消えていた。
「こんなつもりじゃ……」
誰も動かなかった。
男はナイフを見つめたまま、掠れた声で続ける。
「俺は、ただ……食料が欲しかっただけなんだよ」
力が抜けるように、男の肩が落ちた。
すると、手の中のナイフの先端が細かな光の粒になった。
刃から柄へと崩れるようにほどけ、赤い光へ戻りながら空気の中へ消えていく。
数秒後には、男の手には何も残っていなかった。
男は空になった自分の手を見つめる。
さっきまでそこに何かがあったことが、信じられないように。
レイも、自分の手を見る。
昨日、体育館で見た赤や緑の光。
あの時は、ただ手の周りで揺れていただけだった。
でも今、目の前で起きたことは違う。
光が、形になった。
しかも、触れられそうなほどはっきりとした形に。
レイはもう一度、男の空っぽの手を見る。
父は何も言わなかった。
ただ、消えたナイフがあった場所をじっと見つめていた。
昨日まで、光はただ光るだけのものだった。
けれど、その日。
光に初めて、形が生まれた。




