第16話「光」
体育館の空気は、昨日よりも重かった。
配給台に並んでいるのは、小さなパンと水だけ。
列に並ぶ人たちは、もう何が出るのかを聞こうともしなかった。
レイは受け取ったパンを半分にちぎった。
半分を食べ、残りを袋に戻す。
昨日から、そうする人が増えている。
父も何も言わず、自分の分をゆっくり食べていた。
ルカはレイの足元で丸くなっている。
「今日は、どこから探す?」
レイが聞く。
父は地図を開いた。
「昨日と同じ区間をもう一度回ろう。まだ話を聞けていない家がある」
「うん」
いつもと同じ朝。
少なくとも、その時まではそうだった。
最初に声を上げたのは、体育館の中央にいた男だった。
「……なんだ、これ」
小さな声だった。
最初は誰も気に留めなかった。
けれど、すぐ近くにいた女性が息を呑んだ。
「手……」
レイもそちらを見る。
男が、自分の右手を見つめていた。
手のひらの周りに、淡い赤い光が浮かんでいる。
電球のように強くはない。
炎でもない。
ただ、薄い光が指の間から漏れるように揺れていた。
「え?」
男は慌てて手を振る。
光は消えない。
「何だよ、これ……」
周囲の人が集まり始める。
「何か持ってるの?」
「いや、何も」
「熱い?」
「熱くない」
「痛くないの?」
「全然……」
男自身が一番困惑していた。
レイは少し離れた場所から、その光を見ていた。
赤い。
でも火のようには見えない。
煙もない。
焦げる匂いもない。
ただ光だけが、手の周りにまとわりついている。
父がレイの肩に手を置いた。
「近づきすぎるな」
「うん」
誰かがスマートフォンを向ける。
別の誰かが、
「動画撮って」
と言う。
職員が人を下がらせようとする。
「少し離れてください! 本人も状況が分かっていません!」
男は何度も拳を握ったり開いたりしていた。
そのたびに赤い光が揺れる。
しばらくすると、少しずつ弱くなった。
そして。
消えた。
「……消えた」
男が呟く。
体育館の中に、妙な沈黙が残った。
レイ達が学校を出ようとしたのは、それから三十分ほど後だった。
入口に向かって歩いていると、今度は後ろから悲鳴が上がった。
振り返る。
若い女性が両手を胸の前で固めている。
今度は、緑色だった。
淡い緑の光が、指先から手首のあたりまで漂っている。
「また?」
レイが言う。
父も足を止める。
さっきの男とは別の人。
色も違う。
「触らないで!」
女性のそばにいた人が叫ぶ。
「何もしてない!」
女性も泣きそうな顔で言った。
「急に光っただけ!」
職員たちが再び集まってくる。
体育館全体がざわついた。
もう、さっきの一件だけではなかった。
レイ達は結局、学校を出るのを少し遅らせた。
外に出てからも、レイは何度も自分の手を見た。
何もない。
普通の手。
「父さん」
「ん?」
「さっきの、何だったんだろ」
「分からない」
「病気とか?」
「分からない」
父は同じ言葉を繰り返した。
でも、いつものように考え込んでいる。
「熱も痛みもないって言ってた」
「そうだな」
「怖くないのかな」
「怖いだろうな。自分の体に、知らないことが起きてるんだから」
レイは自分の手を閉じた。
二人は予定していた家を回ったが、新しい証言はなかった。
けれど、今日はどこへ行っても、話題は同じだった。
「学校でも出たのか?」
「こっちの避難所でも一人いたらしい」
「黄色だったって」
「いや、白だって聞いたぞ」
「何の話?」
「手だよ。手が光るんだって」
噂は、もう広がり始めていた。
公民館に立ち寄ると、昨日の年配の男性もその話をしていた。
「こっちでも出たよ」
「ここでも?」
レイが聞く。
「ああ。朝、若い兄ちゃんの手が青く光ってな」
「青……」
レイは思わず自分の手を見る。
何もない。
父が男性に聞く。
「その人は今?」
「普通にしとるよ。光はもう消えた」
「体調は?」
「悪くはなさそうじゃ。本人も分からんって言っとった」
男性は困ったように笑う。
「地震の次は、手が光るときた。もう何が起きても驚けんわ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
公民館の隅に置かれたテレビでは、臨時ニュースが流れていた。
画面には、赤や青、緑、黄色、白に淡く光る人の手が映っている。
映像は一か所ではなかった。
別の県。別の都市。避難所や病院。
同じような現象が確認された場所が、次々に映し出されていく。
「全国で確認されているって」
テレビを見ていた誰かが言う。
「海外でも同じような報告があるって」
「海外?」
レイが画面を見る。
ニュースでは、原因は分かっていないと繰り返していた。
人体への影響も確認中。
異常があれば、近くの医療機関や避難所職員へ知らせるよう呼びかけている。
政府も調査を始めているという。
でも。
説明はなかった。
なぜ光るのか。
なぜ色が違うのか。
なぜ一部の人にだけ起きるのか。
誰も分かっていない。
道ですれ違う人々は、互いの手元に目を向けるようになっていた。町の空気は、朝とは明らかに違っていた。
食料の話。
水の話。
ガソリンの話。
そこに、新しい不安が加わった。
「光った人に近づいて大丈夫なの?」
「感染するんじゃないの?」
「病気なのか?」
「でも痛くないって」
「子どもにも出たらしい」
噂だけが増えていく。
レイ達が写真を見せても、母の話より先に光の話をされることもあった。
それでも二人は聞き込みを続けた。
母を探すことは、何も変わっていない。
変わったのは、世界の方だった。
校門が見える頃には、あたりが少しずつ薄暗くなっていた。レイ達は学校へ戻った。
体育館の入口には、人が集まっていた。
中から声が聞こえる。
レイと父が入ると、今度は二人同時に光っていた。
一人は黄色。
もう一人は白。
どちらも、手の周りに淡い光が揺れていた。
周囲の人たちは、朝ほど近寄らなくなっていた。
距離を取って見ている。
職員も、
「触れないでください」
と繰り返している。
光っている本人たちは、ただ自分の手を見つめていた。
怖がっている。
でも、苦しんではいない。
「また増えてる」
レイが言う。
父は頷いた。
「そうだな」
「父さんは?」
「何が?」
「手」
父は自分の手を見る。
「何もない」
「僕も」
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
それ以上は何も言わなかった。
窓の向こうは暗く、校庭の様子ももう見えなかった。やがて、体育館の照明が落とされた。
節電のため、点いているのは最低限の灯りだけ。
いつもなら暗く感じるはずだった。
でも今日は違った。
遠くで、小さな赤い光が揺れている。
別の場所には緑。
その向こうには青。
黄色。
白。
一つひとつは弱い。
体育館を照らせるほどではない。
それでも、暗い空間の中でははっきり見えた。
まるで、小さな灯りがあちこちに浮かんでいるようだった。
レイは毛布の上で起き上がっていた。
ルカも眠らず、光の方を見ている。
父は隣に座っている。
「きれいだね」
レイが言った。
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
父はしばらく光を見ていた。
「そうだな」
「怖いけど」
「ああ」
レイは自分の両手を見る。
開く。
握る。
もう一度、開く。
何も起こらない。
光はない。
熱もない。
いつもの手だった。
レイは少しだけ息を吐く。
安心しているのか。
残念なのか。
自分でも分からない。
ただ。
体育館のあちこちに浮かぶ光を見ていると、今日の朝までとは違う場所にいる気がした。
地震で世界は壊れた。
知識が失われた。
物が届かなくなった。
食べるものさえ足りなくなった。
それでも。
今日。
誰も知らない光が、人の手に宿った。
それが何を意味するのか。
まだ誰にも分からない。
レイにも。
父にも。
政府にも。
世界の誰にも。
レイはもう一度、自分の手を見た。
何もない。
そして顔を上げる。
赤、青、緑、黄、白。
暗い体育館の中で、いくつもの光が静かに揺れていた。
世界は、また変わろうとしていた。




