第15話「飢え」
「一人一つです。追加はありません」
体育館の中は、いつもより静かだった。
配給の列は、昨日より長い。
レイは父と並びながら、前に置かれた箱を見た。
パン。
水。
それだけだった。
しかも、パンは昨日より小さい。
配給を担当している職員が、一人ずつ手渡している。
何度も同じ言葉を繰り返していた。
前に並んでいた母親が、受け取ったパンを二つに割る。
自分の分を、子どもの方へ少し多く渡した。
「お母さんは?」
「あとで食べるから」
子どもは疑うように母親を見る。
それでも何も言わず、渡されたパンを口にした。
レイは視線を逸らした。
自分の番が来る。
パンを一つ。
水を一本。
父も同じだった。
「今日はこれだけなんだね」
レイが言う。
父は配給台の奥を見る。
空になった段ボールがいくつも重なっている。
「そうみたいだな」
「昼は?」
「まだ分からない」
返事をしたのは父ではなく、近くにいた職員だった。
疲れた顔をしている。
「昼の便が来れば配れます。でも、まだ連絡が取れてなくて」
レイは小さく頷いた。
昨日までは、少なくても次があると思っていた。
今日は、その次があるかどうかも分からない。
朝食を終えると、レイ達は学校を出た。
今日も公民館から学校までの空白を確かめたが、新しい証言はない。
何度歩いても、母の足取りはそこから先へ伸びなかった。
商店街に入ると、昨日まで開いていた店の前に人だかりができていた。
小さな食品店だった。
シャッターは半分開いている。
入口には手書きの紙。
『お一人様 一点まで』
その下に、さらに小さく、
『在庫がなくなり次第終了』
と書かれている。
レイは足を止めた。
店の前には十数人。
みんな手に財布や袋を持っている。
店の中を覗くと、棚にはほとんど何もない。
缶詰が数個。
乾麺が少し。
菓子が数袋。
「昨日より減ってる」
レイが言った。
父は店の奥を見る。
「入荷がなかったんだろう」
列の前の方で声が上がった。
「一個じゃ足りないよ!」
女性の声だった。
「子どもが三人いるの!」
店主らしい男性が、何度も頭を下げている。
「すみません。本当に一人一点でお願いしています」
「お金なら払うから!」
女性が財布を開く。
「倍でも三倍でも払うから、もう少し売って!」
店主は困った顔で首を振った。
「金額の問題じゃないんです」
店内を指す。
「売る物がないんですよ」
周囲が静かになった。
女性も財布を握ったまま黙る。
店主は続けた。
「今日これを全部売ったら、次がいつ来るか分からないんです。だから少しでも多くの人に回したい」
誰も反論できなかった。
レイは父を見る。
父も黙っていた。
お金を出せば買える。
それが当たり前だった。
でも今は、お金があっても物がない。
列を離れ、二人は先へ進んだ。
商店街の角に、昨日までなかった張り紙が増えている。
『食料の持ち込み歓迎』
『余っている保存食があれば避難所へ』
『配給は一世帯一回まで』
その一枚一枚に、人が立ち止まっている。
少し先では、男性二人が言い争っていた。
「俺はまだもらってない!」
「朝来ただろ!」
「それは水だけだ!」
「みんな同じなんだよ!」
周囲の人が止めに入る。
殴り合いにはならなかった。
でも声はなかなか収まらなかった。
レイは歩く速度を落とした。
「前はこんな感じじゃなかったよね」
「ああ」
父の返事は短い。
「みんな、お腹すいてるから?」
父は少し考える。
「それもある」
「それだけ?」
「不安なんだと思う」
「不安?」
「今日食べられても、明日あるか分からない」
レイは何も言わなかった。
今朝の配給を思い出す。
小さくなったパン。
次が来るか分からない昼食。
その不安なら、少し分かる気がした。
レイ達は途中の公園で休んだ。
父がバッグから非常食を一つ出した。
地震のあと、避難所でもらったものだ。
小さなビスケットの袋。
「これ食べよう」
「父さんは?」
「半分ずつだ」
父が袋を開ける。
中には六枚。
三枚ずつ。
レイは一枚食べた。
いつもなら何とも思わない量。
今日は、口の中からなくなるのが惜しい。
二枚目をゆっくり食べる。
三枚目は手の上に残した。
父が気づく。
「どうした」
「あとで食べる」
「今食べていいぞ」
「まだ大丈夫」
父は何も言わなかった。
レイはビスケットを袋に戻した。
公園を出たあとも聞き込みを続けたが、新しい証言はなかった。
その途中、小さな家の前で、女性が野菜を並べていた。
キャベツ。
大根。
土のついた芋。
値札はない。
「売ってるのかな」
レイが言う。
父が近づく。
女性は首を振った。
「売ってるんじゃないよ」
「じゃあ?」
「近所の畑で採れた分。避難所に持っていくの」
レイは野菜を見る。
「食べ物、あるんだ」
女性が苦笑する。
「畑にはね」
父が尋ねる。
「収穫はできてるんですか」
「できるものはできてる。でも全部を運べるわけじゃないし、保存も難しいしね」
女性は土のついた大根を持ち上げる。
「こういうのはまだいい。でも、傷みやすいものは間に合わない」
「町まで持ってくる人も足りない?」
「ああ。車を出せる人も減ってるし」
女性は野菜を箱に詰め直した。
「作れないんじゃないの。届かないの」
その言葉を聞いて、レイは昨日の店主の話を思い出した。
使った分が戻ってこない。
今日の食料不足も、その先にある。
女性の家を離れて少し歩くと、今度は人が荷車を押しているのが見えた。
古い台車に、野菜の箱がいくつも積まれている。
自転車の荷台にも袋が括りつけられていた。
数人で、ゆっくり学校の方へ運んでいる。
「避難所に持っていくんですか?」
父が声をかける。
先頭の男性が頷く。
「近くの農家から分けてもらった」
「結構あるね」
レイが言うと、男性は箱を見た。
「見た目ほどじゃないよ」
上の箱を開ける。
中の葉物は、一部がしおれていた。
「昨日のうちに運びたかったんだけど、車が出せなくてな。今朝、人を集めて台車で持ってきた」
別の箱には、傷んだ野菜が分けて入れてある。
「これは?」
「食べられるところだけ使えるか確認してもらう。全部は無理だろうけど」
男性は額の汗を拭った。
「畑にあるからって、すぐ食卓に並ぶわけじゃないんだな。こんな時になって初めて分かったよ」
父が荷車の車輪を見る。
一つが歪み、紐で補強されている。
「学校まで手伝います」
父が言った。
「え?」
「同じ方向なので」
レイも台車の横に回る。
「僕も押す」
ルカは少し離れたところから二人を見る。
男性は一瞬驚いたあと、
「助かるよ」
と笑った。
学校までの途中、何度も台車を止めた。
瓦礫を避ける。
段差を越える。
狭い道を選ぶ。
車なら数分で運べたはずの距離を、人の手で少しずつ進む。
レイは押しながら、箱の中の野菜を見た。
食べ物はある。
でも、必要な場所へ運ぶだけでこんなに時間がかかる。
学校の裏口に着くと、職員たちがすぐに出てきた。
「野菜ですか!」
声が少し明るくなる。
箱を一つずつ受け取る。
けれど、全部をそのまま配るわけにはいかなかった。
調理担当の女性が中身を確認する。
「これは今日使える」
「こっちは傷んでるから分けよう」
「水、どれくらい使える?」
「洗う分を考えないと」
届いた瞬間に食事になるわけではない。
洗う。
切る。
煮る。
大勢に分ける。
そのための水も、燃料も、道具も必要だった。
それでも、職員の一人が言った。
「今夜のスープ、少し増やせるかもしれません」
周囲の空気が少しだけ緩んだ。
レイも嬉しかった。
たったそれだけなのに。
少し増える。
その言葉が、今はすごく大きく聞こえた。
レイ達は再び学校を出て、残りの聞き込みを続けた。
日が傾き、瓦礫の影が道の端まで伸びていた。学校へ戻る途中、レイは人だかりに気づいた。
何人かが地面を見ている。
レイも近づく。
段ボール箱が一つ、倒れていた。
中身は空。
避難所へ運ぶ予定だった保存食らしい。
職員らしい男性が周囲を見回している。
「ここに置いたんです。ほんの五分です」
「誰か見てませんか?」
返事はない。
「全部?」
別の人が聞く。
「全部です」
男性の声が震えていた。
「一箱、全部なくなってる」
レイは空の箱を見る。
父も足を止めている。
「盗まれたの?」
レイが小さく聞く。
父はすぐには答えなかった。
「たぶんな」
「食べるために?」
「……そうだろうな」
レイは胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
盗むことが悪い。
そんなことは分かっている。
でも、その人も食べる物がなかったのかもしれない。
家族がいたのかもしれない。
そう考えると、単純に怒ることもできなかった。
学校に戻ると、昼の配給はなかったと聞かされた。
夕食はある。
ただし量は少ない。
小さなおにぎり一つ。
それと、昼間運んだ野菜を使ったスープ。
具は少ない。
でも朝よりは、少しだけ食事らしく見えた。
レイは受け取って、父と体育館の端に座った。
ルカには、鞄に残していた猫用の餌を少し出した。
ルカはいつものように食べた。
レイはおにぎりを持ったまま、しばらく見つめた。
「食べないのか?」
父が聞く。
「食べる」
一口かじる。
小さい。
すぐになくなりそうだった。
周囲を見る。
誰も文句を言っていない。
文句を言っても増えないと、もうみんな分かっている。
少し離れたところで、昼間の店にいた女性が子ども二人に自分のおにぎりを分けていた。
「お母さんも食べて」
「食べてるよ」
「食べてないじゃん」
女性は笑っていた。
でも、その手には何も残っていなかった。
レイは自分のおにぎりを見る。
半分だけ食べる。
残りを包み直した。
父が見ている。
「明日の分?」
レイは少し迷ってから頷いた。
「もし朝、なかったら嫌だから」
父は何も言わなかった。
体育館では、食事を終えた人々が毛布に身を横たえていた。
明かりは少ない。
誰かの腹が鳴る音がした。
小さな音なのに、妙にはっきり聞こえた。
少しして、別の場所でも鳴った。
レイは毛布の中で目を開けていた。
自分の腹も空いている。
眠れないほどではない。
でも、ずっと何かが足りない感じがする。
足元にはルカ。
父はすぐ近くで横になっている。
レイはバッグの中に手を入れた。
昼に残したビスケット。
夕食で残したおにぎり。
ある。
まだある。
だから大丈夫。
そう思おうとした。
でも。
明日の朝は?
明日の昼は?
その次は?
レイはバッグから手を離した。
昼間の空になった箱が頭に浮かぶ。
財布を開いていた女性。
売る物がないと言った店主。
自分の分を子どもに渡していた母親。
食べ物がなくなっただけで、人の顔が変わっていく。
声が強くなる。
疑う。
奪う。
隠す。
残す。
レイは目を閉じた。
地震のあと、怖いものは壊れた建物や止まった街だと思っていた。
でも今は違う。
何もないことが怖い。
明日あるか分からないことが怖い。
そして。
その不安が、人を少しずつ変えていくことが、もっと怖かった。




