第18話「噂」
赤いナイフが消えたあとも、配給所の列は動かなかった。
誰かが落とした水のボトルが、地面を転がっていく。
その音が妙にはっきりと聞こえた。
男は右手を開いたまま、立ち尽くしていた。
ついさっきまで、そこに赤い刃があった。
もう光は残っていない。
「……どうなってるんだ」
男が掠れた声で言った。
答える人はいなかった。
配給係の男性は、台の向こう側で男を見ていた。
手を伸ばせば届く距離だったはずなのに、今は二人の間がずいぶん遠く感じられる。
男は何度か口を開いたが、言葉にならなかった。
「見ただろ、今の」
「手から出たよな?」
「ナイフだった。間違いない」
周囲の声が少しずつ戻ってくる。
レイは父の隣で、そのやり取りを聞いていた。
誰も怪我をしていない。
食料も、何一つ奪われていない。
それなのに、さっきまでとは空気が違った。
「刃物を持ってたんだぞ」
「持ってたんじゃない。急に出たんだよ」
「同じことだろ」
言い返した男性の声は震えていた。
怖かったのだと思う。
レイも、あの赤い刃を見た瞬間は息が止まった。
だから、何も怖がることはないとは言えなかった。
誰かが、列の後ろから叫んだ。
「警察を呼んで!」
男の肩がびくりと跳ねた。
周囲を見回す。
向けられているのは、驚いた顔ばかりだった。
「違う……俺は……」
言いかけて、男は口を閉じた。
何を説明すればいいのか、自分でも分からないのだろう。
配給係の男性が、台の向こうから声をかけた。
「待ってください。まず、落ち着いて――」
男が一歩下がる。
近くにいた人たちが、さっと道を空けた。
男はその隙間を見た。
左手には、最初に受け取った小さな食料袋を握っている。
もう片方の手は、何もないのに震えていた。
「……すみません」
男は小さく言った。
そして、突然身を翻した。
「あっ、待って!」
誰かが呼び止めたが、男は振り返らなかった。
人の間を抜け、瓦礫を避けながら通りへ走り出す。
遠ざかる背中が角の向こうへ消えるまで、レイは何もできなかった。
「逃げたぞ!」
「やっぱり、何かしたんじゃないのか」
「何かって、何を?」
男が立っていた場所には、赤い光の欠片さえ残っていない。
レイは誰も追わない通りを見た。
さっきまであれほど怒っていた男が、最後には怯えたような顔をしていた。
配給係の男性が、深く息を吐いた。
「……誰も怪我はしてません」
その声は、周りのざわめきにかき消されそうだった。
少しして、制服姿の警察官が二人、配給所へやって来た。
先ほどまでレイたちがいた臨時窓口から来たらしい。
「何がありましたか」
警察官の一人が、周囲を見回した。
「ナイフです!」
「手から、赤いのが出て……」
「配給で揉めてたんです」
「男は逃げました!」
声が重なる。
警察官は一度手を上げた。
「順番に聞きます。まず、怪我をした方はいますか」
誰も手を挙げなかった。
配給係の男性が首を振る。
「怪我はしてません」
「食料が奪われたり、壊されたりは?」
「ありません。あの人が持っていったのも、最初に渡した一食分だけです」
警察官がメモを取る。
「ナイフは今、どこにありますか」
「消えたんです」
配給係が答えると、警察官は一瞬だけペンを止めた。
「消えた、というのは?」
「手の中で、光になって……何もなくなったんです」
「その男性は、どちらへ?」
何人かが通りの先を指した。
だが、名前を知っている人はいなかった。
警察官は顔を上げる。
「その人が、誰かにナイフを向けましたか?」
「向けたと思います」
「いや、手に持ってただけだろ」
「配給台へ飛びかかろうとしてたじゃないか!」
言葉がぶつかった。
配給係の男性は少し考えてから答えた。
「怖かったのは本当です。でも、刃を向けられたとは思いません」
レイは思わず口を挟んだ。
「配給台へ身を乗り出したのは、ナイフが出る前です」
警察官がこちらを見る。
「君も見ていたんだね」
「はい。ナイフが出たあとは、自分の手を見て驚いてました。誰にも向けてません」
父がレイの隣に立つ。
「私も見ていました。『警察を呼んで』という声が上がったあと、あの男性は周囲を見回していました。逃げた理由までは、私にも分かりません」
「分かりました。皆さんの話を記録しておきます」
警察官は、配給係にももう一度確認した。
何が起きたかを決めつけず、話を一つずつ聞いている。
けれど、列の後ろではすでに別の会話が始まっていた。
「警察が来るって聞いて逃げたんだろ」
「だったら、やましいことがあったんじゃないか」
レイは、男が逃げ出す直前の顔を思い出した。
あの人は、何が起きたのか分からないまま、人々の視線に囲まれていた。
逃げた理由を、レイは聞けなかった。
もう、本人に尋ねることもできない。
配給が再開したのは、それからしばらくしてからだった。
係の男性は乱れた箱を並べ直し、一人ずつ食料袋を渡していく。
「次の方、どうぞ」
声は少し掠れていた。
列に戻った人たちは、以前より静かだった。
レイと父も食料を受け取った。
小さなクラッカーと缶詰、それに水。
受け取った袋は軽い。
レイは、さっきの男が走っていった通りへ目を向けた。
もう姿は見えない。
「父さん」
「ん?」
「あの人、どうなるの?」
「分からない。警察も、まだ本人の話を聞けてないからな」
レイは頷いた。
「家で、子どもがお腹すかせてるって言ってたよね」
「そう言ってたな」
父は、自分の手にある食料袋を見た。
「……あれだけで、足りるのかな」
男が握っていた小さな袋が頭に浮かんだ。
レイたちが受け取ったものと、同じ重さのはずだった。
配給所を離れると、通りの向こうで何人かが立ち話をしていた。
そのうちの一人が、興奮した様子で手を動かしている。
「赤いナイフだってさ。いきなり手に出たんだと」
「本当に?」
「警察が来る前に逃げたって」
そこまでは、レイの見たことと同じだった。
「配給の人に突きつけたらしいよ」
レイの足が止まる。
「……違う」
小さく呟いた声は、相手には届かなかった。
父も話し声を聞いたらしく、振り返った。
「今の、聞こえた?」
「ああ」
「そんなこと、してなかったよね」
「してなかった」
父は短く答えた。
レイは振り返ったが、話していた人たちはもう別の道へ歩いていった。
追いかける理由があるのか、分からなかった。
学校へ戻る頃には、傾いた日差しが校庭の端まで伸びていた。
体育館には配給を待つ人や、毛布の上で休む人たちがいる。
見慣れた光景だった。
入口の近くで、二人の男性が話していた。
「町の配給所で、光るナイフを持った男が暴れたらしい」
「食料を取って逃げたって?」
「そう聞いたよ。警察から逃げてるらしい」
レイは立ち止まった。
父も足を止める。
「違います」
二人がこちらを見る。
レイは少し声を大きくした。
「僕、その場にいました。ナイフは出たけど、あの人、誰も脅してません。食料も奪ってないです」
「え? そうなの?」
男性の一人が眉を上げた。
「じゃあ、何で逃げたんだ?」
「……それは、分かりません。でも、警察が来る前でした。誰も追いかけてないです」
「でも、ナイフを出したのは本当なんだろ?」
「……はい」
「だったら、危なかったのは本当じゃないか」
レイは答えられなかった。
あの刃が急に動いていたら。
誰かに当たっていたら。
怖いと思った人の気持ちは、レイにも分かる。
でも、あの男は自分の手を見て、誰よりも驚いていた。
「本人も、何が起きたか分かってなかったんだと思います」
レイが言うと、男性は少し困った顔になった。
「そうか……。それは知らなかったな」
もう一人の男性は、何も言わず腕を組んだ。
父が静かに頭を下げる。
「話を途中から聞いてしまって、すみません。ただ、食料を奪ったというのは事実ではありません」
「いや、こっちも人から聞いただけだから」
男性はそう答えた。
悪意があるようには見えなかった。
本当に、そう聞いたのだろう。
レイと父がその場を離れると、背後から話し声が続いた。
「じゃあ、奪って逃げたわけじゃないのか」
「でも、逃げたのは本当なんだろ?」
レイは振り返らなかった。
体育館の奥では、昨日手が緑に光った女性が、毛布を畳んでいた。
レイは顔を覚えていた。
急に手が光り、泣きそうな声を上げていた人だ。
近くにいた小さな男の子が、その女性の手を見て言った。
「お姉さんも、ナイフ出るの?」
女性の手が止まる。
「……分からない」
子どもの母親が慌てて近づいた。
「こっちへおいで」
男の子の肩を抱いて、少し離れた場所へ連れていく。
女性は何も言わなかった。
ただ、袖を指先まで引き下ろした。
レイはその仕草を見ていた。
昨日は、光る手を見た人たちが集まっていた。
何が起きているのか知りたくて、みんな覗き込んでいた。
今日は違う。
近づいて確かめるより、少し離れて見ている人が増えていた。
女性の手は今、光っていない。
それでも、袖は下ろされたままだった。
「……父さん」
レイが小さく声をかける。
「どうした」
「昨日、あの人も怖がってたよね」
「ああ」
「自分の手なのに」
父は女性の方を見た。
少しして、ゆっくり頷いた。
ルカがレイの足元をすり抜け、毛布の端へ歩いていく。
女性の近くで足を止めたが、それ以上は近づかず、ちょこんと座った。
女性が気づき、わずかに目を細める。
「きれいな猫ね」
「ルカっていいます」
レイが答えると、ルカは短く鳴いた。
女性はもう一度だけ笑い、それから自分の手を膝の下へ隠した。
レイたちは体育館の隅に戻った。
父は鞄から、警察に届け出るためにまとめた紙を取り出した。
母の名前や、最後に分かっている足取りが書かれていた。
蒼宮香織。
その名前は今日、警察の記録にも残された。
レイはその文字を見つめた。
今も母がどこにいるのか分からない。
でも、今日からは警察も記録を照合してくれる。
父は紙を透明な袋へ戻した。
「明日は、何か分かるかな」
「すぐには難しいかもしれない。でも、確認できることは増えた」
「うん」
レイは頷いた。
すぐに何かが変わるわけではない。それでも、一歩だけ前へ進めた気がした。
ただ、今日はいろいろなことが起きすぎた。
少し離れた場所で、誰かがラジオの音を上げた。
ニュースは各地で報告された手の発光について伝えている。
原因はまだ分からず、政府が調査を進めているという。
「原因も分からないのか」
「なのに、あんな物まで出るんだろ?」
誰かが言った。
レイはラジオへ顔を向けた。
確かに、分からないことばかりだった。
あのナイフがなぜ現れたのかも、何がきっかけだったのかも。
ただ一つ、レイには分かっていることがあった。
あの男は、ナイフを見て驚いていた。
怖がっていたのは、周りの人だけではなかった。
そのことを話せても、なぜ逃げたのかは本人にしか分からなかった。
そして、レイたちが知らない間にも、違う話が増えていく。
体育館の窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
天井の灯りが少しずつ落とされ、人々は毛布の上へ戻っていく。
レイが顔を上げると、向かいの通路を歩く男性が、すれ違う人の手をちらりと見た。
その人も、男性の手へ目を向けた。
どちらの手も光っていない。
それでも二人は、少しだけ距離を空けて通り過ぎた。
レイは自分の手を見た。
何も起きていない、いつもの手だった。
配給所で生まれた赤い光は、もうどこにもない。
けれど、あの出来事について話す声は、まだ体育館のあちこちから聞こえていた。




