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RE:LIGHT  作者: SORA
第3巻「ふたつの青」

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18/18

第18話「噂」


 赤いナイフが消えたあとも、配給所の列は動かなかった。

 誰かが落とした水のボトルが、地面を転がっていく。

 その音が妙にはっきりと聞こえた。


 男は右手を開いたまま、立ち尽くしていた。

 ついさっきまで、そこに赤い刃があった。

 もう光は残っていない。


「……どうなってるんだ」


 男が掠れた声で言った。

 答える人はいなかった。


 配給係の男性は、台の向こう側で男を見ていた。

 手を伸ばせば届く距離だったはずなのに、今は二人の間がずいぶん遠く感じられる。


 男は何度か口を開いたが、言葉にならなかった。


「見ただろ、今の」


「手から出たよな?」


「ナイフだった。間違いない」


 周囲の声が少しずつ戻ってくる。

 レイは父の隣で、そのやり取りを聞いていた。


 誰も怪我をしていない。

 食料も、何一つ奪われていない。

 それなのに、さっきまでとは空気が違った。


「刃物を持ってたんだぞ」


「持ってたんじゃない。急に出たんだよ」


「同じことだろ」


 言い返した男性の声は震えていた。

 怖かったのだと思う。

 レイも、あの赤い刃を見た瞬間は息が止まった。


 だから、何も怖がることはないとは言えなかった。


 誰かが、列の後ろから叫んだ。


「警察を呼んで!」


 男の肩がびくりと跳ねた。

 周囲を見回す。

 向けられているのは、驚いた顔ばかりだった。


「違う……俺は……」


 言いかけて、男は口を閉じた。

 何を説明すればいいのか、自分でも分からないのだろう。


 配給係の男性が、台の向こうから声をかけた。


「待ってください。まず、落ち着いて――」


 男が一歩下がる。

 近くにいた人たちが、さっと道を空けた。


 男はその隙間を見た。

 左手には、最初に受け取った小さな食料袋を握っている。

 もう片方の手は、何もないのに震えていた。


「……すみません」


 男は小さく言った。

 そして、突然身を翻した。


「あっ、待って!」


 誰かが呼び止めたが、男は振り返らなかった。

 人の間を抜け、瓦礫を避けながら通りへ走り出す。

 遠ざかる背中が角の向こうへ消えるまで、レイは何もできなかった。


「逃げたぞ!」


「やっぱり、何かしたんじゃないのか」


「何かって、何を?」


 男が立っていた場所には、赤い光の欠片さえ残っていない。

 レイは誰も追わない通りを見た。

 さっきまであれほど怒っていた男が、最後には怯えたような顔をしていた。


 配給係の男性が、深く息を吐いた。


「……誰も怪我はしてません」


 その声は、周りのざわめきにかき消されそうだった。


 少しして、制服姿の警察官が二人、配給所へやって来た。

 先ほどまでレイたちがいた臨時窓口から来たらしい。


「何がありましたか」


 警察官の一人が、周囲を見回した。


「ナイフです!」


「手から、赤いのが出て……」


「配給で揉めてたんです」


「男は逃げました!」


 声が重なる。

 警察官は一度手を上げた。


「順番に聞きます。まず、怪我をした方はいますか」


 誰も手を挙げなかった。

 配給係の男性が首を振る。


「怪我はしてません」


「食料が奪われたり、壊されたりは?」


「ありません。あの人が持っていったのも、最初に渡した一食分だけです」


 警察官がメモを取る。


「ナイフは今、どこにありますか」


「消えたんです」


 配給係が答えると、警察官は一瞬だけペンを止めた。


「消えた、というのは?」


「手の中で、光になって……何もなくなったんです」


「その男性は、どちらへ?」


 何人かが通りの先を指した。

 だが、名前を知っている人はいなかった。

 警察官は顔を上げる。


「その人が、誰かにナイフを向けましたか?」


「向けたと思います」


「いや、手に持ってただけだろ」


「配給台へ飛びかかろうとしてたじゃないか!」


 言葉がぶつかった。

 配給係の男性は少し考えてから答えた。


「怖かったのは本当です。でも、刃を向けられたとは思いません」


 レイは思わず口を挟んだ。


「配給台へ身を乗り出したのは、ナイフが出る前です」


 警察官がこちらを見る。


「君も見ていたんだね」


「はい。ナイフが出たあとは、自分の手を見て驚いてました。誰にも向けてません」


 父がレイの隣に立つ。


「私も見ていました。『警察を呼んで』という声が上がったあと、あの男性は周囲を見回していました。逃げた理由までは、私にも分かりません」


「分かりました。皆さんの話を記録しておきます」


 警察官は、配給係にももう一度確認した。

 何が起きたかを決めつけず、話を一つずつ聞いている。


 けれど、列の後ろではすでに別の会話が始まっていた。


「警察が来るって聞いて逃げたんだろ」


「だったら、やましいことがあったんじゃないか」


 レイは、男が逃げ出す直前の顔を思い出した。

 あの人は、何が起きたのか分からないまま、人々の視線に囲まれていた。


 逃げた理由を、レイは聞けなかった。

 もう、本人に尋ねることもできない。


 配給が再開したのは、それからしばらくしてからだった。

 係の男性は乱れた箱を並べ直し、一人ずつ食料袋を渡していく。


「次の方、どうぞ」


 声は少し掠れていた。

 列に戻った人たちは、以前より静かだった。


 レイと父も食料を受け取った。

 小さなクラッカーと缶詰、それに水。

 受け取った袋は軽い。


 レイは、さっきの男が走っていった通りへ目を向けた。

 もう姿は見えない。


「父さん」


「ん?」


「あの人、どうなるの?」


「分からない。警察も、まだ本人の話を聞けてないからな」


 レイは頷いた。


「家で、子どもがお腹すかせてるって言ってたよね」


「そう言ってたな」


 父は、自分の手にある食料袋を見た。


「……あれだけで、足りるのかな」


 男が握っていた小さな袋が頭に浮かんだ。

 レイたちが受け取ったものと、同じ重さのはずだった。


 配給所を離れると、通りの向こうで何人かが立ち話をしていた。

 そのうちの一人が、興奮した様子で手を動かしている。


「赤いナイフだってさ。いきなり手に出たんだと」


「本当に?」


「警察が来る前に逃げたって」


 そこまでは、レイの見たことと同じだった。


「配給の人に突きつけたらしいよ」


 レイの足が止まる。


「……違う」


 小さく呟いた声は、相手には届かなかった。


 父も話し声を聞いたらしく、振り返った。


「今の、聞こえた?」


「ああ」


「そんなこと、してなかったよね」


「してなかった」


 父は短く答えた。


 レイは振り返ったが、話していた人たちはもう別の道へ歩いていった。

 追いかける理由があるのか、分からなかった。



 学校へ戻る頃には、傾いた日差しが校庭の端まで伸びていた。

 体育館には配給を待つ人や、毛布の上で休む人たちがいる。

 見慣れた光景だった。


 入口の近くで、二人の男性が話していた。


「町の配給所で、光るナイフを持った男が暴れたらしい」


「食料を取って逃げたって?」


「そう聞いたよ。警察から逃げてるらしい」


 レイは立ち止まった。

 父も足を止める。


「違います」


 二人がこちらを見る。

 レイは少し声を大きくした。


「僕、その場にいました。ナイフは出たけど、あの人、誰も脅してません。食料も奪ってないです」


「え? そうなの?」


 男性の一人が眉を上げた。


「じゃあ、何で逃げたんだ?」


「……それは、分かりません。でも、警察が来る前でした。誰も追いかけてないです」


「でも、ナイフを出したのは本当なんだろ?」


「……はい」


「だったら、危なかったのは本当じゃないか」


 レイは答えられなかった。


 あの刃が急に動いていたら。

 誰かに当たっていたら。

 怖いと思った人の気持ちは、レイにも分かる。


 でも、あの男は自分の手を見て、誰よりも驚いていた。


「本人も、何が起きたか分かってなかったんだと思います」


 レイが言うと、男性は少し困った顔になった。


「そうか……。それは知らなかったな」


 もう一人の男性は、何も言わず腕を組んだ。


 父が静かに頭を下げる。


「話を途中から聞いてしまって、すみません。ただ、食料を奪ったというのは事実ではありません」


「いや、こっちも人から聞いただけだから」


 男性はそう答えた。

 悪意があるようには見えなかった。

 本当に、そう聞いたのだろう。


 レイと父がその場を離れると、背後から話し声が続いた。


「じゃあ、奪って逃げたわけじゃないのか」


「でも、逃げたのは本当なんだろ?」


 レイは振り返らなかった。



 体育館の奥では、昨日手が緑に光った女性が、毛布を畳んでいた。

 レイは顔を覚えていた。

 急に手が光り、泣きそうな声を上げていた人だ。


 近くにいた小さな男の子が、その女性の手を見て言った。


「お姉さんも、ナイフ出るの?」


 女性の手が止まる。


「……分からない」


 子どもの母親が慌てて近づいた。


「こっちへおいで」


 男の子の肩を抱いて、少し離れた場所へ連れていく。

 女性は何も言わなかった。

 ただ、袖を指先まで引き下ろした。



 レイはその仕草を見ていた。


 昨日は、光る手を見た人たちが集まっていた。

 何が起きているのか知りたくて、みんな覗き込んでいた。


 今日は違う。

 近づいて確かめるより、少し離れて見ている人が増えていた。


 女性の手は今、光っていない。

 それでも、袖は下ろされたままだった。


「……父さん」


 レイが小さく声をかける。


「どうした」


「昨日、あの人も怖がってたよね」


「ああ」


「自分の手なのに」


 父は女性の方を見た。

 少しして、ゆっくり頷いた。


 ルカがレイの足元をすり抜け、毛布の端へ歩いていく。

 女性の近くで足を止めたが、それ以上は近づかず、ちょこんと座った。


 女性が気づき、わずかに目を細める。


「きれいな猫ね」


「ルカっていいます」


 レイが答えると、ルカは短く鳴いた。

 女性はもう一度だけ笑い、それから自分の手を膝の下へ隠した。



 レイたちは体育館の隅に戻った。

 父は鞄から、警察に届け出るためにまとめた紙を取り出した。

 母の名前や、最後に分かっている足取りが書かれていた。


 蒼宮香織。

 その名前は今日、警察の記録にも残された。


 レイはその文字を見つめた。

 今も母がどこにいるのか分からない。

 でも、今日からは警察も記録を照合してくれる。


 父は紙を透明な袋へ戻した。


「明日は、何か分かるかな」


「すぐには難しいかもしれない。でも、確認できることは増えた」


「うん」


 レイは頷いた。

 すぐに何かが変わるわけではない。それでも、一歩だけ前へ進めた気がした。

 ただ、今日はいろいろなことが起きすぎた。


 少し離れた場所で、誰かがラジオの音を上げた。

 ニュースは各地で報告された手の発光について伝えている。

 原因はまだ分からず、政府が調査を進めているという。


「原因も分からないのか」


「なのに、あんな物まで出るんだろ?」


 誰かが言った。

 レイはラジオへ顔を向けた。


 確かに、分からないことばかりだった。

 あのナイフがなぜ現れたのかも、何がきっかけだったのかも。


 ただ一つ、レイには分かっていることがあった。


 あの男は、ナイフを見て驚いていた。

 怖がっていたのは、周りの人だけではなかった。


 そのことを話せても、なぜ逃げたのかは本人にしか分からなかった。

 そして、レイたちが知らない間にも、違う話が増えていく。


 体育館の窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。

 天井の灯りが少しずつ落とされ、人々は毛布の上へ戻っていく。


 レイが顔を上げると、向かいの通路を歩く男性が、すれ違う人の手をちらりと見た。

 その人も、男性の手へ目を向けた。


 どちらの手も光っていない。


 それでも二人は、少しだけ距離を空けて通り過ぎた。


 レイは自分の手を見た。

 何も起きていない、いつもの手だった。


 配給所で生まれた赤い光は、もうどこにもない。


 けれど、あの出来事について話す声は、まだ体育館のあちこちから聞こえていた。

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