第12話「政治家」
体育館の高い窓から、薄い光が差し込んでいた。
レイは毛布の上で目を開けた。
すぐ横では、ルカが丸くなって眠っている。
少し離れた場所では、父がすでに起きていた。
地図を膝の上に広げ、家から学校までの道を確認している。
「父さん、早いね」
「目が覚めただけだ」
レイは体を起こした。
体育館の中では、避難している人達が少しずつ動き始めていた。
毛布を畳む人。
水をもらいに行く人。
子どもを起こす親。
昨日までと同じような朝だった。
でも、レイには今日やることがある。
家から学校まで。
母が通ったかもしれない道を、一つずつ確認する。
「どこから見る?」
レイが地図を覗き込む。
父は指で二本の道をなぞった。
「家から学校へ来るなら、まずこの二つだと思う」
「大通りと、住宅街の方?」
「ああ。地震の直後なら、大通りが塞がれてた可能性もある。そうならこっちへ回ったかもしれない」
「じゃあ両方見る?」
「そのつもりだ」
ルカが目を覚ました。
大きく伸びをしてから、レイの膝へ前足を乗せる。
「おはよ、ルカ」
レイが頭を撫でると、ルカは短く鳴いた。
父が地図を畳んだ。
「朝の配給をもらったら出よう」
「うん」
簡単な朝食を済ませ、レイ達は荷物をまとめた。
母の写真。
家で見つけたメモ。
地図。
必要なものを確認して、体育館を出る。
昨日より少し雲が多かった。
校庭では、物資を運ぶ人達が動き始めている。
レイが校門へ向かおうとした時だった。
「すみません」
後ろから声がした。
父が振り返る。
声をかけてきたのは、昨日も学校にいた男性職員だった。
五十代くらい。
避難者の記録を整理していた人だ。
男性は父の顔をじっと見た。
「昨日から気になっていたんですが……」
父が少し首を傾げる。
「はい」
男性は一度迷うようにしてから聞いた。
「もしかして、創政党の蒼宮蓮司さんですか?」
レイは父を見た。
父は一瞬だけ黙った。
それから、静かに答えた。
「……そうです」
男性の顔が変わった。
「ああ、やっぱり」
近くにいた別の職員も会話に気づいて振り向く。
「え?」
男性職員が小声で言う。
「この方、国会議員の蒼宮さん」
「えっ」
職員は驚いた顔で父を見る。
父は少し困ったように頭を下げた。
「今はただ、家族を探しているだけです」
レイにとっては、それが父だった。
国会議員。
創政党。
そんな肩書きがあっても、家では普通の父親だった。
朝はコーヒーを飲みながら新聞を見て、休みの日にはソファで寝ていることもある。
レイが学校で何かあれば話を聞き、母に怒られればたまに味方もしてくれる。
だから、誰かが父を見て急に態度を変える瞬間には、今でも少しだけ違和感があった。
男性職員は慌てて頭を下げた。
「すみません。そういう意味じゃなくて」
「大丈夫です」
父が答える。
「それより、何か?」
「あ……はい」
男性はそこで表情を変えた。
「そうだ。蒼宮さんを探していた人がいました」
父の目が止まった。
「私を?」
「はい」
レイも男性を見る。
「いつですか?」
父が聞く。
男性は記憶をたどるように少し上を向いた。
「二日……いや、三日くらい前だったと思います」
「どんな人でした?」
「男性です。四十歳前後くらいだったかな。スーツではなかったですけど、きちんとした格好をしてました」
「名前は?」
男性は首を振った。
「すみません。聞いたと思うんですが、覚えてなくて」
父は少し考えた。
「その人は、私の名前を出したんですか?」
「はい。はっきりと。“蒼宮蓮司さんはここにいませんか”って」
レイは父の横顔を見る。
父は少し考えるように目を細めた。
「何の用件か言っていましたか?」
「そこまでは。急いでいる感じはありました」
「私がここにいないと分かったあと、どうしました?」
「他の避難所も探すと言ってました」
男性は一度言葉を切った。
「かなり真剣に探していたと思います」
父は黙った。
レイが聞く。
「父さん、仕事の人かな?」
「たぶんな。党の人間か……秘書かもしれない」
「父さんを探しに来ても、おかしくないの?」
「この状況なら、むしろ探していると思う」
男性職員が申し訳なさそうに言う。
「もっとちゃんと聞いておけばよかったですね」
父は首を横に振った。
「いえ。当時は皆、自分のことで精一杯だったでしょう」
「その通りで……」
男性は少し考えてから、何か思い出したように言った。
「そういえば」
「何ですか?」
「その人、蒼宮さんの写真を持ってました」
父の表情が少し変わった。
「写真?」
「はい。スマホの画面だったと思います。顔を確認しながら聞いてました」
レイは父を見る。
「じゃあ、父さんを知ってる人なんじゃない?」
「少なくとも、顔と名前は知ってる」
父が答える。
男性職員は続けた。
「テレビで見たとか、そういう感じじゃなかったです。最初から蒼宮さん個人を探してるように見えました」
父は小さく息を吐いた。
「他に何か言ってませんでしたか?」
「すみません。本当にそれくらいです」
「分かりました」
父は頭を下げた。
「ありがとうございます」
男性職員も頭を下げた。
「何か思い出したら言います」
「お願いします」
校門の外へ出てからも、父はしばらく黙っていた。
レイは隣を歩く。
ルカが二人の間を行ったり来たりしている。
「父さん」
「ん?」
「父さんからは連絡してないの?」
「してる。電話も何度か試した。党の方にもメールを送ろうとしたんだが、今はまともに通じなくてな。送信エラーばかりだ」
レイは父を見る。
政府からの発表はあった。街の中にも、復旧のために働いている人達がいる。
父にも、本来ならやるべき仕事がある。
「国民のために働くのが父さんの仕事だからな」
父は少しだけ間を置いた。
「でも今、お前を一人にすることはできない」
レイは黙って父の顔を見た。
「母さんが見つかれば、父さんは仕事に戻ることになると思う」
父がレイを見る。
「大丈夫か、レイ?」
レイは少し考えてから頷いた。
「大丈夫。母さんが見つかったらね」
父は小さく笑った。
「ああ。まずは母さんだ」
父は地図を取り出した。
「予定通り、家から学校までを見る」
レイは頷いた。
「うん」
二人は歩き始めた。
まず確認したのは、大通りだった。
今は瓦礫の一部が片づけられ、人が通れるようになっている。
だが地震の直後は違ったらしい。
道路沿いの建物の壁が崩れ、車が動けなくなっていた。
近くで作業していた男性に父が聞いた。
「地震のあと、この道は通れましたか?」
男性は手を止めた。
「最初の二日はほとんど無理だったと思います」
「歩きでも?」
「歩ける場所はあったけど、かなり危なかったですね」
父が母の写真を見せる。
「この女性を見た覚えはありませんか」
男性は写真を見る。
「分からないなあ」
「ありがとうございます」
少し進む。
コンビニだった建物。
小さな交差点。
崩れた塀。
一つずつ聞いていく。
見た。
見ていない。
似た人がいたかもしれない。
でも確かな話は出ない。
次に住宅街へ入った。
大通りより道は狭い。
その分、建物の倒壊で塞がれた場所が多かった。
「この辺、通れたのかな」
レイが言う。
父が周囲を見る。
「当時の状態を知ってる人に聞こう」
近くの家の前で片づけをしていた女性に声をかける。
写真を見せる。
女性はしばらく考えた。
「この人は分からないけど……この道、地震の次の日くらいまでは通れなかったよ」
「じゃあ、迂回するとしたら?」
「向こうの細い道かな」
女性が別の方向を指す。
父が地図に印をつける。
「ありがとうございます」
レイ達は教えられた道へ向かった。
細い路地だった。
車は入れない。
家と家の間を抜けるように続いている。
「母さん、こっち使った可能性ある?」
「あるな」
父が地図を見る。
「家から学校へ行くなら、少し遠回りだけど通れる」
レイは周りを見る。
古い家。
小さな駐車場。
塀。
地震のあと、ここを多くの人が歩いたのだろう。
ところどころに、当時置かれたままの段ボールや簡易の案内板が残っている。
レイは母の写真を手に、すれ違う人へ聞いた。
「この人、見ませんでしたか」
何度も。
何度も。
返ってくる答えは同じだった。
分からない。
覚えていない。
見ていない。
聞き込みを続けるうちに、レイの足取りは少しずつ重くなっていた。小さな公園を見つけ、二人はそこで休むことにした。
ベンチの一部は壊れていたが、座る場所は残っている。
父が水を飲む。
レイはルカの前に小さな容器を置いた。
ルカが水を飲む。
「父さんを探してた人、秘書だったらまたどこかで会えるかな」
レイが言った。
父がこちらを見る。
「向こうも探してるなら、そのうちな」
「電話、早く戻ればいいのに」
「そうだな」
父は水の入った容器を閉じた。
「連絡がつけば、党の状況も分かる」
レイは頷いた。
「でも今は母さん探すんだよね」
「ああ」
父は迷わず答えた。
「それは変わらない」
レイは少し笑った。
「うん」
父も少しだけ笑った。
その顔は、さっき学校で“国会議員の蒼宮蓮司”と呼ばれた時とは違っていた。
いつもの父だった。
休憩を終え、レイ達はまた歩き始めた。
家から学校まで。
母が通った可能性のある道を、一つずつ。
誰かが覚えているかもしれない。
何か残っているかもしれない。
今は、それを探すしかない。
そしてレイの頭の片隅には、もう一つだけ新しい疑問が残っていた。
父を探していた男。
名前も分からない。
用件も分からない。
ただ、父の顔と名前を知り、わざわざこの学校まで来ていた。
レイは隣を歩く父を見る。
父は地図だけを見ていた。
「次、こっちだ」
「うん」
レイは答えた。
今は母を探す。
それが、今日やることだった。
その日の捜索でも、新しい手がかりは得られなかった。
日が落ちる前に、レイ達は学校の体育館へ戻った。




