第11話「行き違い」
北中学校を出たレイ達は、そのまま家へ向かった。
父が地図を開き、女性が香織を見かけた場所と、自宅までの道を何度も見比べる。
「この道なら、遠回りにはならない」
「じゃあ、やっぱり家の近く通ってるんだ」
「ああ」
レイは前を見た。
地震のあと、母がこの辺りを歩いていた。
その事実だけで、いつもの道路が少し違って見えた。
どの交差点を曲がったのか。
どこで立ち止まったのか。
何を見ながら歩いていたのか。
考えても答えは出ない。
それでも、母が確かにこの街のどこかを歩いていたと思うと、足が自然と速くなった。
「レイ、急ぎすぎるな」
父に言われ、少しだけ歩幅を落とす。
「分かってる」
ルカは二人の少し前を歩いていた。
いつもより何度も振り返る。
「ルカも家だって分かってるのかな」
「たぶんな」
レイが名前を呼ぶと、ルカは短く鳴いてまた前を向いた。
道の途中で、大きく崩れた建物があった。
前に通った時より瓦礫が片づけられ、細い通路が作られている。
作業員が誘導していた。
レイ達は一列になってそこを通った。
崩れた壁の向こうから、家具や生活用品が見えていた。
誰かの家。
誰かの日常。
レイは目をそらさなかった。
自分の家も、あの日から何も変わっていないかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し重くなった。
家が見えた。
屋根の一部は壊れたまま。
外壁にも亀裂が残っている。
けれど、立っている。
レイは門の前で足を止めた。
一度ここに戻っている。
ルカを見つけた場所。
でも今日は、あの時とは目的が違う。
ルカは門をくぐると、玄関の前まで駆けていった。
扉の前で立ち止まり、鼻先を近づける。
何度か匂いを嗅いでから、レイを見た。
「どうした?」
ルカは返事の代わりに小さく鳴いた。
父が玄関に手をかける。
「入ろう」
レイは頷いた。
玄関の扉は、前に開けた時と同じように少し引っかかった。
父が肩を入れるようにして押す。
鈍い音を立てて開いた。
「ルカ、足元気をつけろよ」
レイが言うより早く、ルカは慎重に中へ入った。
すぐには奥へ行かない。
玄関の床を嗅ぎ、靴箱の前で止まり、また廊下へ鼻を向ける。
「なんか気になる?」
レイがしゃがむと、ルカはレイの手に一度だけ頬を擦りつけ、それから家の奥へ歩いた。
家の中は静かだった。
割れた食器。
倒れた棚。
床に散らばった本。
前に見たままの光景。
レイは靴を履いたまま中へ入った。
「母さん」
呼んでみる。
返事はない。
分かっている。
それでも呼ばずにはいられなかった。
「母さん!」
もう一度。
家の中に声だけが響く。
父がリビングへ向かった。
レイも後を追う。
ルカは二人から少し離れ、床や家具の足元を確かめるようにゆっくり歩いていた。
リビング。
地震の時に落ちたものは、まだそのままだった。
テーブルは斜めにずれ、椅子が倒れている。
カーテンは半分外れていた。
レイは部屋を見回した。
「前と……同じだよね」
父が答える。
「大きくは変わってない」
「誰か入った感じ、ない?」
「分からない。前にも一度来てるから」
レイは床を見る。
埃と砂。
割れたガラス。
何人かが歩いた跡はある。
自分達のものかもしれない。
母のものかもしれない。
判断できなかった。
父はキッチンへ行った。
レイは棚の近くを調べる。
何か置いてないか。
紙。
メモ。
書き置き。
「母さんなら、何か残すと思う?」
父が振り返る。
「家に寄ったなら、可能性はある」
「また戻ってくるかもしれないって思うもんね」
「ああ」
二人で手分けした。
玄関。
リビング。
キッチン。
電話の横。
冷蔵庫。
テーブルの上。
目につく場所を一つずつ見る。
その間もルカは、二人とは違う場所を調べていた。
家具の隙間。
カーテンの下。
キッチンカウンターの足元。
一度立ち止まっては鼻を近づけ、また別の場所へ移る。
レイはそれを横目で見ながら言った。
「ルカも探してくれてるのかな」
「家の匂いを確認してるだけかもしれないぞ」
「それでもいいよ。ルカの方が鼻はいいし」
父が少し笑った。
「それは間違いないな」
けれど、目につく場所には何もなかった。
「ないな……」
レイは小さく呟いた。
父は返事をせず、キッチンカウンターの下を覗いている。
レイは廊下へ出た。
「二階も見る?」
「ああ。念のためな」
階段は一部が軋んでいた。
父が先に上がり、安全を確かめる。
レイはその後ろをついていった。
ルカは階段の下まで来たが、すぐには上がってこなかった。
一階の方を振り返り、少し迷うように耳を動かす。
「ルカ?」
レイが呼ぶと、ようやく階段を上ってきた。
二階の廊下。
壁に小さな亀裂が走っている。
レイの部屋のドアは半開きだった。
机の上の物は床に落ち、本棚から本が散らばっている。
レイは中に入った。
ここにも何もない。
「母さん、ここ来たかな」
「来たなら、お前の部屋は見るかもしれないな」
レイは机の引き出しを開けた。
中身は崩れている。
ノート。
ペン。
小物。
特に変わったものはない。
次に両親の寝室へ向かった。
ベッドの横に倒れた棚。
床に落ちた衣服。
父がクローゼットを確認する。
「何か持ち出した形跡は?」
レイが聞く。
「分からないな」
「母さんのバッグとか」
「普段使ってるのは、あの日持って出てるはずだ」
「そっか」
また手がかりはない。
その時、階段の方から小さな音がした。
とん、とん、と軽い足音。
ルカが一人で一階へ下りていく。
「ルカ?」
レイが廊下から覗く。
ルカは振り返らなかった。
「どうしたんだろ」
父も階段を見る。
「行ってみよう」
二人が一階へ下りると、ルカの姿はリビングになかった。
「ルカ」
短い鳴き声が返ってきた。
キッチンの方だ。
レイが向かう。
ルカはカウンターの端でしゃがんでいた。
床には、地震で落ちたらしい紙が何枚も散らばっている。
レシート。
チラシ。
封筒。
いつ落ちたのか分からない。棚と床のわずかな隙間に、白い紙の端が見えていた。
ルカはそこへ前足を伸ばした。
かり、と紙を引っかく。
「何してるの?」
レイが近づく。
ルカはもう一度前足を入れた。
白い紙が少しだけ手前へ動いた。
「紙?」
レイがしゃがむ。
取ろうとすると、ルカがその紙の上に鼻を近づけた。
何度も匂いを嗅ぐ。
そして、レイを見上げた。
「……これが気になるの?」
ルカが鳴いた。
「にゃ」
レイは白い紙を引き出した。
折れ曲がっている。
表には何もない。
裏返す。
文字があった。
「……父さん」
声が変わった。
父がすぐに近づく。
「どうした」
レイは紙を見たまま動けなかった。
その字を知っている。
学校の書類。
買い物メモ。
冷蔵庫に貼られた予定。
毎日見ていた字。
「母さんの字だ」
父がレイの横から紙を見る。
紙には短い文章が書かれていた。
《レイへ
家に戻ったけど、誰もいませんでした。
レイの学校へ向かいます。
父さんと一緒なら、そのまま安全な場所にいてください。
ルカのことも心配です。
必ず探します。
母より》
レイは何度も読んだ。
一行目から。
最後まで。
そして、ルカを見る。
「お前……これ見つけたの?」
ルカは白い紙の近くに座り、尻尾を体に巻きつけた。
「母さんの匂い、分かったのかな」
父がルカを見る。
「そうかもしれないな」
レイは紙を持ったまま、ルカの頭を撫でた。
「すごいじゃん、ルカ」
ルカは目を細めた。
そのままレイの手に頭を押しつける。
「母さん、家に来てたんだ」
父が静かに頷いた。
「そうだな」
「本当に来てた」
さっき北中学校で聞いた話と、今手の中にあるものがつながった。
母は自分を探していた。
家にも戻っていた。
そして誰もいない家で、このメモを残し、学校へ向かった。
レイは文章をもう一度読む。
《ルカのことも心配です》
「ほら、ルカのことも書いてある」
レイは紙をルカの前へ下げた。
もちろん文字が読めるわけではない。
それでもルカは紙に鼻を近づけ、それから小さく鳴いた。
レイは少し笑った。
「母さん、ちゃんとお前のことも心配してたよ」
ルカがレイの足に体を擦りつけた。
父が紙を見つめながら言う。
「このメモを書いたあと、学校へ向かったんだな」
「うん」
「北中で聞いた話とも合う」
レイは頷いた。
「じゃあ、次は学校だ」
父は時間を確認する。
外はまだ明るい。
「行ける」
「今から行こう」
「ああ」
レイはメモを丁寧に折ろうとして、手を止めた。
これ以上折り目をつけたくなかった。
父が小さなファイルを鞄から出す。
「これに入れろ」
「ありがとう」
レイはメモを入れた。
透明な袋越しに、母の文字が見える。
ただの紙ではない。
母が地震のあと、この家にいた証拠だった。
「じゃあ行こう」
レイは玄関へ向かった。
外に出る前に、一度だけ振り返る。
静かな家。
母はここに戻ってきた。
自分達はいなかった。
でも、母は言葉を残してくれた。
レイはファイルを鞄の中へしまった。
「今度は学校だ」
父が頷く。
「行こう」
ルカが先に玄関を出た。
今度はレイ達を待つように、門の前で立ち止まる。
レイ達も続いた。
家を出ると、傾き始めた日の光が道路を照らしていた。
学校までの道は、ここからならそう遠くない。
レイは鞄の中のメモを確かめ、歩幅を速めた。
母が向かったのと同じ場所へ。
学校が見えた頃には、西日が校舎の窓を赤く染めていた。
校門は開いたまま。体育館は今も避難所として使われている。
近くにいた先生がレイに気づいた。
「あれ、蒼宮。どうした?」
「母さんを探してて。地震のあと、ここに来たかもしれないんです」
父が写真を見せると、先生は表情を変えた。
「……悪い。俺は見てないと思う。でも受付の記録は残ってる。確認しよう」
体育館の受付には、地震当日からの名簿や搬送記録が束になって残されていた。
蒼宮香織。
名前はなかった。
「避難者としての登録はありません」
受付の女性がそう答えたあと、父はすぐに聞いた。
「登録せずに、人を探しに来た方もいますよね」
「はい。最初の何日かはかなり混乱していました。全員の出入りを記録できていたわけではありません」
レイはその言葉を聞いて、息をついた。
名前がない。
でも、それだけで母が来なかったとは言えない。
先生達にも写真を見てもらった。受付にいた職員、校内で誘導していた人、当時の記録を持っていた先生。
何人にも確認したが、「この人を見た」という確かな証言は出なかった。
その途中、レイは自分の教室の前で足を止めた。
あの日、ここで地震が起きた。机が動き、窓が割れ、みんなが叫んだ。
もし母が地震当日にここまで来ていたなら、どこかですれ違っていたかもしれない。
けれど、母が家へ戻った時刻も、メモを書いて学校へ出た時刻も分からない。
校庭へ戻った頃には、日はかなり低くなっていた。
父が地図を開く。
「学校には登録記録がない。見たという人も、今のところいない」
レイはメモの入ったファイルを握った。
「でも、母さんはここに来るつもりだった」
「ああ」
北中で聞いた証言も、自宅に残されたメモも、同じ場所を示している。
それでも、実際に学校まで着いたのかは分からない。
「来てないってこと?」
父は首を振った。
「それもまだ言い切れない。記録が全部残ってるわけじゃないからな」
来たかもしれない。
来ていないかもしれない。
その曖昧さが、レイには一番苦しかった。
父は家と学校の間を指でなぞった。
「明るくなったら、この間をもう一度見よう」
「うん」
今日はもう暗くなる。
レイと父、そしてルカは、そのまま学校の体育館で休むことにした。
毛布の上で、レイはもう一度メモを開いた。
《レイの学校へ向かいます》
その一文は変わらない。
けれど、その先だけがまだ見えなかった。




