第10話「北の避難所」
朝、避難所を出る前に、父は地図を広げた。
昨日までに回った場所には、小さく印がつけてある。
中心部。
南側。
駅の周辺。
病院。
臨時の安否確認所。
レイは地図の北側に残った空白を見た。
「今日は、この辺だな」
父が指でなぞる。
「学校が二つと、公民館が一つ。途中に小さい避難所もある」
「全部回れる?」
「歩ける道ならな」
レイは頷いた。
足元では、ルカが地図の端を前足で押さえていた。
「ルカ、それ地図だから」
レイが手を伸ばすと、ルカは何事もなかったように前足を引いた。
父が地図を畳む。
「行くぞ」
外へ出ると、朝の空気は少し冷たかった。
道路には、昨日運びきれなかった瓦礫が残っている。
崩れた塀の横を人が一列になって歩いていた。
通れる道は増えていたが、前のように好きな道を選べるわけではない。
大きく割れた道路を避ける。
倒れた電柱を避ける。
通行止めの建物を迂回する。
少し進むだけでも何度も足を止めた。
途中、交差点で作業員が手を振っていた。
信号は消えたままだった。
車はほとんど走っていない。
代わりに、荷物を載せた台車や自転車を押す人が目立った。
「父さん」
「ん?」
「昨日より、人増えてない?」
「外に出る人が増えたんだろうな」
「探しに?」
「それもあるだろうし、水や食べ物を取りに行く人もいる」
前を歩く男性が、両手に大きなポリタンクを持っていた。
反対側から来た女性は、紙袋を抱えている。
誰も急いでいるようには見えなかった。
けれど、立ち止まっている人も少なかった。
みんな何かをしなければならない。
そんな空気が街全体にあった。
北側へ入ってから、レイ達はいくつかの避難所を順に回った。
小さな公民館。寺の境内。校舎の一部が使えなくなった小学校。
名簿がある場所では一枚ずつ名前を追い、ない場所では写真を見せて直接聞いた。
「見ていません」「分からない」「似た人ならいた気もする」
そのたびに期待して、そのたびに違った。
昼を過ぎる頃には、レイの返事も少なくなっていた。
それでも、今日いちばん大きな避難所――北中学校がまだ残っていた。
北中学校へ向かう道は、思ったより遠かった。
途中の橋が通行止めになっていて、大きく迂回することになった。
住宅街を抜ける。
屋根に青いシートをかけた家。
一階の窓が割れた家。
玄関前に家具を出している家。
道路脇には、家族の名前を書いた紙を持って歩く人がいた。
レイはその紙を一瞬見た。
自分達と同じだ。
誰かを探している。
少し先では、女性が写真を見せながら通行人に声をかけていた。
返事を聞くたびに頭を下げている。
レイは歩きながら振り返った。
父もその女性を見ていた。
「みんな、探してるんだね」
「ああ」
「見つかってる人もいるのかな」
「いるだろう」
「母さんも、どこかで誰かに聞いてるかな」
父は少しだけ間を置いた。
「分からない」
「そっか」
今は分からない。
レイはそれ以上考えなかった。
確かなものがないうちは、勝手に答えを作りたくなかった。
北中学校が見えたのは、それから二十分ほどしてからだった。
校門の片側が大きく歪んでいる。
校庭にはいくつものテントが並んでいた。
給水車の前には長い列ができている。
体育館の周辺では、毛布や段ボールを運ぶ人が行き来していた。
これまで回った避難所より明らかに人が多い。
「ここだ」
父が言った。
レイは体育館を見上げた。
入口には受付が二つ設けられていた。
片方は物資。
もう片方は安否確認。
レイ達は安否確認の列へ並んだ。
前には五組ほどいた。
一人の男性が受付で名前を伝えている。
係の人が名簿を探す。
「いません」
男性は頭を下げた。
次の女性は、逆に名前を見つけたらしい。
「あった……!」
声が震えた。
受付の職員が場所を教える。
女性は何度も礼を言って走っていった。
レイはその背中を見た。
次は自分達かもしれない。
そう思った。
順番が来る。
父が受付の男性に言った。
「蒼宮香織。三十八歳です」
男性が名簿をめくる。
レイは机の上を見つめた。
紙の束が厚い。
ここなら。
ここなら、あるかもしれない。
男性の指が止まった。
レイの胸が跳ねた。
だが男性は別の紙を取り出しただけだった。
さらに確認する。
数分。
「……ありません」
胸の中が沈んだ。
「こちらに来た記録はないです」
父が聞く。
「途中で別の避難所へ移った記録は?」
「それも残っていません」
「写真を見てもらえますか」
「はい」
父が写真を出した。
家族で撮った写真だった。
母が笑っている。
男性は目を細めた。
「私は見てないですね」
隣の受付にも回してくれた。
女性職員が写真を見る。
「うーん……すみません」
さらに奥にいた職員にも聞いてくれた。
誰も知らない。
レイは唇を噛んだ。
ここも違う。
「ありがとうございました」
父が写真を受け取る。
その時だった。
受付の後ろで段ボールを運んでいた女性が、足を止めた。
「すみません」
父が振り向く。
女性は写真を見ていた。
「その写真、もう一回見せてもらっていいですか」
レイの胸が鳴った。
父が写真を差し出す。
女性は受け取ると、じっと見た。
「この人……」
レイは無意識に一歩近づいた。
「知ってるんですか?」
女性はすぐには答えなかった。
写真を近くで見て、少し離し、もう一度見る。
「髪、茶色っぽいですよね」
「はい」
父が答える。
「肩より下くらいで、少し波がある」
「そうです」
「白っぽい服……いや、上に何か羽織ってたかな」
父が言う。
「外に出る時は、ベージュのコートを着ていた可能性があります」
女性の眉が少し上がった。
「たぶん……この人です」
レイは息を止めた。
父の声が低くなる。
「どこで?」
「この学校じゃないです」
女性は写真を父へ返した。
「地震の日。私がここへ避難してくる途中です」
「地震の後ですか?」
「はい」
レイは女性を見つめた。
「……歩いてたんですか?」
女性は頷いた。
「歩いてました」
その一言で、レイの頭の中が真っ白になった。
地震の後。
歩いていた。
「怪我は?」
父がすぐに聞く。
「大きな怪我はしてなかったと思います」
「血は?」
「見てないです。服は汚れてましたけど」
「一人でしたか?」
「はい。一人でした」
父は一度息を吐いた。
それでも質問を止めなかった。
「話しましたか?」
「少しだけ」
「何を?」
女性は思い出すように視線を落とした。
「道を聞かれたんです」
「どこへの?」
「最初は、この辺の避難所を聞かれたと思います。でも……」
女性は少し考えた。
「息子を探してるって言ってました」
レイの指が動いた。
「……息子?」
「中学生の男の子。学校にいるかもしれないから、そっちへ行くって」
父が写真を握る手に力を入れた。
「学校の名前は?」
「そこまでは聞いてません」
「いつ頃ですか?」
「正確には分からないです。地震のあと、まだ明るいうちでした」
レイは何も言えなかった。
地震のあと。
母は生きていた。
自分の足で歩いていた。
誰かと話していた。
そして、自分を探していた。
今まで想像しかできなかったことが、初めて他人の口から事実として出てきた。
「本当に……母さん?」
レイが小さく言った。
女性はレイを見る。
「お母さん?」
レイは頷いた。
女性はもう一度写真を見た。
「顔はこの人です。髪も同じ。たぶん間違いないと思います」
父が聞く。
「何か持っていましたか?」
「小さいバッグだったかな……大きな荷物はなかったです」
「どっちへ向かいました?」
女性は体育館の外を指した。
「南の方です。学校へ行くって言って、そのまま」
父がすぐに地図を出した。
「見かけた場所、分かりますか」
「はい。たぶんここです」
女性が地図に指を置く。
北中学校よりかなり南。
レイ達の家と、レイの学校へ向かう道に近い場所だった。
父がその位置に印をつける。
「ありがとうございます」
父は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
レイも頭を下げた。
「ありがとうございます」
声が震えた。
顔を上げると、視界が少し滲んでいた。
レイは袖で目元を拭った。
女性が柔らかい声で言う。
「会えるといいね」
レイは頷いた。
「はい」
父がレイの肩に手を置いた。
「レイ」
「うん」
「母さん、生きてたな」
その言葉を聞いた瞬間、レイの中で張り詰めていたものがほどけた。
「……うん」
胸が苦しい。
でも、今までの苦しさとは違った。
「生きてた」
もう一度、自分で言った。
確認するように。
「母さん、生きてたんだ」
ルカが足元で鳴いた。
レイはしゃがんでルカを抱き上げた。
「聞いたか、ルカ」
ルカはレイの腕の中で顔を上げた。
「母さん、生きてたって」
ルカが短く鳴いた。
レイは少し笑った。
泣いているのに、笑えた。
父も目元を押さえるように一度顔をそらした。
すぐに戻したが、いつもの顔ではなかった。
レイはその顔を見て、父も同じだけ不安だったのだと改めて思った。
母の名前がどこにもなかった。
病院にも。
避難所にも。
確認所にも。
それでも探し続けていた。
今日、ようやく一つ分かった。
あの日の地震を、母は生き延びていた。
それだけで、探す意味が変わった。
「父さん」
「ん?」
「学校に向かったんだよね」
「ああ」
父が地図を見る。
「この場所からなら、お前の学校へ向かう道はいくつかある」
レイも覗き込む。
女性が示した場所から学校まで。
道路を一本ずつ目で追った。
大通り。
住宅街。
迂回できる道。
「あ」
レイの指が止まる。
「ここ」
父が見る。
「家の近くだ」
「うん」
学校へ向かう途中。
少し道を外れれば、自宅へ寄れる。
レイは腕の中のルカを見る。
「あの日、ルカは家にいた」
「ああ」
「母さん、それ知ってたよね」
「知ってる」
「じゃあ、学校に行く前に家に寄ったかもしれない」
父は地図を見たまま考えた。
「可能性はある」
レイはすぐに言った。
「行こう」
「今から?」
「うん」
父が外を見る。
まだ日が落ちるまでは時間がある。
「行けるな」
「じゃあ行こう」
レイはルカを地面に下ろした。
ルカはすぐに歩き出し、二、三歩先で振り返った。
「分かってるみたいだな」
父が言う。
「ルカだし」
レイはそう答えて、少しだけ笑った。
体育館を出る前に、もう一度女性へ頭を下げた。
女性も頷いた。
校庭へ出る。
給水の列。
荷物を運ぶ人。
家族を探す人。
さっきまでと何も変わっていない光景だった。
けれど、レイの足は来た時より軽かった。
母がどこにいるかは、まだ分からない。
今どうしているかも分からない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
母は地震のあとも生きていた。
そして学校へ向かっていた。
レイは地図を握る父の横を歩いた。
「父さん」
「なんだ?」
「家、急ごう」
「ああ」
ルカが先を歩く。
レイ達は北中学校を後にした。




