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RE:LIGHT  作者: SORA
第2巻「光の前夜」

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10/16

第10話「北の避難所」


 朝、避難所を出る前に、父は地図を広げた。

 昨日までに回った場所には、小さく印がつけてある。

 中心部。

 南側。


 駅の周辺。

 病院。

 臨時の安否確認所。

 レイは地図の北側に残った空白を見た。


「今日は、この辺だな」


 父が指でなぞる。


「学校が二つと、公民館が一つ。途中に小さい避難所もある」


「全部回れる?」


「歩ける道ならな」


 レイは頷いた。

 足元では、ルカが地図の端を前足で押さえていた。


「ルカ、それ地図だから」


 レイが手を伸ばすと、ルカは何事もなかったように前足を引いた。

 父が地図を畳む。


「行くぞ」


 外へ出ると、朝の空気は少し冷たかった。

 道路には、昨日運びきれなかった瓦礫が残っている。

 崩れた塀の横を人が一列になって歩いていた。

 通れる道は増えていたが、前のように好きな道を選べるわけではない。


 大きく割れた道路を避ける。

 倒れた電柱を避ける。

 通行止めの建物を迂回する。

 少し進むだけでも何度も足を止めた。


 途中、交差点で作業員が手を振っていた。

 信号は消えたままだった。

 車はほとんど走っていない。

 代わりに、荷物を載せた台車や自転車を押す人が目立った。


「父さん」


「ん?」


「昨日より、人増えてない?」


「外に出る人が増えたんだろうな」


「探しに?」


「それもあるだろうし、水や食べ物を取りに行く人もいる」


 前を歩く男性が、両手に大きなポリタンクを持っていた。

 反対側から来た女性は、紙袋を抱えている。

 誰も急いでいるようには見えなかった。

 けれど、立ち止まっている人も少なかった。


 みんな何かをしなければならない。

 そんな空気が街全体にあった。

 北側へ入ってから、レイ達はいくつかの避難所を順に回った。

 小さな公民館。寺の境内。校舎の一部が使えなくなった小学校。


 名簿がある場所では一枚ずつ名前を追い、ない場所では写真を見せて直接聞いた。


「見ていません」「分からない」「似た人ならいた気もする」


 そのたびに期待して、そのたびに違った。

 昼を過ぎる頃には、レイの返事も少なくなっていた。

 それでも、今日いちばん大きな避難所――北中学校がまだ残っていた。

 北中学校へ向かう道は、思ったより遠かった。


 途中の橋が通行止めになっていて、大きく迂回することになった。

 住宅街を抜ける。

 屋根に青いシートをかけた家。

 一階の窓が割れた家。


 玄関前に家具を出している家。

 道路脇には、家族の名前を書いた紙を持って歩く人がいた。

 レイはその紙を一瞬見た。

 自分達と同じだ。


 誰かを探している。

 少し先では、女性が写真を見せながら通行人に声をかけていた。

 返事を聞くたびに頭を下げている。

 レイは歩きながら振り返った。


 父もその女性を見ていた。


「みんな、探してるんだね」


「ああ」


「見つかってる人もいるのかな」


「いるだろう」


「母さんも、どこかで誰かに聞いてるかな」


 父は少しだけ間を置いた。


「分からない」


「そっか」


 今は分からない。

 レイはそれ以上考えなかった。

 確かなものがないうちは、勝手に答えを作りたくなかった。

 北中学校が見えたのは、それから二十分ほどしてからだった。


 校門の片側が大きく歪んでいる。

 校庭にはいくつものテントが並んでいた。

 給水車の前には長い列ができている。

 体育館の周辺では、毛布や段ボールを運ぶ人が行き来していた。


 これまで回った避難所より明らかに人が多い。


「ここだ」


 父が言った。

 レイは体育館を見上げた。

 入口には受付が二つ設けられていた。

 片方は物資。


 もう片方は安否確認。

 レイ達は安否確認の列へ並んだ。

 前には五組ほどいた。

 一人の男性が受付で名前を伝えている。


 係の人が名簿を探す。


「いません」


 男性は頭を下げた。

 次の女性は、逆に名前を見つけたらしい。


「あった……!」


 声が震えた。

 受付の職員が場所を教える。

 女性は何度も礼を言って走っていった。

 レイはその背中を見た。


 次は自分達かもしれない。

 そう思った。

 順番が来る。

 父が受付の男性に言った。


「蒼宮香織。三十八歳です」


 男性が名簿をめくる。

 レイは机の上を見つめた。

 紙の束が厚い。

 ここなら。


 ここなら、あるかもしれない。

 男性の指が止まった。

 レイの胸が跳ねた。

 だが男性は別の紙を取り出しただけだった。


 さらに確認する。

 数分。


「……ありません」


 胸の中が沈んだ。


「こちらに来た記録はないです」


 父が聞く。


「途中で別の避難所へ移った記録は?」


「それも残っていません」


「写真を見てもらえますか」


「はい」


 父が写真を出した。

 家族で撮った写真だった。

 母が笑っている。

 男性は目を細めた。


「私は見てないですね」


 隣の受付にも回してくれた。

 女性職員が写真を見る。


「うーん……すみません」


 さらに奥にいた職員にも聞いてくれた。

 誰も知らない。

 レイは唇を噛んだ。

 ここも違う。


「ありがとうございました」


 父が写真を受け取る。

 その時だった。

 受付の後ろで段ボールを運んでいた女性が、足を止めた。


「すみません」


 父が振り向く。

 女性は写真を見ていた。


「その写真、もう一回見せてもらっていいですか」


 レイの胸が鳴った。

 父が写真を差し出す。




 女性は受け取ると、じっと見た。


「この人……」


 レイは無意識に一歩近づいた。


「知ってるんですか?」


 女性はすぐには答えなかった。

 写真を近くで見て、少し離し、もう一度見る。


「髪、茶色っぽいですよね」


「はい」


 父が答える。


「肩より下くらいで、少し波がある」


「そうです」


「白っぽい服……いや、上に何か羽織ってたかな」


 父が言う。


「外に出る時は、ベージュのコートを着ていた可能性があります」


 女性の眉が少し上がった。


「たぶん……この人です」


 レイは息を止めた。

 父の声が低くなる。


「どこで?」


「この学校じゃないです」


 女性は写真を父へ返した。


「地震の日。私がここへ避難してくる途中です」


「地震の後ですか?」


「はい」


 レイは女性を見つめた。


「……歩いてたんですか?」


 女性は頷いた。


「歩いてました」


 その一言で、レイの頭の中が真っ白になった。

 地震の後。

 歩いていた。


「怪我は?」


 父がすぐに聞く。


「大きな怪我はしてなかったと思います」


「血は?」


「見てないです。服は汚れてましたけど」


「一人でしたか?」


「はい。一人でした」


 父は一度息を吐いた。

 それでも質問を止めなかった。


「話しましたか?」


「少しだけ」


「何を?」


 女性は思い出すように視線を落とした。


「道を聞かれたんです」


「どこへの?」


「最初は、この辺の避難所を聞かれたと思います。でも……」


 女性は少し考えた。


「息子を探してるって言ってました」


 レイの指が動いた。


「……息子?」


「中学生の男の子。学校にいるかもしれないから、そっちへ行くって」


 父が写真を握る手に力を入れた。


「学校の名前は?」


「そこまでは聞いてません」


「いつ頃ですか?」


「正確には分からないです。地震のあと、まだ明るいうちでした」


 レイは何も言えなかった。

 地震のあと。

 母は生きていた。

 自分の足で歩いていた。


 誰かと話していた。

 そして、自分を探していた。

 今まで想像しかできなかったことが、初めて他人の口から事実として出てきた。


「本当に……母さん?」


 レイが小さく言った。

 女性はレイを見る。


「お母さん?」


 レイは頷いた。

 女性はもう一度写真を見た。


「顔はこの人です。髪も同じ。たぶん間違いないと思います」


 父が聞く。


「何か持っていましたか?」


「小さいバッグだったかな……大きな荷物はなかったです」


「どっちへ向かいました?」


 女性は体育館の外を指した。


「南の方です。学校へ行くって言って、そのまま」


 父がすぐに地図を出した。


「見かけた場所、分かりますか」


「はい。たぶんここです」


 女性が地図に指を置く。

 北中学校よりかなり南。

 レイ達の家と、レイの学校へ向かう道に近い場所だった。

 父がその位置に印をつける。


「ありがとうございます」


 父は深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます」


 レイも頭を下げた。


「ありがとうございます」


 声が震えた。

 顔を上げると、視界が少し滲んでいた。

 レイは袖で目元を拭った。

 女性が柔らかい声で言う。


「会えるといいね」


 レイは頷いた。


「はい」


 父がレイの肩に手を置いた。


「レイ」


「うん」


「母さん、生きてたな」


 その言葉を聞いた瞬間、レイの中で張り詰めていたものがほどけた。


「……うん」


 胸が苦しい。

 でも、今までの苦しさとは違った。


「生きてた」


 もう一度、自分で言った。

 確認するように。


「母さん、生きてたんだ」


 ルカが足元で鳴いた。

 レイはしゃがんでルカを抱き上げた。


「聞いたか、ルカ」


 ルカはレイの腕の中で顔を上げた。


「母さん、生きてたって」


 ルカが短く鳴いた。

 レイは少し笑った。

 泣いているのに、笑えた。

 父も目元を押さえるように一度顔をそらした。


 すぐに戻したが、いつもの顔ではなかった。

 レイはその顔を見て、父も同じだけ不安だったのだと改めて思った。

 母の名前がどこにもなかった。

 病院にも。


 避難所にも。

 確認所にも。

 それでも探し続けていた。

 今日、ようやく一つ分かった。


 あの日の地震を、母は生き延びていた。

 それだけで、探す意味が変わった。


「父さん」


「ん?」


「学校に向かったんだよね」


「ああ」


 父が地図を見る。


「この場所からなら、お前の学校へ向かう道はいくつかある」


 レイも覗き込む。

 女性が示した場所から学校まで。

 道路を一本ずつ目で追った。

 大通り。


 住宅街。

 迂回できる道。


「あ」


 レイの指が止まる。


「ここ」


 父が見る。


「家の近くだ」


「うん」


 学校へ向かう途中。

 少し道を外れれば、自宅へ寄れる。

 レイは腕の中のルカを見る。


「あの日、ルカは家にいた」


「ああ」


「母さん、それ知ってたよね」


「知ってる」


「じゃあ、学校に行く前に家に寄ったかもしれない」


 父は地図を見たまま考えた。


「可能性はある」


 レイはすぐに言った。


「行こう」


「今から?」


「うん」


 父が外を見る。

 まだ日が落ちるまでは時間がある。


「行けるな」


「じゃあ行こう」


 レイはルカを地面に下ろした。

 ルカはすぐに歩き出し、二、三歩先で振り返った。


「分かってるみたいだな」


 父が言う。


「ルカだし」


 レイはそう答えて、少しだけ笑った。

 体育館を出る前に、もう一度女性へ頭を下げた。

 女性も頷いた。

 校庭へ出る。


 給水の列。

 荷物を運ぶ人。

 家族を探す人。

 さっきまでと何も変わっていない光景だった。


 けれど、レイの足は来た時より軽かった。

 母がどこにいるかは、まだ分からない。

 今どうしているかも分からない。

 でも、ひとつだけ確かなことがある。


 母は地震のあとも生きていた。

 そして学校へ向かっていた。

 レイは地図を握る父の横を歩いた。


「父さん」


「なんだ?」


「家、急ごう」


「ああ」


 ルカが先を歩く。

 レイ達は北中学校を後にした。


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