7話 果実の実り
エティが従者になってから、二ヶ月の月日が過ぎた。
あの日から彼女は、少しずつ従者としての訓練を受け始めていた。
そこで一つ、驚いたことがある。
彼女の礼儀作法は、最初から非常に洗練されていたのだ。
普通、ただの奴隷であればそんなことはあり得ない。獣人であろうが人族であろうが、庶民階級の子供なら礼儀作法など知らなくて当然だ。
それなのに、彼女の立ち振る舞いには、明らかに幼少期から厳格な高等教育を受けてきた者の名残があった。
彼女は僕が助けて以来、自分の過去を頑なに語ろうとはしなかった。
出会った当初の、あの完膚なきまでに破壊された無惨な姿を思えば、無理もない話だ。何か口に出せない凄惨な事情があるのは明白だし、進んで辛い過去を語りたがらないのも当たり前だ。
だが、その沈黙の裏にある『育ちの良さ』は、あまりにも異質だった。
(……ただの迷子の獣人、ってわけじゃなさそうだね)
あの時、彼女を乗せていた豪華な馬車。
徹底的に彼女の顔を焼き、存在そのものを消し去ろうとした加害者の意図。
まだ全体像を把握するには情報が足りなさすぎるが、それは追々調べればいいことだ。
そんなことを思考の隅で巡らせながら、僕は柔和な笑顔で彼女に声をかけた。
「さぁ、エティ! 足が止まっているよ。あと三周走ろうか」
「は、はいっ!」
よく晴れた日。
我が家の練兵場で僕が何をしていたかといえば――従者であるエティをひたすら走らせていた。
この世界において、どんなことをするにもまずは体力が不可欠だ。
戦闘はもちろん、実は魔術を行使するにしても、底の浅い肉体では話にならない。
なぜそう思うのか。まだ仮説の段階ではあるが、魔術を使いすぎた人間がその場に倒れ伏してしまう現象に理由がある。
そもそも、魔術とは一体何なのか?
僕は、この世界に生まれ落ちたその瞬間からずっと考えていた。
前世における魔術といえば、ペテン師や詐欺師が使うありもしない手品に過ぎなかった。
しかし、この世界では違う。火のないところに火を起こせるし、影から物体を取り出すことだってできる。
最初は純粋な疑問から、当時、姉のついでに僕も学んでいた魔術の女性師匠(なお、すでに教わることもなくなったため契約解除済みだ)に理由を尋ねたことがあった。
その時、彼女は自慢げにこう答えたのだ。
『魔術の行使には、過度な集中力が必要だからです』――と。
だが、本当にそうだろうか?
単なる脳の疲労だというのなら、なぜ『魔力切れ』を起こした瞬間に、全身を殴られたような肉体的疲労までが同時に押し寄せるのか。
そこで僕が導き出した答えが、細胞の超高速代謝による『体内の生体エネルギー切れ』という仮説だった。
魔力などという目に見えないものの正体を一言で表すのは難しい。
だが、たとえば前世の科学でいう特殊な素粒子のようなものが皮膚から放出されており、細胞がそれに特殊な命令を下すことで、魔術という現象を一種の物理現象として引き起こしているのではないか――。
そう考えたのである。
もちろん、それを現段階で証明することはできていない。
だからこそ、僕はエティの《《肉体》》を使って、それを証明しようと思いついたのだ。
「はっ……はっ……ご主人様……。指定の距離……終わりました……っ」
脳内で思考を巡らせていると、息を荒らげた彼女がランニングから戻ってきた。
僕は可憐で心優しい微笑みを浮かべて近づき、あらかじめ手元に用意していたガラス瓶を差し出す。
「お疲れ様、エティ。さぁ、これを飲んで少し休むといいよ」
「は、はい……っ! ありがたく、いただきます……!」
彼女は僕の差し出した瓶を、まるで聖遺物でも扱うかのように恭しく受け取り、不気味な色の液体を躊躇なく飲み干した。
彼女に渡したのは、僕が錬金術で自作した『肉体回復ポーション』だ。
――あの日、あの檻から彼女を買い取ったのは、本当に大正解だった。
なにしろ、僕に絶対の信頼を寄せている彼女の身体を使えば、あらゆる薬品の生体実験がやり放題なのだから。
ちなみに今渡したポーションは、肉体の疲労を劇的に回復させるための薬である。
魔力消費による疲労の正体は、脳の低血糖と筋肉の乳酸蓄積、そして生体エネルギーの枯渇だ。
僕の自作ポーションには、クエン酸による乳酸分解の促進成分や、脳へダイレクトに届く糖質、さらには中枢神経の疲労感を一時的に麻痺させる成分を黄金比で配合してある。だから、飲んだ瞬間に『疲れが吹き飛ぶ』ような劇的な体感が出るのだ。
もちろん、それだけでは肉体そのものに限界が来てしまう。
そのために、細胞のエネルギー源となる高濃度ブドウ糖や代謝促進物質を混ぜ込み、骨や筋肉の超回復を強制的に促す仕組みになっている。
(まぁ、完成させるまでは大変だったけどね)
当然、最初からこんな精緻な薬ができたわけではない。
彼女の身体に合わせて微調整を繰り返しながら、動物実験を重ね、さらには少し前に確保しておいた盗賊どもを何体か潰すことで、ようやく完成に至ったのだ。
だが、その甲斐あって彼女の身体能力はメキメキと上昇していた。
実際、始めたばかりの剣の稽古で、うちの剣術指南役であるエレナード相手に少しずつ打ち合えるようになってきている。
(素体自体も、かなり質が良かったみたいだしね)
そんなことを考えていると、屋敷の従女が静かに近づいてきた。
「エリウス様、お客様がいらしています」
「誰だい?」
「サーシャと名乗る商人です」
「あー、通してくれ」
従女は深く一礼すると、静かに客人を迎えに向かった。
数分後、若い女性が僕の近くへと歩み寄ってきた。
「坊ちゃま! あなたの忠実な商人、サーシャ・ブラックが来ましたよ!」
「ああ、ありがとう。薬草類はそこに置いておいて」
異様なテンションで話しかけてくる彼女はサーシャ。最近知り合った、小さな商店を営む商人だ。
元々、母様からのお小遣いという名の研究資金だけでは、実験を進行させるには心許なかった。
そこで考えたのが、実験の副産物で生まれた様々な試作ポーションの販売だったのだ。
ただ、実家に出入りする大手商人に話を持ちかければ、下手なことをすれば母様に察知されかねない。
そこで頭を悩ませていた時に巡り会ったのが、この女だった。
実験で使っている廃教会は、元々「学んだ回復魔術を使って貧民を癒したい」という慈善活動を大義名分にして借り受けている。
そんな教会にひょっこり現れたのが彼女だったのだ。僕の美貌に一目惚れしたとかで「何でも使ってください!」と申し出てきた。
そんなわけで、こちらで作ったポーションを彼女に卸して金に換えてもらっているのだ。
「そう言えばサーシャ、今回の売上はどのくらいだったんだい?」
「おお! そうでしたな! 坊ちゃまの取り分は……こちらです!」
そう言って、彼女は懐からずっしりと重い革袋を取り出して差し出してきた。
「大銅貨が十枚に、大銀貨が五枚……あ、金貨も一枚あるんだね」
「ええ! 坊ちゃまの薬は飛ぶように売れていましてね! 他のポーションとは効き目が全然違うって大評判なんですよ!」
サーシャはホクホクとした顔で語る。相当儲かったのだろう。
この取引の取り分は『六対四』で設定している。もちろん、六が彼女だ。
これには口止め料も兼ねているのだが、彼女にとっても破格の条件であることに変わりはなかった。
「……そう言えば坊ちゃま。少し前から面白いのを飼い始めましたねぇ。獣人の奴隷とは、維持費も相当嵩むでしょう」
サーシャはチラリとエティの方を見やりながら、探るように呟いた。
確かに獣人は大食いだ。維持するだけでも相応の出費が必要になる。
「まぁね。今はまだ役には立っていないけど、投資期間だと思っているよ」
「ははぁ……それはそれは。私のような商人には分かりかねる道楽ですな」
彼女は肩をすくめると、くるりと背を向けた。
「さてさて、用件は済みましたので、これにてお暇させていただきます」
「ああ、また薬ができたら頼むね」
「もちろんですとも!」
カツカツと小気味よい靴音を響かせ、サーシャは終始ハイテンションのまま去っていった。
手元に残ったのは、ずっしりと重い革袋と、新しい薬草の山。
そして――確実に『完成』へと近づきつつある、僕の《《最高傑作》》。
資金は十分に集まった。
サンプル(エティ)の肉体強度も、並の騎士を超えるレベルまで引き上がっている。
(さて……それじゃあ、そろそろ次の段階に進もうか)
ただ走らせるだけの退屈な基礎実験は、これで終わりだ。
僕は手元にある金貨の冷たい感触を指先で確かめながら、未だ息を整えているエティに向かって、これ以上なく優しく、そして残酷な毒を含んだ笑みを向けた。
そう、永遠を手に入れるための、僕の最初の『実験』。
その舞台の幕が、静かに上がろうとしていた。
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