6話 貴方のために
「話は以上ですか?……では、下がりなさい」
そう言うと母様は手元にあった羊皮紙に目を落とし、仕事を始めた。
「わかりました。それでは失礼します」
僕としては正直、目的を達成できたのでこの部屋にいる必要はない。それよりもやらなくてはならないことがたくさんある。それの準備をしなくてはいけない。
「あ、そうでした」
僕がつぶやくと母様は怪訝な顔をしながらこちらを見る。顔からは「まだ何かあるのか」と言わんばかりであった。
反応を窺ったが特にこれといって言われない。話していいと解釈し、僕は目的の話を始めた。
「エティが僕の従者になるのですから、ある程度教育をさせたいのです。姉上の家庭教師や僕の家庭教師、そしてメイド長にお願いしてもよろしいですか?」
「……あなたの家庭教師やメイド長に頼むのは良いでしょう。しかし、アンリの家庭教師はなぜですか?」
母様は理解できないという顔でこちらに疑問を投げかける。だから、僕は自信を持って返事をした。
「エティに剣術指南をさせたいのです」
「剣術指南?……それにですか?」
「ええ、彼女には僕のボディガードを兼任してもらいたいです。ほら、僕は男なので……ダメですか?」
僕はそう言いながら、最大限上目遣いをしながら母様に頼む。
正直、前の世界での価値観では「男がエティみたいな小さい女の子に守られる」なんて言えば軟弱とでも言われただろうが、この世界では違う。男とはひ弱であり、ボディガードを母がつけることはよくあることであった。
「……良いでしょう。エレナード殿には私から言っておきます」
長い長い沈黙の後、ようやく母様はこちらの要求を飲んだ。
「ありがとうございます。では、失礼します」
母様から家庭教師の件で承諾を得ることができた。これによって本当にやることは終わった。僕は一礼して部屋から出た。
扉を閉めて、近くにいたエティを見た。
「ごめんね。エティ」
「えっ?」
エティはキョトンとした顔でこちらを見る。その顔は何を謝っているのかわからないと言った顔であった。
「君の意見も碌に聞けずに、君の先を決めてしまったね」
「……そ、それは」
エティはそう言われて少し困った顔をして下を向く。その表情からは複雑な感情が読み取れた。
「だ、大丈夫、です」
そう言ったエティの表情からは、少しの怯えとどこか媚びるような色が見えた。
僕は心の中でほくそ笑む。彼女は少なくとも、僕に気に入られようとしているのだ。
(正直に言って、前世の気持ちで言ったら僕がこの状況になったら怒りしか湧かないと思うけどね)
それなのに媚びるということは、少なくとも僕を主人として捉えているということである。
それはこちらにとって大変都合がいい。怒り狂う人間を懐柔するのは難しいからね。
「そうか。わかった。これからよろしくね」
「あ……っ」
そう言うと僕は彼女を抱きしめる。抱きしめられたエティは緊張で体が硬直している。
「さて、じゃあ。行こうか」
「は、は、はいっ……」
明らかな緊張のせいか、声は上擦っていた。まるで裏返った童貞のような反応である。しかし、それも分からなくはない。僕だって前世で美少女に抱きつかれようものなら、それはキョドりにキョドるだろう。
そんな風にエティで遊んでいると、前から鬱陶しいのが歩いてきた。
「……エリウス。こんな所で何をしている」
「これは、アンリ姉様。ご機嫌麗しゅう」
目の前には僕を見下ろすように立つ女がいた。
彼女はアンリ・シュルナン・ド・アルセーヌ。
アルセーヌ家の嫡子であり、僕の今世の姉であった。
「エリウス。ここは母上の執務室だぞ。男のお前が近づいていいはずがないだろう」
「母様に呼ばれたのです。例の盗賊退治の件で」
「何?」
そう言うと姉様の顔はみるみる険しくなっていく。おおかた、男の僕が手柄を挙げたことが気に食わないのだろう。
次に言うことは大体予想できる。どうせ――
(「男の分際で剣を振り回すなどと女の真似事とは、そんなに女に生まれたかったのか?」)
「男の分際で剣を振り回すなどと女の真似事とは、そんなに女に生まれたかったのか?」
「……」
案の定すぎて言葉が出なかった。ここまで読みやすいと少しかわいそうになってくる。
そんな風に思っていながらこちらが黙っていると、姉様は僕の後ろに目を向ける。
その瞳には明確な嘲笑と悪意があった。
「ふん。汚らわしい獣人のガキとはな。でしゃばりなお前にはピッタリな存在だな」
そんな悪意に満ちた強烈な言葉は、僕の後ろにいるエティの小さな肩をびくりと震わせた。
獣人への差別意識。アンリ姉様からすれば挨拶代わりの軽い毒のつもりなのだろう。この世界の女性貴族にとって、庇護対象である男や他種族を見下すことは、息をするのと同じくらい当然の権利だからだ。
だが、僕にとっては都合の良い話でしかなかった。
「……アンリ姉様、僕のせいで不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。ですが、彼女は母上からも直々に許可をいただいた僕の正式な従者なのです。どうかこれ以上は……」
僕はあえて視線を少し下げ、悲しげに眉をひそめてみせた。弱々しい態度。姉様が大好きな「男は女に怯え、守られるべき存在」という歪んだ優越感を刺激するためのポーズである。
「母上が許可を……? チッ、母上もお前には甘すぎる。お前がそんな風だから、男の分際で戦場に首を突っ込むような、はしたない真似をするのだ」
アンリ姉様は露骨に舌打ちをすると、エティをもう一度だけ一瞥し、これ見よがしに鼻で笑った。
「まあいい。エレナード殿の訓練をその薄汚い獣人に受けさせるそうだな? せいぜい私の邪魔をしないように、部屋の隅で縮こまっていることだ」
そう吐き捨てると、アンリ姉様は我が物顔で廊下を歩き去っていく。
カツカツと響く靴音が遠ざかり、完全に気配が消えるのを見計らってから、僕は小さく息を吐いた。
(……相変わらず、単純な人だなぁ)
脳内で事前に組み立てていた通りの反応だ。ここまで予測が裏切られないと、哀れさすら感じる。
母上が僕のわがまま(エティの処遇や家庭教師の件)をあっさりと許可したのも、男でありながら魔法を持つ僕が「他家への最高級の婚姻外交カード」になるという打算があるからだ。
商品価値を落とさないための、ただの投資。それを「僕への甘やかし」としか受け取れない時点で、姉様の政治的視野は致命的に狭い。彼女にあるのは当主候補としての小さなプライドだけなのだろう。
「……あの、エ、エリウス様……」
ふと、服の裾を引っ張る微かな感触に気づいた。
振り返ると、エティが青ざめた顔で僕を見上げていた。その瞳には恐怖だけでなく、どろりとした言葉にできない暗い感情が渦巻いている。
「私のせいで、エリウス様が……その、お姉様にお怒りを受けさせてしまって……」
「ああ、気にしてるの? 大丈夫だよ、エティ。姉様はいつもああだから」
僕は努めて優しく、彼女の頭に手を置いた。柔らかな髪の感触が手に伝わる。その表情には少しの安堵の感情が伝わる。僕はそれに心の中でほくそ笑んだ。
「それに、間違えないで。君をここに連れてきたのは僕の勝手な都合だし、姉様に頭を下げたのも、僕が《《男だから》》というだけ。君が責任を感じる必要なんてどこにもないんだよ」
「でも……!」
エティの呼吸が荒くなる。彼女の頭の中には自身への侮蔑を僕が引き受けたように見えるだろう。彼女の中には小さな罪悪感があるのだ。
それこそが、あんな女《アンリ姉様》に頭を下げた理由だというのに。
僕は少し低い声で、エティの頭を撫でながら耳元で話し始める。
「いいかい、エティ。僕は死ぬのが大嫌いなんだ」
僕の言葉に、エティが小さく息を呑む音が聞こえてくる。耳元から離して顔を見ると、少し驚いたように目を見開いていた。
「だから、君には僕を守ってくれる盾になって欲しい。君を治したのも、君にエレナード殿の剣術を学ばせるのも、すべては僕が死なないため。君は僕の『作品』であり、僕の命を預かる特別な存在なんだ。あんなしょうもない他人の言葉なんて、気にする価値もないんだよ」
優しく微笑みながら、小さな毒を吐く。その言葉を僕は確信を持って、彼女の目をまっすぐに見つめた。
彼女の瞳の奥で、何かの輝きが見えるのが分かった。その感情はなんなのか想像はつかない。しかし、今の言葉が確かに彼女の胸に入ったのは伝わってくる。
(前世の感覚なら、こんな小さな女の子を盾にするなんて最低のクズだけどね)
でも、ここはそういう世界だ。そして何より、一度死を経験した僕にとって、倫理や道徳なんて生ぬるいルールは命の保障に比べれば羽毛よりも軽い。
エティは僕の手をギュッと両手で握り締め、震える声で、しかし明確な意志を込めて呟いた。
「そ、そうだったんです。…………わ、わかりました」
彼女はそう言うと、少し熱の籠もった目でこちらを眺めてくる。その表情を見て手応えは十分だと感じた。
僕は彼女の手を優しく引きながら、長い廊下を歩き出す。
「さあ、まずはメイド長のところへ行こう。僕の大切な従者に相応しい服を用意してもらわないとね」
歩を進めながら、僕は頭の中でこれからの「実験」の手順をアップデートしていく。
彼女にはこれからたくさん踊ってもらわなくてはならない。苦しいことも、楽しいことも経験して、立派な存在になってもらわなくてはならない。
僕の中に眠る『死の恩寵』の魔法が、冷たく、しかし心地よく脈打っていた。
永遠を手に入れるその日まで、僕はどんな手段だって使ってやる。美しい人形のような笑顔の裏で、僕は次の駒を動かす準備を始めていた。
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